平川秀幸『科学は誰のものか』

3・11から、49日ですね。それが、喪に服す、一つの区切りとなり、今後は生き残った我々が、どうやって生きていくのか、亡くなった人々に対して、何をするか、被災された方々に対して、将来に向けてどのようなサポートを行い続けることができるのか、そういったことが、本格的に問われるようになっていくのだろう。
池田信夫さんのブログはよく読むのだが、ここ2回の記事は、自分の書いていたこととも関係していて、興味深かった。
たとえば、微量の放射性物質が人体に無害というタイトルなのだが、内容を読むと、むしろ逆のこと(可能性)を「示唆」してしまっている内容になっている。

地球温暖化のように、実証されていない仮説のもとづいて政策を実行するのは間違いのもとである。
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しかし、こういう意味でなら、私だって CO2 の排出規制も、選択肢だと言わざるをえなくなる(私は徹底的に懐疑的だが)。
また、放射線障害は遺伝しないというタイトルにしても、なぜか記事の最後は、デマや風評や不安、こそが問題という話にすりかわっている。

ところが「福島第一原発の近所に住んでいた女性から奇形児が産まれる」といったデマが流され、縁談が破談になるとか妊娠中絶が行なわれるといった話が出ている。科学的根拠のない微量の放射線の影響を誇大に騒いでいる自称ジャーナリストは、風評被害ばかりでなく差別を生み出し、家庭を破壊していることに気づくべきだ。
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そうであるなら、たんに遺伝の蓋然性は低いと言えばいいだけでしょう。ところが、この記事の内容はむしろ、放射性物質の遺伝子への影響の可能性を、さまざまに検討する形になってしまっており、どこまでもその可能性を「示唆」してしまっている。
(むしろ、こういう意味で言うなら、自動車の排気ガスも含めて、どうやってクリーンな街作りをしていくのかと問えばいいだけでしょう。)
よく言われるのが、原発推進派と反原発派の対立というわけであるが、池田さんはそれに対して自分は、ある種の原発「現状維持」派だと自称する。しかし、もう一つの立場があるんじゃないかと思うのだが、それが、
原発「懐疑」派
である。

ところで、今引用した姫野氏の言葉には、公共空間での対話にとってもう一つの重要なポイントが示されている。「反対派ではなく疑問派」という姿勢だ。
コンセンサス会議など参加型テクノロジーアセスメントでは、すでに社会的な対立点があるテーマ(遺伝子組換え作物や原子力発電など)、もしくは将来的に対立が発生することが懸念されるテーマ(再生医療ナノテクノロジーなど)が選ばれる。このため往々にして議論が「賛成 vs 反対」に二極化し、それぞれが「正しい」と考える「答え」を主張し合うだけの場になってしまう。その結果、本当に解決すべき問題は何なのか、合意に向けて折り合えるところはないのかということを検討したり、それぞれの主張の正しさを疑い、相手の言い分から何かを学んだりする機会が失われてしまう。

もし原発が安全なら、避難訓練の必要はないだろう。実際に、避難訓練をすると、電力会社からクレームが来たらしい。しかし、福島で水素爆発で、建屋がふっとんでいる映像を毎日流されて、
本当に安全だったのか?
という疑問を呈すことのなにが悪いのだろうか。
たとえば、原発に関しては、毎年、国の予算として、5000億円近くが、ほぼ定常的に支出されていたと、以下のドキュメンタリーでだれかが話されているが、
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それがあの、悪名高き、特別会計だというわけだろう。
私はむしろ、国策で大量の国のお金がそそがれてるから、まともな市場競争してないから、原発が「淘汰」されなかったことが問題だと言いたいのだが、たとえば、ノージックリバタリアニズムにしても、国家がいらないとは言っていない。最小国家たれ、と言っている。

暴力・盗み・詐欺からの保護、契約の執行などに限定される最小国家は正当とみなされる。それ以上の拡張国家はすべて、特定のことを行うよう強制されないという人々の権利を侵害し、不当であるとみなされる。

アナーキー・国家・ユートピア―国家の正当性とその限界

アナーキー・国家・ユートピア―国家の正当性とその限界

問題は、こういったノージック的なリバタリアニズムにおいて、
リスクコミュニケーション
がどのように担保されていくべきなのか、という問いであって、つまりは、
どういった作法
が要求されているのか、であろう。自由主義的に言うなら、学校で、ウランの核分裂を勉強した子供は家に帰って、実際に原子炉を作って、近所の人に売った、という話をなぜ聞かないのか、と問うてみるといいかもしれない。
どうして、若者は、せっかく学校で科学を学んでるのに、家に帰って、その科学を応用して、商品を作って売ろうとしないのか。それは、
製造者責任
がついてまわるから、でしょう。もし、ロボットを作って、人を傷つけたとするなら、そのロボットを作った製造者の責任が問われる。ちょっとした、形が悪く、シュレッダーに子供の指がはさまれる、なんて事故もあったが、それぐらい、デリケートな製造物責任が問われてしまう。
しかし、その規制があまりに強いと、だれもモノを作らなくなる。だれもが、その上位に立ち、現場をバカにする、「マネージメント」をやりたがり、子供は理系を軽蔑し、文系で華麗にコンサルとか経営者にばかりなりたがり、マネージャーの「べき」論ばかりの上から目線の、説教ばかりを勉強するようになる。

水俣病の原因物質をめぐっては、1956年5月の水俣病公式確認直後から、熊本大学医学部の研究班が精力的に原因究明を行っていた。その結果59年7月に、原因は、地元にある新日本窒素肥料株式会社(現・チッソ株式会社)の工場排水に由来する有機水銀だという説が発表され、さらに4年後の63年2月には、原因物質は有機水銀の一種であるメチル水銀化合物だとされた。ところが政府が公式にこの結果を認め、水俣病公害病として公式に認定したのはさらに5年も後の68年9月であった。
なぜこのように政府の決定が遅れてしまったのか。それは当初の有機水銀説に不確実性があったからだ。工場の排水に含まれていたのは無機水銀だったのだが、これがどういうメカニズムで有機水銀に変わったのかが説明できなかったのである。このため工場側は、水俣病の原因が工場排水に由来する有機水銀だというなら、熊本大学の研究班は、このメカニズムを科学的に正確な実験データで証明しなければならないと主張した。

ノージック的なリバタリアニズムにおいて、どのように、社会秩序を保つのか。さまざまな、利害の衝突をどのように整理するか。こういった、
リスクコミュニケーション
だけが、唯一、ノージック的なリバタリアニズムを成立させうる可能性を開くわけで、つまりは、そういった
作法
がどういったものでありうるのか。その提示こそが求められている...。

科学は誰のものか―社会の側から問い直す (生活人新書 328)

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