日本批評

橳島次郎『これからの死に方』

ナチス・ドイツのホロコースト、つまり、ユダヤ人の大量虐殺、民族抹殺が、どのように行われたのかの経緯を観察してみると、それ以前に、かなりさかんに 安楽死 が行われていたことが分かる。そのことは、ナチスのこういった「安楽死政策」に大きな影響を与…

上枝美典『現代認識論入門』

言語分析哲学については、リチャード・ローティに関連して、さまざまに論じさせてもらったわけだが、そこにおける「言語論的転回」をもう一度振り返ってみるなら、 経験論 の立場からは、「心は存在しない」。なぜなら、心とは結局、最後は 言葉で記述された…

八木雄二『ソクラテスとイエス』

「ソクラテスの弁明」であるが、まず、ソクラテスは、アテナイの若い、メレトスという青年に裁判に訴えられる。その内容は以下だ。 その宣誓口述書はつぎのようなものです。「ソクラテスは不正を冒している。若者をだめにするとともに、国家が認める神々を認…

津堅信之『京アニ事件』

あれほどの大災害、死者を出したのにも関わらず、「京アニ事件」についての本は、ほとんどない。掲題の最近出版された本にしても、これで何が説明されたのだろうかが、よく分からない内容だ。 京アニ事件は、容疑者が京アニのファンだった可能性があり、京ア…

湯浅正彦『存在と自我』

つまびらかにカントの哲学を考えてきたとき、おそらく、最初に気付かれる点は、カントが ダーウィンの進化論以前 だ、ということだと思うわけである。つまり、カントのアプリオリ性とか、超越論的といった議論は、明らかに、ダーウィンの進化論以前の文脈に…

冨田恭彦『ローティ』

よく、日本では 分析哲学 と呼ばれて、文系の大学の学部で教えられているわけであるが、そもそもこれは、欧米では 言語分析哲学 と呼ばれていたものであって、なぜ前半の「言語」が省略されて呼ばれているのか、というところに、私はなんらかの「陰謀」のよ…

小谷野敦『哲学嫌い』

掲題の本は、ようするに、「哲学」なるものを自称している 文系 の人たちが世の中には一定数いて、それって「科学」となにが違うのか、っていう、素朴な疑問に関係しているんだと思うわけである。 私なんかは、大学で少し数学についてやって、卒業して、コン…

片山杜秀『皇国史観』

さて。社会秩序はどうやって確立すればいいのか? それは、「なぜそれが正しいのか」が人々が納得する形にならなければならない。 例えばこれを、江戸時代の最初の、徳川家康になって考えてみよう。 家康はその実力によって、政権を樹立しました。しかし、力…

小林鉄郎・西浦博「新型コロナウイルスの数理」

さて。今、問題となっている新型コロナについて「危険」だと言うのはいいが、 どのくらい危険なのか? については、「定量化」されない限り、なにも言っていないと変わらない。しかし、「新型」なんだから、始めてなんだから、そんなこと分かるわけないじゃ…

大日康史・菅原民枝『パンデミック・シミュレーション』

今、ネット上では、この新型コロナに対して、 ああすればいい こうすればいい といった、さまざまな意見が飛びかっている。なるほど、「あなたはそう思った」のね、といった感想はもつが、その 正当性 を「あなた」は、どうやって「証明」するのか、つまり、…

山本太郎『新型インフルエンザ』

今さら言うまでもないが、現在、東京で行われている、新型コロナに関する「緊急事態宣言」は、 新型インフルエンザ等特措法 という名前の法律に従って行われているわけで、その名前から分かるように、この法律は 新型インフルエンザ の「危機」が目の前に迫…

秋元康隆『意志の倫理学』

世の中の哲学理論を見渡しても、カント以外にまともに読むに値するものがどれだけあるのだろうか、ということは少し考えさせられるわけである。そのことは、例えば 自由 という言葉を思い出してもらっても分かる。 カントは人間について、叡知的な私(独:da…

笠木雅史「進化論的暴露論証とはどのような論証なのか」

功利主義者のピーター・シンガーなどがさかんに言い始めた論法として 進化論的暴露論証(evolutionary debunking argument) というのがある。 [進化論的前提]:われわれの現在の道徳的信念の起源についての進化論的説明は正しい。 [説明的前提]:進化論…

岡田尊司『死に至る病』

そういえば、東浩紀先生の『観光客の哲学』を賞賛している人って、今でもいるのだろうか? あの本で私が特に最悪だと思っているのが、最後にもってくる 家族 がなぜ重要なのかの「理由」だと思っている。それは、二つに分けて語られている: 遺伝子 人に自殺…

萱野稔人『リベラリズムの終わり』

リベラルとは、リベラリズムを主張する人々の行動のことなのだそうだ。では、リベラリズムとは何か、ということになるが、リベラリズムは 自由 を実現しよう、と言っているのらしい。しかし、それはたんに「自由」と言ってもしょうがない。つまり、自由は 別…

伊藤亜人『日本社会の周縁性』

掲題の本は、東大の民俗学や文化人類学の先生による、日本が中国の「周縁」国家であったことから見えてくる、中国や、特に韓国との比較による、日本文化の特異性を論じている。 しかし、素朴に読んでいて違和感を覚えるのは、この「周縁」性については、柄谷…

袁静『中国「草食セレブ」はなぜ日本が好きか』

私たちは、つい最近まで、中国は 発展途上国 だと思っていた。そして、多くの人たちがお金に困って、借金をしていて、まさに 先進国 の私たちが「助けて」あげなければならない、と考えていた。 ところが、である。 私たちのこういった「先入観」は、もう少…

金敬哲『韓国 行き過ぎた資本主義』

今、アメリカや日本では リベラリズムの「失敗」 がさかんに議論されている。つまり、民主主義にはなにかしら「欠陥」があるのではないのか、と。それは、トランプ大統領の誕生を一つの例として、なぜこういった「ポピュリズム」が起きてしまうのか、という…

松岡亮二『教育格差』

日本の教育を、ここ何十年かで、大きな変革を行ったのが、 ゆとり教育 であったことは明らかであろう。しかし、この「ゆとり教育」は、結果としては、今では 却下 されている。つまり、今は「ゆとり教育」ではない。 このことは何を意味しているのだろうか?…

梶村太市・長谷川京子・吉田容子『離婚後の共同親権とは何か』

このブログで何度もとりあげている、東浩紀先生の『観光客の哲学』であるが、この本では、なぜ東先生が「家族」を重要視するのかについて、以下のように説明している。 家族の観念についてまず注目したいのは その強制性である。家族は、自由意志ではそう簡…

秋葉忠利『数学書として憲法を読む』

大学の数学科で数学を学ぶと、その「すぐ近く」に、 公理主義 であり、 ロジック(=数学基礎論) というものがあることに気付かされる。というのは、そういった関連書籍はたくさん出版されているし、というか、実際に「証明」を読んでいると、この問題を避…

おおたとしまさ『新・男子校という選択』

掲題の著者は、この本で、 男子校の復活 を訴える。というのは、そもそも近年、男子校は「絶滅危惧種」だからだ。 二〇一八年度の文部科学省の調査(図1)によると、全国に高校は四八九七ある。うち「男子のみの学校」は一〇七校。たったの二・二%だ。ちな…

山下和也『カントとオートポイエーシス』

オートポイエーシス論については、話には聞いたことはあるが、なんだか難しそうなことを言っていて、ようするに、ホメオスタシスとか、サイバネティックスと同じことを言っているんでしょ、といったくらいの印象の人も多いのではないか。 そこで、まず、そも…

丸山善宏「ゲーデル・シンギュラリティ・加速主義」

もともと、現代思想系の系譜をもつ人たちが、ドゥルーズやデリダの死を境に、自ら、そういった言説から距離をとろうとしてきたことは、一つの違和感をもって受けとられた。 それは、言ってみれば、彼ら自身の 保守化 を伴って受けとられた。もっと言えば、た…

八木雄二『神の三位一体が人権を生んだ』

私たちが産まれて、生きていく過程において、基本的に世界とは、身近な人間関係のことを言っていると考えるべきである。自分が住んでいる家には、父親と母親がいて、他の兄弟がいて、基本的に彼らは、自分が実際に、相手に干渉する関係にある。具体的には、…

島薗進『神聖天皇のゆくえ』

以前、このブログで、東浩紀先生の、憲法学者の木村草太さんへの批判をとりあげて、それに批判的に検討したことがあった: 憲法9条と自衛隊の存在が矛盾しているのは小学生でもわかることで、そういうのを放置してるからこの国はだんだんおかしくなってくる…

牧野英二『カントを読む』

掲題の本は、まあ、カント論なのだが、副題が「ポストモダニズム以降の批判哲学」とあるように、現代思想への、カントの影響をにらみつつ、まあ、現代の事象に対する批評を行っている、といったところが特徴だろうか。 しかし、その場合、どうしても避けては…

檜垣良成「綜合的判断と実在性」

なぜカント哲学が、あんなに分かりにくいのかと考えれば、ようするに私たちが、当時のカントが直面していた哲学の状況に一切、無知だから、ということになる。 というか、素朴に考えて、なんであんなにまでしなければならないのかは、少しも自明ではないわけ…

戸田山和久「自然主義的認識論と科学の目的」

こちらは、前回の論文の、後編といった位置付けのようで(2005年の雑誌)、前回、自然主義に対するさまざまな反論に対する応答がされたわけであるが、その追加の応答がある、というのが特徴だ。 掲題の著者は、この二回目の論文において、改めぜ自らの立…

戸田山和久「哲学的自然主義の可能性」

掲題の論文は、2004年の雑誌「思想」に掲載されたものであるが、日本において、この 自然主義 について、かなり包括的にそのプロジェクトについてまとめられたものと考えている。そういう意味で、そもそも多くの人が「自然主義」という言葉を使ってなに…