入間人間『電波女と青春男』

ドラッカーのマネジメントにおいて、組織が「イノベーション」を終えるということは、その組織の使命の終焉を意味していた。
だとするなら、この「イノベーション」が実際のところなにを意味しているのか、が問題となってくるだろう。
私たちが本屋に行くと奇妙なことに気付く。ラノベが小説や文庫の棚にないことだ。では、どこにあるのか。アニメ関連書籍やマンガの棚にある。これは、なにを意味しているのであろうか。
一連のライトノベルを定義するものに「メディアミックス」がある。つまり、これは小説であるが、ある意味それ「だけ」ではない。たとえば、ほぼ必ずといっていいほど、漫画家による挿絵が添付される。しかし、それだけではない。その挿絵のイメージそのままで、アニメ化されるのだ。
ということは、どういうことであろうか。これは、ある種の「マンガ」原作的な位置付けにあると言うこともできる、ということである。
ただし大事なことは、ラノベの作者は、必ずしも、挿絵を前提にしなくても書ける、ということだ。
つまり、ライノベは小説として、
閉じる。
ネットをみているとさかんに、「厨二」って言葉がでてくる。いわゆる「中二病」というやつで、この漫画なんか見ると、多少イメージがわくようだ。

これが私の中二病 勇者かよこの黙示録

これが私の中二病 勇者かよこの黙示録

(もちろん、「病気」という表現は、オタクたちが自らを自嘲している表現であり、むしろ、
健康
な証(あかし)と考えるべきであろう。つまり、こうやって「表現」できることが、自立への第一歩であるのだから。)
つまり、テレビゲーム的なアイテムが子供たちの「文化」となることの意味を問うているのだろう。こういった、コンピュータ・ゲームは、ある年代から、子供たちの必須アイテムとなっていく。
ゲームという娯楽は、その操作性(プログラムやロジックの差異性)だけでなく、一種の「環境適応」をもたらす。ゲームを行うことが、そのゲーム内に存在するアイテムへの親和性を高め、子供たちは、その中に
適応進化
する。つまりは、ゲーム内世界が、
日常
となり、社会的身体となる(後述する)。
ラノベはエンターテイメントの位置付けとなる。基本的には、ミステリやSFの一分野で間違いない。
しかし、こういった枠組みで語るとき、昔からある、純文学なるものとの関係が気になる。こういった世界には、(文壇内論壇と呼ばれたりする)ある価値共有があり、ある種の、「連続性」がある。そうであるだけに、そこでの評価は、その価値からのブレイクスルーによって計られる。問題は、その「判断力」(カント)となるだろう。つまり、価値がないとは、(昔の名作から)なんにも新しくない、という判断に関係して生まれるわけで、そもそも、その作品を読んだ個人の
感動
とは関係ない。つまり、論壇的な言説は、実存的でないと言えるだろう。
では、ミステリやSFといったような、こういった論壇の「外部」において、受け入れられてきた分野(つまりサブカルチャー)において、その問題はどのように慣習化されてきたのだろうか。
宮台さんがこういったサブカルチャーの分析を行った当時、そこで問われたことは、間違いなく、論壇的文脈を完全に「括弧に入れる」仕事であったことに注意しなければならない。つまり、社会学という主に統計的手法をツールとする、テキストクリティークの

で行ったわけである。しかし、なぜそういうことになったのか。それは、むしろ「そういう方法しかなかった」から、と答えた方が正確だろう。つまり、こういったサブカルチャーを分析する手法が(基本的には今でも)存在しないから、といえる(こういった、有象無象のものものへのアプローチは、なかなか作法化されづらいわけで、私は以前、ブルデュー社会学の方法的な重要性をどこかで強調した記憶がある)。
ラノベは何をしてるのだろう...。
ラノベの特徴は、作者が圧倒的に若いということである。そのリクルーティングの仕組みは、ジャンプなどのマンガとよく似ている。シロートたちが、その
中二病
まるだしの作品「なるもの」を、どんどん投稿してきて、基本的に出版社が、そういう、どーしょーもない妄想丸出しの連中を(もうちょっと社会人として、まともな範囲に)
育てる
わけだ。しかし、そう言われると、むしろこの構図は、まさに日本企業そのものなんじゃないか、とも言ってみたくなる。面接で採用する若者は、まさに、使えないなにか、でしかない。彼らは、会社の中の人間関係の中で、社会人の作法を身につけていくわけで、非常に日本的企業の代表と言ってもいい(そこに、自社の社員かパートナーかは関係ない)。
彼ら若者たちは、ある「その人の人生の歴史における」ある「悟性」をもっている。彼らは若い、ということは、
子供
だということで、つまり、大人ではない、ということを意味する。大人とはなにか。大人の特徴は、まず、体力が圧倒的だと言えるだろう。人間の死亡率を見ると、子供の頃高く、大人になってほとんど死ななくなり、老人になって、みんな死んでいく。つまり、大人は死ににくいのだ。それは、免疫系が
完成
してくることにも関係するだろう。体が完成し、感情の制御も難しくなくなる。しかし、ということはどういうことなのだろうか。つまり、大人は「つまらない」存在になった、ということだろう。大人はそもそも、社会的に
強者
になってしまった。さまざまなトラブルにあっても、まっさきに「自らの力で」助かってしまう。病気にかかっても、(回復力が抜群で)すぐに直ってしまう。ということはどういうことか。なんらかの
危機
への感受性が彼らにはないのだ。どんなトラブルが起きても、結局は、大人は生き残ってしまう。つまり、彼らは、社会の危機を危機と思わなくなる。
しかし、こういった感情が社会のマジョリティになったとき、その社会はどうなるか。今の日本の福島の原発のように、あれだけの事故をおこしても、
クール・ジャパン
冷えすぎじゃね? 冷静であることに、なにも悪いことなんかないとしても、そもそも人々の想像力はあまりに衰弱しすぎている。
原発ぶっこわれた? あっ。そうっ。
あのなー。大人はみんな、こんなことたいしたことない、と思ってる。どーせ、自分。大人なんで(なかなか)死なないし。
どーして、どーやって、自分だけは死ぬまでハッピーライフを送れるかを考えてきた、これまでの自分の人生設計をなんで
この程度の事故
で、変えなきゃいけないの?
どうも、大人たちの「退化」した脳に、将来を任せておくと、大変なことになりそーだ。
他方の、子供たちは、まさに感情の動物である。なんたって、最初は、だれも言葉を話せなったくらいだ。彼らにとって、日常は
サバイバル
である。藁をもすがって、なんとかして、大人になるまで生きのびる。もちろん、彼らにはその力はない。だったら、どうするか。周りの大人を
使う
のだ。自分が生きのびるために。彼らにあって、大人にない唯一絶対的な能力は、
危機「表出」能力
といえるだろう。はるか太古から、人類は「共同体」的に生きてきた。こういった共同体がなぜ滅びなかったのか。子供が危機「表出」したからだ。鈍感な大人たちにとって、どんなにセカイが生きづらくなっても、どーせ彼らは「生き残っちゃう」から、不感症みたいなもので、どんなに人類の終末の日が近づいても、
あっ。そっ。
しかし、原始共同体、つまり、家族においては、すべてが「全員民主主義」である。そこにおいては、基本的に、大人より子供の人数の方が多いから、どうしても、大人たちも子供たちの感情の表出に対して、
中庸
の立場をとらざるをえない。つまり、バランス的に子供の
子供っぽい
感情の行動原理を、大人たちのライフスタイルの中に取り込まざるをえなくなる。それを大人たちは、
わがままな子供のため
を思ってやってあげてると言って、世間近所への恥の言い訳にしてきたわけだが、むしろ、こういった子供たちを、人間共同体が生き残っていくための、
アラート発生器
として使ってきた、という方が正しいのかもしれない。子供がアラートをあげるということは、なんらかの、その共同体の基盤をゆるがすような、危機が迫っていることを意味しているかもしれないわけだ。生物にとって子供はまさに宝であって、どんなに、なかなか死なない大人ばかりが生き残っても、子供が全員死んだら、人類は世代の連続性を失い
滅びる。
こういった皮膚感覚を大人はどうしても、自らの感覚として失ってしまう。
中二病とは、こういった子供たちの危機感覚(感受性)の表出そものも、と言っていいだろう。彼らには彼ら、一人一人の社会的身体がある。
生まれた土地があり、いつも顔を会わせる近所の人たちがいて、学校がある。そこには、ある定常性が生まれる。つまり、大事なことは、彼らは、ほぼ同じことを毎日行っていることである。
朝起きて、同じ道を同じような時間に通って、学校のいつもの席に座って、話を聞いて、夕方、家に帰る。その膨大な定常性は、定常でありながら、膨大な時間における連続性をもつ。つまり、ある日のネタは、次の日のネタのネタになり、まさに
ネタの宝庫。
彼らはその日その日の、感情の「連続」を生きており、それらは、
蓄積
する。つまりは、膨大な厚みをもったコミュニケーションだと言いたいのだ。
私たち大人は、こういった子供の妄想を、無視する。それは、経済効率的に合理的であるのだろうが、上記の意味においては、こういった子供の感情を軽蔑したとき、人類は滅びるのだろう。
よく考えてみれば、中二病はマンガとアニメとラノベだけじゃない。日本のポップカルチャーは、中二病としか思えない。ロックとか言って、歌詞は、中二病全開だった。しかし、もしそういった
中二病歌詞
がなかったら売れたか? もっと言えば、テレビ文化のお笑い芸人は、もろ中二病松本人志なんて、中二病が歩いているとしか思えない。
たとえば、ラノベとアニメの関係を上記で書いたが、それだけではない。さまざまな、メディア展開が行われる。ラジオもあるだろう。挿入歌のCD化もあるだろう。フィギュアとか、もちろんマンガのアンソロジー化。同人誌...。
こういったものを見ていると、まさに福嶋亮大さんの言う
神話
という概念の重要さを感じざるをえない。日本の古事記日本書紀だけではない。さまざまな民話を含めて、日本のカルチャーとは、すべて中二病だったのだ。私たちは日本のどこに住んでいるのか。
その土地とは何か。
私たちが生きているその土地には、歴史がある。その土地をはるか太古から私たちは、土地を耕し、種を植え、食物を育て生きてきた。私たちは、その土地の歴史を調べることによって、過去にこの土地で崇められていた土俗の神々を見出す。私たちの生きていることは、そういった
文脈
の中に存在する。ラノベも一つの「神話」である。ラノベの作者が見ているのは、一つの彼らが日々生きていたネタの数々を、共感を呼ぶようなレベルで抽象化する作業であり、それこそまさに、神話、日本の民話が提示してきた手法そのものなわけだ。
そういった民話には、ある共通のネタ、共通のイメージ(その社会のとってのアンチノミー)をそれぞれに喚起するトリガーを含んでいる。だからこそ、
人々の感情を揺さぶる。
ラノベ作者たちの「作法」とはどうなっているだろう。これを最も象徴する言葉が、
日常
であろう。日常とは宮台さんがオウム問題を検討するときに使われた、「終わりなき日常」に対応する。オウムとは、非日常を意味していた。オウムの信者になるためのイニシエーションは、まず、自らの財産を放棄する(オウムに全て寄付する)。彼らは、そういった市民社会の基盤となる繋がりから切り離されることによって、俗世から、
解脱する。
解脱とはどういうことか。大衆とは、日常の人間の汚い庶民の感情にひきづられる生き方から逃れられない。その因果の円環の中で、喜んだり悲しんだり怒ったりしても、それはつまり、そういった「慣習」の中の、オートメーションを生きているんじゃないのか、という疑いに関係している。つまり、真実はそういったルーティーンにないんじゃないか、と。しかし、オウムはその末期において、来なかったハルマゲドンを自ら実現させようと、地下鉄にサリンをばらまくことになる。ところが、それはむしろ、オウム自体が追い詰められていたことと関係していたわけだ。ある弁護士を教団でリンチして殺し、その事実が分かりはじめ、警察庁長官の暗殺も起き、サリンが近所で見つかる。そういった「世俗」からの彼らへの視線が厳しくなっていく過程で彼らに対する、社会からの存在を認める視線(正当性)が失われていく中で、ああいった結果に至るわけだが、それは何を意味していたのだろう。
つまり、問題は解決していない、ということなのだ。日常とは、そういった非日常から定義されたものであった。そういった場合、オウムを拒否するということとは、
非非日常
を生きろ、ということであって、つまりはそれが「終わりなき日常」ということだった。日常とは、ある抽象的なつまり、
だれにも通じる
しゃべり方のようなものをイメージするといいのかもしれない。ラノベ作者たちの文体にも大きな影響を与えたと思われる、村上春樹の文体は、レイモンド・チャンドラーのハードボイルド・ミステリに近い印象を受ける。チャンドラーのミステリは言わば、過剰な文飾がありながら、ほとんど自らの感情的な源泉を表に表さないまさに、
クール・ジャパン
的なものであった。普通に考えれば、ある人がいる。その人が生まれたところがあれば、その人にはその土地の因果によって生まれる、感情の抑揚があるだろう、と考えられる。ところが、探偵マーロウには、
都会
というある抽象的な環境が強いる「作法」だけが、彼の行動原理となっていて、そういった実存的なブレが少なくみえる。同じことは、村上春樹の文体にもいえるだろう。彼の小説にでてくる「僕」は、本当に感情があるのか、そのそも「僕」はどんな出自をもっているのかさえ謎なのだが、謎なのに、「僕」はどんどん悟性的に悟りすまして、分かったような
普通
をふりかざして、前に進んでいく(そしてそれがぶつかる壁によって、なにかを示唆しようというスタイルなのだろうが)。抽象的な「全国共通語」で話し続ける、「僕」の「普通」という悟性は、どこまでも、ワンダーランドを形成し、どこまで行っても他者に出会うことはない。
しかし、そういったスタイルは、逆に言えば、ラノベ作者たちを
解放
する。つまり、むしろ、抽象的であるということは、圧倒的な
不足
を意味するのだから、逆に、文体は(チャンドラー的に)過剰となることを「許す」、というわけなのだから。彼らラノベ作者たちの内部にある中二病は、まさに、そういった隙間に
居場所
を与えられる。彼らの過剰な表現の居場所となるのだ。過剰であることは、彼らの日常の中二病的なネタ作法を解放する場を与え、そういった表現量の山が、彼らの
手足
を自由にする。そういった表現の山の共有を認知されたということは、彼らを「表現者」として認知したことを意味し、その膨大な中二病の山の「隙間」に彼らの本心を吐露する「隙間」を与え、その隙間に...。
今期のアニメの中で、間違いなく圧倒的な存在感を示しているのが、「電波女と青春男」だろう(まだ、第一巻しか読んでない)。といっても、もちろん話は、しょーもない、高校生のよた話にすぎない。ただの、
日常
にすぎない。まさに、深夜に放送されるアニメの典型の、どーでもいーよーな日常が展開され、そのままフェードアウトしていく「なにか」...。

高校入学までは普通の美少女→入学して二ヶ月後、突然の失踪。本人も動機は不明。→半年後、突然帰ってくる。本人曰く、気づけば海に浮かんでいた→半年間の記憶がない時間に不安を覚える→周囲からの好奇の視線に耐えられず、生来から興味を持っていた宇宙人の所為で記憶を失ったと現実逃避→重度の思いこみから自身そのものが宇宙人であると言い張りだし、言動がくるくるパーになり始める→橋から川へ、自転車で飛び込む。勿論、落下して風邪を引く→退学、ピザの食い方がおかしいニートに至る。でもまだ美少女。

主人公、丹羽真(にわまこと)は、高校を地元の田舎の実家から(親の都合で)、一人で都会の叔母(藤和女々(とうわめめ))の家に泊めてもらい、都会の高校に通うことになる。しかし、その家には、親戚にも知らされていなかった、おばさんの娘の、藤和エリオ(とうわえりお)と暮していた。
エリオとは、なにか。彼女は、いわば、
ニート
となるだろう。引き込もりの生活をしている若者は、全国でもかなりの割合になるのではないかと言われている。エリオの特徴は、この母子家庭の親が、自由にさせている、ことと言えるのかもしれない。いわば、母親は自分の娘への愛情に自信がない形で説明される。娘を産んだ頃の記憶もあいまいで、そもそも当時、覚悟を決めて産んだ、というものではなかったことが示唆される。しかし、それは娘に冷たいこととは違う。事実、娘が欲しいといったものを努力しても買い与えようとする。娘にうまく感情移入できない母親は、だからこそ、娘に自分のやりたいように生きることを「強制する」。
こういった二人の間に突然放り込まれた、丹羽真(にわまこと)は、ある決断をする。

腹が立つのだ。
宇宙人を後ろ向きに信じていることが、我慢ならない。
それは順調とか満帆とか、そういった善意の方向よりも目につき、無視しきれない。
神秘とは希望であるべきだった。まだ暴かれていない深海の領域に思いを馳せて俺が年甲斐もなくはしゃぎ、未知の生物を夢想するように。前へ前へと、押しやってくれる存在であるべきだった。ニンゲンだろうとスカイフィッシュであろうと、グレイだろうと。
それを自分の過去へと置き、後方の安全確認程度の立場しか役割を与えない、今の藤和エリオは俺の価値観では地球人失格だった。
その顔立ちでさえ埋めきれない損失を、俺は強く感じていた。
だけどあいつは宇宙人じゃない。種族のない、異質に憧れる肉の塊。
だから、
だーかーらー、将来は知ったことじゃない。
でも、今許せないことだけは、解消してやる。
「よーし、よーし、よーし、」
よ--------------------------------、し。

主人公の丹羽真(にわまこと)にとって、藤和家は居候をさせてもらっている他人である。彼らの人生に関与することは、普通はつつしむことであろう。しかし、この田舎から、でてきたばかりの彼にとって、エリオの態度は許せない。

「飛べるなら、宇宙に帰ればいいさ。そのままな」
俺は何処か適当なとこで下ろしてくれたらいい。
そう、例えば海だっていい。その間の記憶を、吹っ飛ばしてしまってもいい。
エリオがゆっくりと、頷く。迷いと怯えではなく、決意で顎を引いた、とその横に結んだ唇が寡黙ながらも意志を見せびらかす。
話は決まった。まずエリオが、籠に乗り込む。大きめに作られた白い籠はエリオを呑み込み、ただ口を開いて天を仰ぐ。そこに命を吹き込むのが宇宙人の仕事だ。
藤和エリオ。
アマゾンの奥地に住む宇宙人の住民票を持ってないなら、身体を張って証明しろ。
宇宙人の存在を。
お前の失われた半年を、宇宙人の所為にする為に。
自転車に跨る。行き先は、もうナビの必要さえない。
宇宙人の痕跡なんて馬鹿げた代物を探した散歩ルート。
エリオの悔恨が敷き詰められた、海への道だ。

丹羽真(にわまこと)にとって、このチキンレースは途中でやめるためのものであった。エリオが少しでも恐怖を感じてる表情をしたところでやめ、彼女の改悛を期待するくらいの考えであった。しかし、その期待は別の理由で計画通りとはならない。自転車の故障により、このチキンレースは、たんなる無理心中行為となる。
ガードレールを飛び越え、二人は海に飛び込むことになる。

「わたしは宇宙人だから、飛べるはずなのに! いや飛んだよ絶対! ちょびっと! 三マイル! ペーハー! なのに認めないといけないのか! 地球人かわたし! 何で! いや分かるけど! さっぱりだ!」
錯乱したふりで現実が見えないごっこするエリオに対し、俺がかけてやれる言葉は、
「ざまーみろ......と言えば分かりやすく俺が悪者になるんだろなぁ」
だから言ってやらない。
マトモになったんなら、自分で何とかしろ。その方が、本人が一番納得できる。
「だから仲良くなるどころかわたし、すっげー傷ついた! 異星間交流はイトコの所為でぶち壊し! ついでに拠り所ぶち壊されて、悪寒するし、あんたの勝ち誇った顔が、すっごく宇宙協定違反だし!」
宇宙と地球のエリオさんがせめぎ合って、成層圏を突き抜けたり大気圏突入したりお忙しそうだ。いい加減、重力のない生活を諦めろよ。
しかし、そんな顔してるかな。どっちかっつうと、ニヤニヤだと思うが。
「一回も傷つけ合わずに円満なまま終わる関係なんて、絶対ないだろ」
何故なら意地悪なことに、出会いには別れが伴うのですよ。
「......意味分かんないし」
冷静に指摘される。うむ、良いこと言った風でごまかす作戦、失敗。
「つーか、何も始まってない。お前とは、今が初対面だからな」
ここぞとばかりに、右手の人差し指を惚けたエリオに突きつける......おろ? 腕が上がらない。ま、いいや。本体に感化されて反抗期か何かなんだろう。
ボディランゲージは不要だ。やっぱり目と口で物言わせて、上手に懐柔させましょう。
それがみんな仲良く、すなわち平和マニアの最大の武器なのです。
「地球に来るのは二度目か? 今度は永住ビザ発行してやるよ」

つまり、丹羽真(にわまこと)は、エリオに「出会いたかった」のだ。同じ屋根の下で過ごすその近接性は、たとえ、無関心に生きることが、
都会の作法
だったとしても、エリオを無視して生きることを叔母さんに諭されようと、田舎で育った彼にとって、そういった作法は、たんに受け入れられないことを意味するにすぎないのだろう...。
私は、むしろ、こういったラノベ的な中二病を重要な動きだと考えたいのだ。社会はこういった動きを抑圧してくるのだろうか(都青少年条例はその一つだろう)。しかし、こういった若者のアラートを握り潰す国家は滅びる。
むしろ、今以上の社会の痛車(いたしゃ)化、萌え家電化、ゆるキャラ化が求められている。イノベーションとは、若者の夢であり若者の
青春
なのだ。そういったものに寛容になれないと思ったときが、自分たちの時代の終わりなのだろう...。

電波女と青春男 (電撃文庫)

電波女と青春男 (電撃文庫)