マイク・デイヴィス『スラムの惑星』

現代とは、一言で言うと、なんなのだろうか。現代とは、
都市
の時代だと言えないだろうか。世界中、すべからく(第三世界でさえ)、大都市が自生し、そこに、世界中の人口の大半が暮らしている。しかし、都市の特徴とは、なんなのだろう。それは、一言で言えば、
スラム街
にあると言っていい。都市が自生していく過程で、「必ず」大量の貧困層が暮らす、スラム街が「世界中の都市すべからく」存在する。
都市と貧しさは、表裏一体である。

毛沢東の計画的な都市人口抑制政策によって何十年も成長が凍結された上海ではいまや、河口に面した巨大な都市部の住人数が二七〇〇万人になろうとしている。

中国は、長い間、人の移動を禁じていた。田舎者が都会で生活するには、それなりの理由がなければ、移住できなかった。しかし、人の移動への国家の介入には、限界がある。それは、江戸時代の日本でも同じだ。それでも移動したい人たちは、不法労働になっても移動したのだろう。今の中国の大都市の低賃金労働だって、そういった人たちで支えられているのだろう。
都市は、急激な人口増加を実現する。
都市が、スラムと同一のものであることは分かった。では、なにが「ここ」に人々を集めさせたのか。一つは、工業化、であったのだろう。資本主義とは、付加価値の体系そのものである。人は、なんらかの差異に突撃して、「利潤」を獲得する。これが経済活動である。近代科学技術の先進的な技術が、比較優位な工業製品を、一瞬でも生み出すなら、人をそこに向けて「突撃」させるだろう。
萱野さんがよく「石油一元論」を主張されている。日本のバブル以降の不況。失業者や賃金の上がらないその率を見てみると、ちょうど、その間の「石油の値段」に対応していた、というものである(さらに、湾岸戦争も石油をめぐっての、アメリカとEUとの基軸通貨をめぐるヘゲモニー争いだったのでは、という話につながるのだが)。
石油こそ、19世紀以降の工業化文明を象徴する物質だろう。石油はエネルギーが「つまっている」。まさに、錬金術みたいなもので、これさえあれば、
なんでもできる。
今の世界を見渡しても、たいてい、石油でできてる。むして、石油を使っていないものを見つける方が困難だ。しかし、
石油は無料(ただ)ではない。
ということは、つまり、
石油は無限ではない。
石油は、いずれ無くなる。つまり、現代文明の終焉である。
物価ってなんだろう、と考えると、それは、ほとんど「インフラ」のことだったりする。私たちは、毎日を、「普通」だと思っているが、もしそれが普通だとするなら、「かなり高度な」普通である。水道設備、電気設備、ごみ処理設備、それぞれ一つずつをとりあげても、相当の高価な設備であることが分かる。しかし、これは、だれかが維持をしなければ、存続すらできない。物価が高い、というのは、本当のところは、こういったところから、ちりつも・ロングテール、で決定されているのだろう(不十分な規制緩和など、いろいろ要因はあるのだろうが)。
日本の田舎がなぜ、あり続けてきたのかは簡単で、ようするに、中央政府補助金で日本中の田舎を一律、「都会並み」にしてきたから、である。この
お金をあげる
ってことは、本当に大きな事態で、お金をあげる、ことで、本来は「そこには」存在しえなかったものが、存在しえる、ということである。
民主党事業仕分けは、大変に、革新的に見えるが、ここに欠けている視点は、「物価」意識ではないだろうか。あらゆることは、トレードオフである。高価なインフラサービスを受け続けたい限り、人々が支払わねばならないインフラは高価になる。みんなが、それを維持するために、お金を稼がなければならないということは、それだけ、物価が高くなることが不可避になる。
私が掲題の本を読んで受けた印象は、近代とは「権利」の網の目のことだったんだな、ということだった。19世紀から続く、近代とはナポレオン法典民法)のこと、だとするなら、ここには、各個人への、複雑な権利と義務、の「法制化」がされている、ということである。スラム街が、汚ないし、全部、きれいにしてしまえ、としてできないのは、その汚ない、モノの一つ一つが、そのスラムに生きる住民「の物」だから、である。その(他人から見たら、ただのゴミにしか見えない)物の所有権は、そのスラム人にあり、何人(なんぴと)もその権利を犯すことは、まかりならないわけだ。
私たちは、社会契約として、リバイアサンについて習った。ところが、奇妙なことに、国家は一度、その社会契約が成立した時点で、そのリバイアサンは、
なにもできなくなる
のだ。道路一つ作ろうにも、各土地所有者のところに、菓子箱一つも持って、お願いに行かないと、なにも始まらない。どんなに、国益の毀損が叫ばれようと、普天間に滑走路はできない。
この、どこまでも、細かくはり巡らされた権利のネットワークこそが、
都市
を成立させていることは間違いないだろう。こういったさまざまなパワーの均衡関係が、都市を「自生」させてきた。つまり、これは「ある均衡」なのだ。
たとえば、私たちは、簡単に社会主義を嘲笑する。しかし、それは、戦後のリアリティからすると、ちょっと、バランスを欠いている。事実、社会主義赤狩りと言って抹殺してきた側においては、その「補完システム」として、
植民地
が存在していた。社会主義とは、国内植民地の別名だったと言えないこともない。

当初、一九四九年の中国革命は、帰還する難民と職を渇望している小作農の元兵士にむけて都市の門を開放した。結果は制御不能の都市氾濫だった。わずか四年でおよそ一四〇〇万もの人が到来した。ついには、一九五三年になって新体制は国内移住を厳重に管理しつつ農村からの奔流をせき止めた。毛沢東主義は、都市プロレタリアート----「食いはぐれのない仕事」と、ゆりかごから墓場までの福祉の受益者----を特別扱いしておきながら、それと同時に、特定の作業単位に定住しながら所属する状態を、社会的シチズンシップに結びつる、世帯登録システム(戸口)を適用することで都市の人口成長をきつく抑制した。

なんのことはない。戦後の中国は、もう夷狄(匈奴)とは中国の外ではなかったのだ。彼らは、大都市の回りに、
万里の長城
をはりめぐらせた(つまりそれは、国内植民地を言っているのではないのか)。
著者は大変におもしろい視点を提示する。

スラムは汚染された地質にはじまる。たとえばヨハネスブルク周辺部の掘っ建て小屋街は、採鉱によって汚染された、危険で不安定な白雲石の土壌地帯と正確に一致している。この地域の非白人の少なくとも半分は、有毒な廃棄物や慢性的な地崩れのある地域のインフォーマル集落に住んでいる。

近代工業資本主義とは、「汚染」と同一の事態であった。物を作るとは、世界を汚すことと、不可分となる。ところが、そういった地域は、だれも住みたくない。物価が下がる。するとそこに、スラム人が集散してくる。まさに、ウルリッヒ・ベックの言う「危険社会」「リスク社会」を体現する作用が働いていることを思い知らされる。
都市とは、まさに、
マンダラ
だ。サッカーがお互いのフォーメーションを眺めることで、お互いの戦い方がある程度分かるように、都市は、
戦争、麻薬、マフィア、賃労働、医療、教育、福祉
さまざまな、アイデアが各現場で「働き」、その均衡を描いている。現代のアポリアへの処方箋は、
都市法則
の解明なしには、ありえない。

スラムの惑星―都市貧困のグローバル化―

スラムの惑星―都市貧困のグローバル化―