伊藤正敏『寺社勢力の中世』

日本で生まれ、ここまで生きてきて、仏教というものが、葬式や墓参りや家の中の仏壇を通じて、ずっと身の周りにあったことを、当たり前に思う感覚は、普通であろう。
しかし、よく考えてみれば、そのことは、多くの歴史的事実の、蓄積の上で、実現されている、とても奇妙な事実に思えてこないであろうか。
例えば、中国の古典「論語」が、天武天皇から初まる、大和体制における、律令国家の成立において作成された歴史物語書「古事記」の中に、その書物名が(献上品として)記されたことは、とてつもなく決定的な事態、だと思うんですね(日本書紀にも、文献が献上されたことは記されているのだから、補注的には同値だ)。
これによって、天皇家は、末代まで「論語」を生きること、「論語」における孔子の思いをこの世界に実現するために国民を教唆することを、宿命付けられる。またそれは、日本のすみずみまで、(また現代に至るまで、)あらゆる教育機関において(師弟関係の存在する場所、すべてにおいて)、先生たちは、孔子が自らの弟子たちに接するその本意を実践し、体現することが、生きる(芸の)道、そのもの、となっていったわけだ。
同じことは、仏教にも言える。日本書紀の最後で、(いろいろ紆余曲折はあったが)仏教が正式に国家宗教として採用されて以来、この国はずっと、仏教国「である」のだ。

今日も生きている寺社文化のナンバーワンを一つだけ挙げるなら、それは「日本語」である。都市・未来・上品・大衆・商人・観念・道具・投機・脱落・知事・平等・機嫌・世間......ごく普通に使われているこれらの日常語は、どこから来たのであろう。答えは簡単、全部仏典からである。岩本裕『日常佛教語』(中公新書)を見ると、こんな言葉もそうなのか、と、その数のあまりの多さに驚かされる。では仏語を日常語にかえて今に伝えた媒介は何か。いうまでもなく寺院、正確にいえば、仏教の民衆化に携わった中世寺僧である。

例えば、初期の天武天皇の頃の、あれほどの、情熱をこめて、仏像作りを続けた、そのパワーを考えると、ほんと狂熱的といいますか、ちょっと尋常じゃないものを感じるんですね(そして、これらの、ものすごい芸術性を伴いながら提示された、仏像の、その特徴が、決定的にその後の国の原初的な形を、提示してきた、とは思う)。
例えば、天皇家において、天皇にならなかった兄弟は、世俗を離れ、仏門に入ってきたのだそうだ(そもそも、天皇ではない、彼らが、どこに、どういう立場で、存在するのかは、難しい問題だろう。存在自体が、極端に政治的なわけですから)。そういった、もろもろの関係がずっと続いてきていたわけだ。
では、これまでの日本社会において、どういった立ち位置において、仏教集団が、存在してきたのか。
一つ、大きな、メルクマールは、当然、江戸時代の、檀家制度だ。これによって、仏教が、庶民を含め、「全て」の国民の思想的な「根底」の場所に、すえられた。
そうなんですが、私は、基本、

内藤湖南応仁の乱について」

東洋文化史 (中公クラシックス)

東洋文化史 (中公クラシックス)

の延長で、歴史を考えるので、応仁の乱以前の、日本の中世における、その位置から、それ以降につながるような何か、ということで考える。
「無縁」という言葉は、今の人たちには、どれくらい通じるのか。これも、仏教用語だそうで、ようするに、世俗との繋がりが一切、なくなった存在、ということだ。
よく考えると、これは、根本的な問い、であると思う。分りやすい例が、今でも、世界中であふれて難民となっている、亡命者だ。
亡命者は、いわば、その国の中で居場所を失った人たちである。しかし、よく考えてください。こういった例は、いろいろな場所で、ありうるわけだ。
盛者必衰を極めた平家に追われた、源義経は、亡命者であっただろうし(彼は、なんと、東北、平泉に逃げる。アイヌとの接触もあった?)、もっと卑近にも、村八分にされた、村人は、一体、どこに行けばいいのか。飢えて死ぬ、しかないのであろうか(これは、太平洋戦争中の、非転向左翼にも通じるでしょうし、今でも、多くの場面であるのではないでしょうか)。
そもそも、アメリカは、こういった社会からあぶれたヨーロッパの人たちが、「亡命」して作った国である。
しかし、日本のこの連綿と続いてきた、日本仏教の中には、そもそも、そういう人たちが、存在し得た場所があった、というのだ。
それが、「無縁所」。戦前の、平泉澄の主な学術研究の主題であったし、また、最近亡くなった、網野善彦さんが、さかんに発言していたわけですね。

敗者や弱者が逃げ込める場所はどこかにあるだろうか、あるとすればそれはどこだろう。読者は、駆込寺・縁切寺を想起するかもしれない。江戸時代、鎌倉の尼寺の東慶寺には、当時離婚権がほとんど認められていなかった妻たちが、夫の暴力に悩んだ末に救いを求めて逃げ込んだ。宗教施設は救済所の性格を持ち、束縛を断ち切って駆込むことができる優しい空間である。ただこうした言い方は一面的すぎて、美化され聖化されるおそれがある。疑惑を持たれた政治家が駆込む病院、などというのはその一種かもしれないのだ。
中世ではこのような無縁所が江戸時代とは比較にならないほど大きかった。避難所の数も多ければ受け入れた人々も幅広い。挫折者、傷ついた人々、政治的・社会的な敗者・弱者、悪人・謀反人、地獄に堕ちる罪を犯したとされる人々さえも、天皇から乞食・被差別民まで、貴賤を問わず懐に入れたのだ。もっとも駆込めば最終的に安全が保障されるというわけではない。無条件には追捕(逮捕・処罰)されないということを意味するに過ぎない。義経も時間を稼ぐのが精一杯であった。しかしこの事実を軽く見ることはできまい。

これは、言ってみれば、仏教思想が、非常に強力な基盤的力をもっていたことを表しているように思える。こういった強力な磁場をもちえたことに、仏教の思想の強力さ、その可能性の一端、があると思う。
あと、仏教というと、勘違いをしている人がいる。日本において、仏教とは、インドから、中国の学者が輸入して、中国内において、一大流行を極めた、漢文によって翻訳された仏典を元に始められ、発展した、中国国内の宗教活動。中国思想なのだ。
例えば、日本の葬式は、だれがどう見ても、「儒教」式、そのもの。先に、この世を去る、親のために、何日も泣きどおし、何年かの、喪に服す。お盆にしても、すべて、儒教式。当然だ。東アジアの土地に定着するとは、そういうことなんだから。
では、仏教には、どういった特徴があるのか。私はそれは、世俗を離れた、「超越性」なんだと思うんですね。
柄谷さんが前に、(カントの問題としてでしたが、)死後の世界は、知識人にとっては無意味であるが、大衆にとっては深刻な問題である、ということを言っていたが、東アジアにおいて、その役割を担ってきたのが、仏教と言える(本居宣長でさえ、仏教のそういう側面は、認めたわけだ)。
仏教の教えそのものは、ニーチェが示唆したように、実に、科学的である。ずっと、最先端の思想であった、と言っていい。
私がずっと思っていたことが一つある。それは、仏教はもっと、大学と、相性よくやれるのではないか、ということだ。仏教界はもっと、最先端の科学に接近していいはずだ。また、お金がなくて、苦労している学生は、お寺のような世俗と離れたところで、とことん勉強させてもらえたら、ずっと研究に専念できて、多くの研究成果をだせるのではないか(歴史的には、ずっと、そういう場所としてあったのでしょう)。
ではなぜ、現代の仏教界は、現代の知に、もっと挑戦的にならないのか。
幾つかのことが指摘できると思う。一つは、戦中における、仏教界の戦争協力の事実ですね。最近、NHKで特集されていたが、戦争中、浄土真宗の、竹中彰元という僧侶が、戦争反対を主張して、懲役刑の有罪となっているのだが、70年たって、その宗派において名誉回復がされた、という話であった。仏教界は、おそらく、戦中の好戦的な自分たちの姿を今だに、総括できていないのだ。
もう一つは、バブルの頃、さかんに広がった、新々宗教、でしょう。ヤマギシズムにしてもそうですが、こういったものが、宗教=仏教、とみられたことは、大変、残念な事態だったと思う。自分の財産を収奪していく、こういったやり口は、(共産主義ともいえるが、ということはつまり、)キリスト教的、なのだろう。
また、オウム真理教は、あまりに、深刻であった。オウム真理教は、仏教を、キリスト教的な心性で利用しようとすると、どうなるかの典型ではないだろうか。
特に、彼らが、多くの向学心のある大学生を受け入れていただけに、その結果が、(地下鉄サリン事件を含めて)あのような、幼稚な結末でしかなかったことは、大変、宗教界に、回復不可能なダメージを与えることになったと思う。
地下鉄サリン事件は、新左翼にとっての、連合赤軍事件のような、決定的な結果を、宗教界に与えた。
しかし、それもこれも、宗教法人にすることで、税金逃れを可能にしている今の法律がある限り、このうさんくさいイメージからは、なかなか逃れられないのではないだろうか。
ただ、最近の、ミャンマーや中国でのチベット僧侶への弾圧への反対行動を見ていると、上記の、二つの問題への、総括を行い、この思想の、倫理的な可能性を追求していこうという、その萌芽はあるということなんですかね。

寺社勢力の中世―無縁・有縁・移民 (ちくま新書)

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