みさきち登場!

アニメ「とある科学の超電磁砲」が、今期のテレビアニメとして放送されているが、最新の第8話では、とうとう、

が、今までの「モブキャラ」的な扱いを脱却して、主人公レベル、もっと言えば、

  • ニューヒロイン

の位置まで、格上げして、登場している(ちなみに、「みさきち」というのはよく分からないが、非公式に、ネットでそう呼ばれているのをよく見かける、ということで、その由来とかはよく分かっていないw)。
このことについては、このアニメについて造形の深い人たちにとっては、待ちに待った、といった、感慨深いところがあるようで、一部のファンの間では、もりあがっているようだ。
まあ、今さらではあるのだが、アニメ「とある科学の超電磁砲」とは、ラノベとある魔術の禁書目録」から、スピンオフした作品であって、漫画版を、一応の原作としており、今期のアニメは、この漫画版に、基本的には踏襲したストーリーが今のところ展開している。
このアニメ「とある科学」の方は、アニメ「とある魔術」と比べても、人気が高く、その理由としては、なかなか考えさせられるものがあるのだろうが、一つには、こちらが

  • 科学サイド

の物語がメインになっている、ということが重要なんだろうな、と思っている。
主人公の、御坂美琴(みさかみこと)にしても、食蜂操祈(しょくほうみさき)にしても、子どもの頃から、

  • 科学実験のサンプル

として、科学者たちのラボラトリーの中で、ほとんどの半生を過してきているわけで、そういった状況は、どこか、子どもの頃から、病気がちで、いつも入院をしているような子どもに似ている印象を受ける。
言うまでもなく、大学病院というところは、本来は研究施設なのであって、患者も一つの実験サンプルだということを実感させられる。つまり、この科学者集団には、これと同じ匂いがするわけである。
ようするに、「とある科学」の方は、

  • 近代科学の「発展」

を真正面からとりあげた作品となっていて、そこが比較的私たちの「関心」の延長にあるものとして、興味をもたれた、ということなのかもしれない。
さて。「科学の発展」はバラ色なのだろうか? それは、今回の新型コロナ騒動をみても分かるように、どこか絶望的にさえ思えてくる。ある意味で、こんなに簡単に世界はパニックになるんだ、というのは、驚きであるが、まあ、それだけ

  • 脆弱

だということなのであって、科学の発展によって、自在に人間が、このウイルスを「遺伝子操作」するようになれば、もっと

  • 悪質かつ毒性をもった

ウイルスが世界中に「科学者」によってばらまかれる時代が、すぐそこまで近づいているのではないか。では、なぜ科学者は、こんな「危険」なウイルスを作成するのかといえば、それが

  • 科学の発展

だから、と言うしかない。つまり、これは「科学の競争」が彼らを強いているのであって、実際に新しい発見をすればするほど、その科学者集団の中では、ちやほやされる。つまり、この動きは無限に続き、止まらないのだ。
科学がこのまま発展したら、どうなるのか? おそらくは、その「利便性」によって、バラ色の世界を迎えるよりも、はるか手前で、

  • この地球を何百回も「破壊」できる科学兵器を人類は作り出し、それを何百回も使う前に、人類は滅び、そこにはただただ、そこに昔人類がいた、という痕跡だけを残して、しかし、それを理解できる知的な存在は、未来永劫あらわれることはないだろう

といった結末を迎えることが目に見えるようであるw
さて、話を戻して、食蜂操祈(しょくほうみさき)とはどんな存在なのか、ということについては、例えば、以下の二つのブロクの記事なんかを参考にしていただきたい。

可愛すぎるぞ食蜂。 とある科学の超電磁砲T ♯8 - デストピア経典~曼荼羅畑でつかまえて(三代目)

【とあるシリーズ】食蜂操祈は上条当麻が大好きだった?過去の出会いと悲しい結末【とある魔術の禁書目録】 | TiPS

もう一度整理すると、食蜂操祈(しょくほうみさき)は学園第5位のレベル5という能力者であるのだが、これまでの『とある魔術』『とある科学』では、ほとんど登場していなかった。ところが、今期のアニメシリーズで、まさに「主人公並み」の活躍をすることになる。そして、この漫画版のストーリーは一つの「謎」を残して、終了するわけである。つまり、みさきちと、

との関係である。すでに、アニメでは描かれているが、当麻と美琴が話していた間に入って、みさきちは、やけに「親しそう」に当麻に抱きついて、見せつける。ところが、当の当麻自身はまったく、みさきちを知らないかのような態度をとる。
また、これからアニメでは描かれる場面であるが、美琴とみさきちのピンチに当麻が助けにやってくるとき、みさきちは、今まで見せたことがないような「笑顔」で彼の、「ヒーロー」の登場に胸を踊らせる。
つまり、どうもみさきちは、かなり当麻について「詳しい」し、好意をもっているようなのだが、それに対して、当麻は、さっぱり、記憶にすらない、という関係のようで、それが最後まで、謎として残る。
そして、その謎が説かれるのが、ラノベ『新約・とある魔術』の第11巻であった。ここでは、それまでずっと魔術側のストーリーが描かれていたにも関わらず、この巻で、まったくの突然に、みさきちの過去談がスタートする。

『......なんていうか、疲労力っていうか、ぜぇーんぶ面倒臭くなっちゃったわよえぇ』
記憶。
思い出。
人間関係。
それら全て。
くるんくるんと回していたテレビのリモコンを、彼女は自分のことめかみに突き付ける。まるで、拳銃自殺でもしようとしているかのように。
鎌池和馬『新約 とある魔術の禁書目録11』)
新約 とある魔術の禁書目録 (11) (電撃文庫)

何かが、彼女の指の動きを引き止めているような気もした。
だけど、得体のしれない重石から逃れようとする心の方が大きかった。
食蜂の親指が、蠢く。
能力が発動する。
......まさに、その一瞬手前の出来事だった。

『あれ? お前、そんなトコで何をやっているんだ?』

男の声があった。
鎌池和馬『新約 とある魔術の禁書目録11』)
新約 とある魔術の禁書目録 (11) (電撃文庫)

今のテレビシリーズの一年前。みさきちは、科学研究所の中で、モルモットのように、実験動物のように扱われる日々に疲れたある日。自らの、「メンタルアウト」という精神操作の能力を使って、自らの

  • 一切の記憶を消去する

という、ある種の「自殺」を行おうとしていた。彼女は、自らの、こういった日々に疲れていたのだ。今のまま生きていてもしょうがない、と。
しかし、その瞬間。ある男の子が彼女に声をかけた。それが、上条当麻だった。
その後、いろいろななれそめの後に、当麻は彼女を守るため、死の直前まで行く重症を負うことになる。そして、その命を救うには、みさきちの「メンタルアウト」の能力が必要であったし、しかも、その結果は予想されたように、後遺症の残るものであった。

のちに、ある医者はこう語る。
『これは記憶の破損というより呼び出し経路の破損といった方に近いね? この少年は、君の事を話していても、それを思い出す事ができない。人の顔や名前を格納する部分で、君の枠だけ物理的に潰れているのに近い。きっと、君の能力でももうどうにもならないんじゃないかな?』
鎌池和馬『新約 とある魔術の禁書目録11』)
新約 とある魔術の禁書目録 (11) (電撃文庫)

さきちは、当麻を覚えている。しかし、当麻はみさきちに、何度会っても会っても「すぐ」に彼女を忘れてしまう。そういった

  • 後遺症

が残るようになった。
さて。みさきちにとって、当麻は「ヒーロー」である。彼女を助けてくれた、救ってくれた、命の恩人である。彼女の、当麻に向けた「愛」は、日に日につのっていく。しかし、この恋は、「絶対」に実らない。なぜなら、当麻は彼女と、出会うたびに、何度でも何度でも彼女のことを忘れてしまうから。
さて。
この「恋」は実るのだろうか?
というのは、ここである一つの「奇妙」な「変化」が訪れるわけである。このラノベ第11巻以降。たびたび、みさきちは、作品に登場するようになった。そして、その度に、

  • さきちが、当麻に積極的にラブ・アッピールをする

ようになっている。つまり、この作品は、完全に

  • さきちと当麻の「イチャラブ」作品

に変わってしまったのだw うーん。おそらく、ここには作者による、自らが生みだした、みさきちというキャラへの、限りない思い入れが込められているのであろう。
考えてみてほしい。
どうしてこのまま、みさきちの当麻への愛が実らないでいいことがあっていいだろうか?
この、ほとんど不可能としか思えない彼女の思いを、なんとかしてかなえてあげたいではないか。しかし、それはどうやって?
どんなに当麻が彼女のことを覚えてなくても、彼女の中には、たくさんの彼との思い出がつまっているのだ。どうしてそれを忘れることができるだろう?
そもそもこのストーリーは、彼女の(ある種の)自殺行為(自殺未遂行為)から始まっていた。つまり、彼女は

  • 生まれてこない方がよかった

と本気で思ったのだ。そして、その自殺を思い留まった「理由」は、彼と出会った、という、あまりにも「ちょっとした」出来事だった。
まあ、人生なんて、こんなものなのである。生きるのも死ぬのも、紙一重であるなら、

  • 愛する

かどうかも、「同じくらい」に紙一重であって、それに対して、どうして私たちがそれを「意味のないこと」などと言えるだろう...。

新型コロナに対する私の違和感

私が、このブログで新型コロナ問題をとりあげたときの、主な論点は、ダイアモンド・プリンセス号での、岩田先生への、自民党ネットサポータークラブの方々の、罵詈雑言への違和感であった。
次の私の論点は、この新型コロナと、インフルエンザとの比較についてであった。つまり、新型コロナは、インフルエンザでアメリカがすでに、大量に死者がでていることに比べれば「騒ぎすぎ」じゃないか、とする言説への違和感であった。
そして、今日、東京オリンピックの延期が発表され、この新型コロナは、「パンデミック」と正式に定義され、ヨーロッパ、アメリカのニューヨークで、都市閉鎖にまで至る事態となっている。
対して、今の日本の感染者数、死者数が、そういった国々と比べて少ないことが、「謎」として世界中から報道されている。つまり、例えば、東京において、そこまで日常生活を制限することなく継続できている理由はなんなのか、というわけである。
もちろん、たんに検査数が少ないだけのことだとって、安倍政権を批判している人たちが、たくさんいるわけであるし、近日中にパニックになると予測する人だっている。しかし、ここでは「あえて」この議論に乗ってみよう。
もちろん、適当に文化的な特徴をあげつらうことなら、だれだってできるだろう。みんながマスクをしている。スキンシップをしない。満員電車で、誰も目を合わせないし、話をしない。トイレに行けばどこでも、洗面所には石鹸水があって、みんな当たり前のように、ごしごし洗っている。また、少子化、つまり、「セックスレス」もあるのかもしれない。私たち日本人は、これを「クール・ジャパン」と呼んできた。しかしむしろ、これは日本人がみんな

  • 孤独

であることを意味していた。つまり、人間関係が希薄なのだ。
しかし、このことは逆に考えることもできる。つまり、こういったライフスタイルを今の日本人が選んでいることには、一定の合理性があるということなのではないか? 新種のウイルスは、当然、今後も何度も何度も現れるであろう。そして、その度に、世界中はパニックとなり、パンデミックとなる。そして、その度に、少しずつ人々は学習していく。どういった「生き方」が今の時代に合った性質のものなのかを。
このことは、多くの経済事業についても言える。今後、こういった「ウイルス」に弱い形態の経済行為、イベント活動は少しずつ減っていくのかもしれない。そして、「パンデミック」が日常となった世界では、このウイルスとの「共存」がテーマとなっていく。世界中がウイルスで覆われながら、その中でもあえて「楽しめる」エンターテイメントとはなんなのか、が問われるようになっていく...。
私が今回の新型コロナ問題をみていて考えるのは、3・11のときに、さかんに問題にされた

のことだ。一見これは、他人を見殺しにする、利己的な行為のように思われる。しかし、緊急時において、やはりこれは正しいわけである。3・11の津波のとき、多くの人たちが逃げ遅れて帰らぬ人となった。それは、彼らがどうしても

  • 身近な人を見捨てられない

と考えたからであった。その「家族を大事にする」、一つの「利他的」な行為が、結果として逃げ遅れる、という事態になった。彼らは、本当の「緊急時」に、どういった行動をとらなければならないのかを、日頃話し合うことがなかった。そういう意味では、私たち日本は「平和」な日々をおくってきたのだ...。
私が今回の新型コロナ問題に思うのは、80年代のバブル崩壊から、90年代のデフレ、就職氷河期を経て、ゼロ年代にポストモダニストを中心にマッチョな

の徹底を「日本国家が借金によって滅びる」という、財務省の世論操作の口パクを繰り返して、徹底して日本の

  • 福祉

を「破壊」しようとたくらみ、画策し続けた連中がどれだけ「危険」な、「売国奴」な連中であったのかが、今回の問題によって証明された、と考えている。
彼ら「ポストモダニスト新自由主義者」たちは、どうやって大衆を

  • だまくらかして

日本の「福祉」を破壊するのかに、画策したか。彼らは、本気で、自分たちの舌先三寸で、日本国民を操り、日本の福祉制度を破壊「できる」と考えて、さまざまな場面で、そういった意図を隠すこともせずに、開陳し続けていた。彼らがまず最初に狙いをつけたのが

であった。彼らはこれを「廃止」しなければならない、と考えた。つまり、

にしなければならない、と。おそらく、彼らを裏で操っていたのは、アメリカの保険会社だったのだろう。つまり、彼らがそうやって「ステマ」をすることによって、こういった外資から、彼らに莫大な感謝料が払われる仕組みになっていたのだ。つまり、

だw
(まあ、ホリエモンを始めとして、当時の例えば、ニコニコ動画などでさかんに対談をしていたわけだ。言うまでもなく、その一人に、東浩紀先生もいるわけで、彼は何度もホリエモンをゲンロンの対談ゲストとして呼んでいるわけでw)
彼らは何度も何度も、自分の理想とする政治制度は「リバタリアニズム」だと言っている。彼らは「税金」に反対だし、本気でこういった貧乏人を「助ける」ための政治制度を、破壊しようと、陰で画策し続けた。
恐しいね。
もしも、こんな連中に日本をのっとられていたら、今の日本はどうなっていただろう? いや、今でも、竹中平蔵を始めとして、TPPに代表されるように、自民党には、こういった日本をアメリカに、なんとかして「売って」、小金を稼ごうという「売国奴」「鬼畜」が回りを固めて、隙あらば、国民の福祉をなんとかして破壊してやろうと画策している。そして、なんとかして、日本をアメリカに売ることによって、アメリカから「利益」を得て、金持ちになろうという

が、わんさかいる。つまり、この「戦い」は少しも終わってなんかいないのだ...。
私がこの新型コロナを巡る今の日本の雰囲気に違和感があるのは、あんたたち普段から、この日本の国民健康保険制度を守ろうと、戦ってきたのか、っていうことなんだ。言うまでもなく、日本には多くの病院に通って、この国民健康保険制度のお世話になっている人たちがいる。それに対して、長谷川豊とかいう鬼畜が、こういった病気の人への保険をなんとかして、止めさせようとして画策して、政治家になろうと立候補までした。そのとき、一体どれだけの日本人がこいつを「落選」させるために戦ったんだろう。
私は今回の新型コロナでも、もっとウイルス検査の範囲を拡大すればいいと思うし、世界と比べても、抑えぎみなのには、違和感がないわけではない。しかし、そうやって

  • パニック

になって、やっぱり国民健康保険制度って大事だ、って言い始めているのって、なんのことはない

  • 自分が今まさに「当事者」になろうとしている

から、ってだけなんじゃないの? 言うまでもないけど、こういった「感染症」の問題って、医学部のまず最初に習う、医学の基本中の基本なんだよね。つまり、この「感染症」は、医学関係者だったら、ずっと口をすっぱく言われ続けてきた

  • 事態

なんであって、少しも「想定外」のことじゃないの。ずっと、彼らが考え続けてきたことなの。そして、もちろん数は少ないかもしれないけど、日本中には、さまざまな病気と戦っている人たちがいる。そういった人たちは、今回の新型コロナ騒動がなくったって、ずっと病気と戦っていた。じゃあ、今回の新型コロナで「パニック」になった

  • 健康人

たちは、今まで、一度だってこういった人たちの苦しみについて考えたことがあるの? なんか、こういう人たちのために、行動しようと思ったことあるの? 今、急に自分の目の前に「パニック」が迫ってきて

  • なんか悟った

って、まあ、随分と「平和ボケ」なんじゃないかなあ、と、ちょっと皮肉でも言ってみたくなるんですよねw
おそらく、今回の新型コロナ騒動でも、明らかに霞が関の態度は、政局がらみの「うさんくさい」動きばかりで、まったく信用できない。なんとかして、憲法に非常事態条項を書きこもうという連中が、このウイルス問題を

  • これ幸い

と、利用して、火事場泥棒よろしく、こっそりと自分たちの政治目標をすべりこまそうと、隙あらばで画策しつづけている、まったく信用できない行動を続けている。
しかし、他方において、日本では比較的に

  • 地方のリーダー

たちの「高い見識」が世界的に評価されていたりする。

「隗より始めよ」は中国の古典「史記」に由来する。戦国時代、郭隗(かく・かい)という人物が燕(えん)の昭王に賢者の求め方を問われて、賢者を招きたければ、まず私を重く用いよ、と答えたという。
つまり「身近なことから(あるいは、いい出したものから)始めよ」という意味だ。中国では「請自隗始」「先従隗始」などという。
「隗より始めよ」は日本でときどき使われる表現だが、注目を集める記者会見の場で、鈴木知事がこの中国と縁の深いフレーズを使ったことが、ますます中国人の心にぐっと刺さった。
中国人を感激させた、鈴木直道・北海道知事が発した2つのフレーズ(中島恵) - 個人 - Yahoo!ニュース

この北海道知事は、なんと、安倍総理より前に、北海道での小中高校の閉鎖を宣言している。財政破綻をした夕張市の市長を務めた後、北海道知事になったこの若い青年は、実際に今の、北海道での拡散の抑制に一定程度成功している、と言わざるをえないだろう。

そして和歌山県庁にも自立心の強い仁坂吉伸知事がいた。仁坂は政府のガイドラインに従わず、「独自のアプローチ」を取るとした。県福祉保健部の野尻孝子技監はこう述べた。
「和歌山ではこの状況に柔軟な対応を取ることに決めました。中国人との接触があった人だけに限定していては、感染者を見つけるのが困難だと判断したからです」
米紙が新型コロナ対策で「和歌山モデル」を絶賛 | 日本政府の指針に従わなかった勝利 | クーリエ・ジャポン

この和歌山のケースもそうだが、

  • 県知事のリーダーシップ

で、国の「指導」を、明らかに「超えて」行動していることに注意がいる。つまり、これが「政治判断」なのだ。リーダーが決断するのである。

中国駐日大使館ツイッターは24日夜、「愛知県豊川市のマスクが不足していることをニュースで知った中国側友好都市の江蘇省無錫市新呉区は至急マスク五万枚を調達し、今日から順次郵送します。これこそ中日友好の底力です」と表明。実際に伝票を作成する職員や、支援物資入りのダンボール箱の写真を投稿した。
「マスク返して」豊川市要望に中国友好都市が対応へ 「恩を10倍返し」と中国大使館(J-CASTニュース) - Yahoo!ニュース

今、日本のネット界隈では、この市長の発言が非難を浴びている。つまり、なさけないだとか、恥かしいだとか。
しかし、思うのである。
本当に困っているなら、リーダーは頭を下げるんだ、って。そうやって、一度恥をかくことで、多くの人を救えるなら、なんでやらないことがあろう。むしろ、日本人全員で中国に、頭を下げて、マスクを輸出してもらおうじゃないか。それが必要なら、なにをやらないことがあろうか...。