柄谷行人「整体としての革命」

彼の場合、基本は、「個人主義」なのだろう。

だから、簡単に言うと個人主義ですね。人に支配されたくないし、人を支配したくない。そういう気持ちがあったね。

であれば、どうするのか。「人に意志を強要しない、暴力も使わない、それでいて自然に人が変わってしまう」、そういうものを目指すという。

僕は昔からいわば暴力的に考えているのは、人間を暴力によって変えることはできない、ということですよ。意志によって人が変わるという考えは、暴力で人の意志を変えるということになりやすい。しかし、そんなことでは人は変わらない。それと対照的に、先ほど話した構造主義的な見方がある。意志によって構造を変えることができないという。意志そのものが構造から規定されているから。こういう考え方は結局「宿命論」的になる。ところが、僕は、人に意志を強要しない、暴力も使わない、それでいて自然に人が変わってしまう、というようなやり方はないのか、と思うんですよ。

それで、「選挙+くじ引き」(や「地域通貨」)を提唱するわけだ。あと、「自由主義」について、「代表制」とのからみで、以下のように言っている。

ふつう自由主義というのは、政治的には、匿名投票のようなシステムに該当すると思います。匿名制によって、各人は社会的属性をはぎとられて純粋な個人となるわけです。しかし、匿名制自体はアテネにもあります。というより、アテネで、独裁者を防止するために考案されたものです。権力をもつ人の前で、面と向かって発言したり挙手したりするのは難しいということで。しかし、アテネの民主主義は根本的にくじ引きにもとづくもので、匿名投票や代表制にもとづくものではなかった。ところが、西欧ではブルジョア革命以後にこのような代表制、そして匿名投票のシステムを導入したわけですね。しかし、それが独裁者を防止できたか。匿名による代表制というのは、誰が誰を選んだか分からないということになっています。逆にいうと、選ばれた人と選んだ人は無関係です。誰が誰に投票したということを証明できないという建前なのだから。だから、このシステムでは原理的に、代表者が誰かを代表するということはありえない。その結果、人々はいつも代表者に裏切られていると感じる。そこで、「真の代表者」をいつも願望することになる。代表制そのものが、真の代表を要請するようになる。そして、真の代表者とは、独裁者です。それは代表制民主主義から出てくる。

脱線するが、60年代から70年代の学生運動の特徴について、次のように言っている。現象は、単純に、人間の意志の産物ではない。マルクス的な認識だと思う。

僕がもう一つ感じるのは、学生の比率の違いですね。60年代から70年代にかけて学生数が増えて、同じ世代の大学生が倍以上になった。60年に首相の池田勇人が「所得倍増」といったけれども、本当に学生数が倍以上になった。学生運動の性質が変わるのは当然ですね。一方、大学は制度や施設の面からいって、こういう変化にまるで対応できていなかったと思うんですね。60年代の学生運動は、そういう状態から出てきた問題が結構あると思う。

私たちは、なにかをやったり実現したりを目指している。しかし、そうはいっても、それは、「資本制経済の中」でのことで、その足場を無視した議論は、机上の空論ということだ。

昔の社会主義を罵倒するのはいいが、君自身はどうするのか。資本主義の方がいい、といってすますのか。それなら、ただの保守のほうがましです。自立というなら、資本制経済の中での自立という問題を考えるべきだと思います。

「媒介的」な、差別・加害については、以下のように言っている。結局、「自発的」を重要視する。

直接的な差別とか加害とかは、わりあい簡単です。直接的でない、つまり、媒介的である場合に、そのようなことをいうのは難しいわけですね。僕はそのような事実を知らせるべきだけれども、糾弾すべきでないと思う。知らされた人が自発的に何か行動する可能性があるのですから。ところが、糾弾されて何かをしても、自発的ではないし、したがって倫理的ではない。どんないいことであっても、他人に倫理的に強制するかたちでやってはいけないと思うんですね。

共産主義とかマルクスとか言うけど、プロレタリア革命というのは、非常に現代的な問題を文学的に言っていたんだと思う。なにか、派手なイベントが起き(て、日頃のうっぷんを晴らしてくれ)ると思う方がどうかしているんだ。

プロレタリア革命は、ブルジョア革命のように華々しくない、ヒロイックでも、男性的でもない。静かで、目立たないものです。