小島毅『海から見た歴史と伝統』

読んでる途中。遣唐使以後もずっと、これほど、海外との交流が、あったというのは、知識がなかった。また、朱子学が、宗の時代に中国で普及したのと、江戸時代に日本で普及したことの、時間的な関係について、以下にある。

近世とは、朱子学が禅仏教から自立し、自己主張を始めた時代として捉えることができます。そして、この点で、中国で朱子学が興隆した宋という時代----内藤が近世の始まりとした時代----と同じ位相にあると言っているのです。日本では鎌倉時代(=中世)にすでに朱子学が知識として知られていたのに、仏教のなかでその付属物のような扱いを受けるだけで本格的な主張展開をしなかったのはなぜか、ということも、こうして比較してみると見えてくるような気がします。社会の成熟です。私はその最も重要な要素として、印刷出版文化の確立があったと考えます。宋と江戸時代は、その点で同格なのです。内藤の言う「平民の時代」という表現が適切かどうかはさておいても、少なくとも、それまでの「貴族」という閉じられた身分・階層とは違い、より開かれた多くの人々が文化に接する機会を得るようになりました。印刷は知識の流通を推進したのです。

これも、科学技術だ。マルクス的な問題意識だ。朱子学とルターの宗教改革とも比較していた。ちょっと思ったのは、「利己的な遺伝子」にあった、ミームのことだ。印刷という「ヴィークル」をみつけ、一気に発展・増殖したのだろう。
あと、儒教は実際のところ、江戸時代には普及せず、実際に社会全体に普及したのが、明治であったという指摘がある。ただその、儒教は、結局のところ、中国のものとはかなり違っている。

そうしますと、儒教についてこういう奇妙な言い方が出てくるようになります。「孔子孟子の理想は、支那なんていうあんなところにではなくて、わが日本でこそ実現した」と。(中略)また、君臣関係、主君に対して忠義を尽す、ということはもちろん儒教の教えとして言われているわけですが、ちょうど日本で言いますと明治、大正の変わり目に中国で革命が起こります。辛亥革命です。1911年、日本で明治から大正に変わるのと同じころに辛亥革命が起きるわけですが、その辛亥革命では、だれ一人清王朝に殉じなかったのです。実際、死んだ人はいるのですけど、日本では当時こういうふうに言われたわけです。「革命が起こって、皇帝が退位して国が変わったのに、中国の士大夫は、だれ一人殉死していない。腹を切らない」と。翻って、「日本はすごいだろう」という話になるわけです。

海からみた歴史と伝統―遣唐使・倭寇・儒教

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