シン・ゴジラについて

映画「シン・ゴジラ」は、庵野監督のエヴァンゲリオン以来の問題作だ。しかし、そう言うわりには、あまり話題になっていないのではないか。土曜に映画館で見たが、それほど満員というほどではなかった。これから、多くの人が映画館に向かうことになるのかもしれないが。
なぜゴジラなのか? それは、なぜ日本なのか、なぜ

  • 東京

なのかに非常に関係している。ゴジラはまるで、引き寄せられるかのように、東京の中心を目指して、移動する。そして、口から放射線の炎を放って、東京中を破壊する。
このことは、東京に住む私たちにとって重要である。ゴジラは「あえて」東京の、いわゆる「名所」と呼ばれるようなところを「破壊」する。それは、私たちに「東京大空襲」を思い出させる。国民は、ゴジラの「襲来」に対して、地方に「避難」するのだ。
なぜ日本の国民は東京に集まるのだろうか? このことと、ゴジラが東京の中心を目指すことは大きく関係しているように思われる。ゴジラは日本の国民が東京に集まるから、東京の中心を目指すのだ。
はっきり言おう。
今回の庵野さんのゴジラは、間違いなく、3・11のパロディだ。これは、私たちが3・11で見せられたもの、そのものではないか!
そのことは、この映画の最後が非常に象徴している。言うまでもなく、ゴジラ放射性物質の塊だ。ということは、東京の中心に福島第一ができた。これから、どうするのだろう? 福島第一の放射性物質は、人間は近づけない。そもそも、最初からチェルノブイリと同じように「石棺」にするしかない、と言われている。では、東京を「石棺」にするのか? 物語の最後は、まず、

  • 東京の復興

の可能性に、エリートが「明るい」表情をするところから始まる。つまり、また、日本国民は「東京に向かう」ということを示唆している。しかし、他方において、人類はもはやすでに、ゴジラ

  • 共存

して生きていくしかない、ということも示唆している。作品はこの二つのダブルバインドのメッセージを発している。ゴジラという作品と特徴は、まったく、東京について「ポジティブ」なメッセージを感じられない、というところにある。東京は「呪われている」。それは、私たち日本の田舎者たちが、東京の中心に目指して上京してきて、その頂きにおいて、相模原市の植松容疑者のように

  • 狂って

いく姿を思わせる。ゴジラが東京の街を破壊するのは、相模原市の植松容疑者が「重篤障害者を<救おう>」として行った行為にどこか似ている。つまり、原発

  • 東京を救おう

として「動かされる」、エリートたちのパターナリズムの恐しさを象徴する。
例えば、金曜日のハチ公前の集会で鳥越さんは、東京の大地震に備えて、火災防止の機器の東京中の普及を訴えていたが、鳥越さんを応援しない人たちは、この政策に反対なのだろうか?
東京は狂っている。それは、東京人が狂っているのであって、相模原市の植松容疑者が狂っているのと同値だ。
ゴジラ映画の特徴は、まったく「カタルシス」がないことだ。ゴジラを倒しても、まったく「勝った」というスカッとした感情が湧いてこない。それは、ゴジラお倒したことが、まったく、なにかが終わった、という感情をうまないから。つまり、これは「始まり」にしか思えない。それは、悪夢のような東京が東京圏の周辺に、原発を作って、中心部を下支えするような

  • 東京システム

への「悪夢」が続くかぎり、ゴジラは何度でも東京に現れる、ということを意味するから...。