筑紫哲也『スローライフ』

筑紫哲也さんが亡くなったのは、果して、いつのことだっただろうか。彼が長年、TBSテレビでやっていた夜のニュース番組が、今でも「同じ名前」でやっているようだから、つい最近だったことは間違いない。
肺癌で亡くなったのだったか。亡くなる最後まで、生きる希望をもっている姿を、ニュース番組で放送されていたことが思い出される。
我々、テレビっ子世代にとっては、テレビの「中の人」とは、ある意味、象徴であった。毎日、「なにも考えることなく」筑紫さんのニュース番組を見て、寝る。そう考えると、子供の頃は、なんの意味もなかったのに、よくテレビばかり見たものだ。なんであんなに見ていたのだろう。特に、ニュース番組ほど「おもしろくない」ものはないだろう。だって、テレビとは、「分単位」で、話題が変わっていく世界だ。
有名な彼の代名詞と言ってもいい、「多事争論」という、何分かの間に、筑紫さんが、一枚のフィリップと画面に対面して、独白するだけの、コーナーは、私が、物心ついた頃から、やっていたのだろう。
この名物コーナーの特徴とは、なんだったのだろう。まず明らかに気付くのは、「ほとんど内容がない」ということだ。全然、おもしろくないのだ。しかし、よく考えてみれば、当然と言えなくない。私たちは、新聞の社説を、「つまらない」と思う。あの短い文章の中に、そんなにおもしろいことをてんこ盛りできるわけがないのだ。テレビもそうで、たかだか、何分かだけの時間で、なにかを語れると思う方がどうかしている。テレビの前の一般読者は、まったく予備知識のない人たちである。ほとんど、用語の定義をやって終わりになるだろう。そもそも、モノローグは、テレビに不釣合いなのだろう。視聴者は、テレビを構えて試聴しない。それは、ドラマでもない限り、片手間になるだろう。家事をやりながらだったり、風呂あがりに、たまたま、耳に入ってくる程度だったりする。
そういった特徴のある、その「多事争論」の特徴を一つだけ上げるとしたら、なにになるだろう。それは、
多様な話題
を毎回、とりあげたことではないだろうか。そして、この各回の話題には、その時々のニュースという「事件」性を素直に反映させている。
よく考えると、ああいった「モノローグ」コーナーを本格的に継承している番組は、他局も含めて、今だに、
一つもない
のではないだろうか。たしかに、最近は物言うキャスターが増えてきているが、ああいう感じで、語ることはない。あっても、今度は逆に非常に短かい。その時々の感情や価値判断で吹き上がって、表出して、ガス抜きして終わるだけだ。だって、しょうがない。時間がないのだ。そこで、「多事争論」は、別の戦略となる。短いことは分かっている。だったら、その短かさを、「固定」すればいいのだ。その時間だけは、完全な、筑紫さんのモノローグの場所にする。そうすることで、固定長の短かさは、チリツモで、ロングテール、になる。
問題はそのロングテールをどう使うか、だが、やはり、テレビカルチャーは、ワンフレーズが命なのだろう。この「多事争論」は、徹底して、そういった
多様な話題
の「定義」に終始したのだと思う。毎日、流れてくる、突然現れる「事件」。その出来事性を、それぞれの文脈に位置付けていくことこそ、こういったメディアの使命なのだろうが、テレビのような短時間メディアが、まず、時代に先がけてやる価値があることが、その「定義」だったのだろう。
多くのテレビを見ている大衆は、基本的にこの日本の中央政府の政治の「文脈」についてこれていない。まず、考える基盤がない。自分との繋がりがない。そもそも、興味がない。
そういった大衆が、ものを考えるということは、どういうことか。
仮説としての「定義」。
そういった、思考の「インフラ」を、せいぜい、整理して提示することしかないのだろう。その仮説が(つまり、論理モデル)が提示されることで、各自の頭の中での思考実験が動き始める。
そうやって考えてくると、あの番組は、非常に、筑紫さんの「考え」を尊重して作られていたのではないか、という印象がある。はっきり言って、少しも、おもしろくなかったが、少なくとも、筑紫さんがどういった考えをもっている人で、どういった傾向の話題に関心をもっていこうとしているか、そういった傾向がはっきりしていた。
掲題の本のタイトルの「スローライフ」も、著者のライフワークだったと言っていいだろう(こういったNPOにも参加していたそうだ)。ところが、彼は、ジャーナリストとして、長年忙しい日々から逃れられることはなかったわけだ。
この矛盾をどう考えるか、というのはあるのだろうが、一つだけ言えることは、非常に控え目だということではないだろうか。ニュース番組でも、全然主張しない。よく彼の番組が左翼偏向番組などと言われたものだが、左翼とは、もっと攻撃的な人たちを言う。番組でも、彼の冠番組として、タイトルに自分の名前が入っているくらいだというのに、全然、前のめりになってこない。
これが、ジャーナリズムなのだろうか。
ジャーナリストの人たちというのは、確実に、ある特徴があるように思える。それは、多くの現場を取材している、ということです。おそらく、ここにこそ、一般の人たちとの違いがある。ただ、その取材は、あくまで、「事件」の記事のためのものですから(そこに住んでいる日常(目的)から考えているのではなく、あくまで、手段でしかなく)、うすっぺらい。しかし、彼らはその短い間に確実にインスパイアされている。このスローライフというアイデアも、実に、ジャーナリスト的と言えないこともない。
私はこの本を読んで、主に思っていたことは、親、または、親と同世代の方々についてであった。終戦の頃に、生まれ、戦争を直接は知らない世代。徴兵されていない世代。しかし、面影として、戦後の焼け野原をガキの頃のイメージとして持っている世代。そこからの、戦後復興と共に、子供の頃を生きた世代であり、あのバブルの時代さえ、「見てきた」世代。
まさに、桜庭一樹の『赤朽葉の伝説』の世界そのものである。
彼らは、こうやって今、仕事をリタイアし、年金生活のつつましい、清貧の生活の中で、何を思っているのだろうか。
親とは、「私」を育てた人たちである。しかし、それは、どういう意味なのだろう。「私」を育てるとは、なんだったのか。
おそらく、彼らは、インターネットもやらないのかもしれない(ブロードバンドが、無料にでもならない限り、年金の清貧生活には、必須の出費とは考えないだろうから)。ほとんど、今までと同じライフスタイルの延長で、余生を生きるのだろう。もちろん、これからのことは分からないが。彼らは、確かに、年を取った。自分の子供の頃の、毎日の仕事でピリピリしていた印象もなくなってくるが、それは、彼らの「若さ」の象徴でもあったわけだ。
そうやって考えると、明らかに、彼らと私たちは違う。違うというか、毎日の興味関心が違う。同じ親子でも、私には、彼らが見てきた、戦後の焼け野原からの復興の原風景は
自分の中にはない。
親であっても、この不透過な部分こそ、他人、である、という当たり前の事実に、あためて気付かされる。
年をとる。そして、いずれは、最後の日に向かっていく。しかし、それは、自分にも言えることであって、タイムラグでしかない。
いずれ訪れる死を思うということは、
今の生
を思うということである。今自分は生きている。そうであるなら、その今の自分の生について、徹底して考えるしかないのではないか。

イタリアでのこの運動を興したスローフード協会長、カルト・ペトリーニが、どんな食べものを「スローフード」と呼ぶかについて語った四つの要件(定義)というのがある。

  1. その土地の産物であること
  2. 素材の質の良さが保たれていること
  3. その土地の風習に合った生産法で作られていること
  4. その土地に活気を与え、郷土の社会性を高める食品であること

この定義は、「地産地消」が目指したものと、ほとんど寸分もたがわない。

私がより興味を抱いたのは建築家としてのフンデルトヴァッサーった。
とは言っても、建築の正史には彼はほとんど登場しない。「正統派」の建築家たちが、彼を自分たちの仲間だと認めている形跡も乏しい。異端派どころか、近代建築そのものを真っ向から否定し、反対しているのが彼だからだ。
一九五八年七月四日、オーストリアのセカウ大寺院で公衆に向かって一篇の文章を朗誦したのが始まりだった。
「建築における合理主義に反対する「かび草」宣言」(「セカウ宣言」「かび宣言」などと略称される)。

その後、世界中で公刊され、追補されていった彼の主張を、キャッチフレーズ風に抽出、要約するとこうなる。
「全ての直線は犯罪である」
「窓の権利」、「緑の義務」
「家は人間の第三の皮膚である」
「家は人間を映し出す鏡である」

こういったものは、言わば、ある種の理想なのだが、どこか、奇妙な感じにも思わせる。なんというか、ゼイタクなのである。もっと言えば、ちょっとセレブ的な感じもしなくもない。ただ大事なのは、これが、理想、つまり、そういった、これから死にゆく人たちが、あえて、今の生を思ったとき、でてきた、ユートピアパラダイス、だということではないだろうか。
ユートピアを否定することは簡単ですが、しかし、現実の世界を動かしているのは、むしろ、そういった非合理なのかもしれない、ということなんですね(何度も繰り返しているように、これは、死にゆく人にとっての今の生、なのですから、どこか、ファニーなわけです)。

かつては私たちの国の半分以上が照葉樹林に覆われていたと推定されているが、現在はわずか一・六%(約六〇万ヘクタール)が散財するにすぎない。中国などではほとんど姿を消したといわれる。
唯一まとまった形で[宮崎県]綾町にそれが残ったのは奇跡的と言えるが、この奇跡を可能にしたのには一人の人物の存在を抜きにすることはできない。一九六六年から二四年間、町長を務めた郷田實[ごうだみのる]氏(故人)で、今日、綾町を訪れても随所にこの傑出した地域指導者の実績と先見性の痕跡を見ることができる。

照葉樹林の多くは国有林だが、その伐採計画が持ち上がるたびに反対運動の先頭に立ち、八五年には「照葉樹林都市宣言」をした。だが、郷田氏の没後も、「役立たずの森」への「攻撃」は執拗に続き、二〇〇三年には住民や環境保護派の抵抗を押し切って九州電力が高圧送電のための鉄塔一五基を建設した。

これだけ、照葉樹林がなくなったということは、それだけ、日本は日本でなくなった、ということを意味しているのだろう。しかし、だとしても、なぜか、この郷田實氏は、こういった「不合理」な、衝動に動かされている姿は回りからは、こっけいに見えただろう。しかし、だとしても、こういった彼の活動が、日本の
生物の多様性
から考えたら、どれだけ重要であったか。でもそれは、私たちの最近の知見がそう見させているのであって、そういう意味で、彼は、私の言う
第二のハウスマン
だったのかもしれない(以前の記事参照)。
私は「不合理」と言った。彼らの行動には、ある、おかしさ、がともなう。だって、そんなことをして、なんの得になるのだ。今は功利主義の時代。一円でも多く稼ごうって、みんなで言ってるときに、あんたなにしてんの?
ところが、これを、「目の前の死」から考えるとき、この、おかしさは、倍増する。
あんた、どうせ、もうする死ぬんでしょ。あと何十年も生きるわけでもないんでしょ。体のあちこちが、金属疲労をおこして、もうメンテナンスだけで大変だ。もう、考えることだけで無駄なんじゃない?
しかし、人は考え続ける。人である限り。しかし、なにを考えるのだろう。私が言いたかったことは、じつは、ここにあった。私は「不合理」だと言った。しかし、それは、私たちから見てそう見える、という話にすぎない。彼らには違って見えているのかもしれない。

そのひとつの例[戦災孤児の人生]に出会ったのは、ある作文コンテストの審査をした時だった。
全国各地から七〇〇人を超える老若男女の応募があったなかの一篇が、元戦災孤児の筆によるものであった。

だれの助けもなく生き残るために少年が足を踏み入れたのは盗みの道だった。捕まっては出所を繰り返していた。刑を終えたある時、屋台で出会った未知の男から「働いてみないか」と誘われた先が新聞販売部だった。住み込みで新聞配達をするうちに、集金の仕事が回ってきた。
集めた(少年にとっては)大金をどうするか店主にたずねたら「精算は明日にしよう、預っておいてくれ」と言われた。持ち逃げできる絶好の機会である。が、その夜、少年はふとんのえりを涙で濡らした。素性のわからぬ自分を信頼して金を預けたままの人がいる......。
そこから別の道が始まった。やがて小さいながら会社を経営する身となり、愛する家族を持った。

自分の人生は道草を食い続けた、それこそ「草いっぱい」の道であったが、今ふり返って悔いはない、とこの人は言い切っていた。

(人が考える動物だということを、もっと真面目に考えなければならない。人が考えるということは、あれは考えてこれは考えない、ということではない。「すべからく」考えるのである。そういった恣意的な選択を排除するところが、「論理」にはある。)
私たちは、戦後の焼け野原を「知らない」。

スローライフ―緩急自在のすすめ (岩波新書)

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