絓秀実『反原発の思想史』

原発の歴史は、原爆の歴史と同じく、 戦後の冷戦構造の歴史だと言える。なぜ、今あれだけの数の原発が日本にあるのかは、そういった戦後の冷戦体制下における、日本のプレゼンスがどのようなものだったのかと、不可分ではない。
今、さかんに再稼働が、意味不明の再稼働の新判断基準なるものを、政府がでっちあげて、行おうとしているが、そもそも、なんでこんなにも原発が作られたのか、という問いが、最初にどうしても来るわけである。
掲題の著者は、1968年を中心とした、一連の全共闘の「学生運動」を、これまで、さまざまに、まとめる出版をしてきたが、今回の本は、その「鬼子」のようなものになる。
つまり、こういった思想運動が、その後、どのような形で展開していったのかを、原発を中心に見ていく形の、現代史となっている。
全共闘とは、いわゆる、一つの知識人である。つまり、知識人の「知」なるものの「歴史」だということになる。

しかし、吉本の思考のなかにかろうじて脱出口があるとすれば、そえは、奇妙にも毛沢東主義を「評価」してしまう時なのだ。吉本が高く評価する先行者の一人である中国文学者・竹内好を論じて、吉本は次のように書いている。これが書かれたのは、中国が中ソ論争からプロレタリア文化大革命へと転じる時期である。

竹内好は、現代中国の民話のなかで、日本に生きている異教的な思想家である。かれの著作を読むかぎりでは、論理的にどんな粗密があっても、この人は肉感のようなもので中国というものを判ってしまっているなどいう感じをいつもうけとることができる。たとえば、わたしが毛沢東の『実践論』や『矛盾論』や『文芸講話』をよめば、たんなる世界思想としてしか読めない。そして世界思想としてよむかぎり、毛の三部作は間違いだらけの三級品にすぎない。しかし、これを中国の民話思想としてよめばどうなるか? わたしにはそれが読めない。しかし、竹内好はおそらくそれが判っているのだ。この間違いだらけのつまらぬ認識論の思想が、中国大衆のどれだけの原像をすくいとっていうか、どれだけ背後に中国大衆の無声の声を背負っているかがわかっているのだ。(「実践的矛盾について」一九六六年)

ここでの、吉本隆明へのある種の評価は、それが黒田寛一の理論からは、でてくることはない、という意味での評価であることに注意がいる。

欧米に較べて、日本の新左翼毛沢東主義の影響が希薄だったことは、知られている。それは、一九六六年にいたるまで日本共産党が中国寄りだったことに、まず規定されている。共産党スターリン主義として批判することで一九五〇年代に登場した日本の新左翼にとって、毛沢東スターリン主義の亜流であることは、自明であった。それゆえ、彼らが参照するのは、スターリンに追放されたトロツキーであり、レーニンの党組織論を官僚主義として批判して、大衆の自然発生的蜂起に依拠した革命を唱えたローザ・ルクセンブルクであった。哲学的には、ルカーチ経由の戦後主体性論である。
しかし、中国でプロレタリア文化大革命が発動され、その「情報」が伝えられてくるに及んで、そこでの「実験」が知識人の一部を震撼させるとともに、新左翼にも浸透
していった。それは、壮大な社会主義的実験と受け取られ、科学批判の文脈にも接続されていった。

なぜ、毛沢東主義をここで、考察しているか。それは、この毛沢東思想が、その後の日本の思想の方向にさまざまに影響していくからである。
たとえば、毛沢東思想は、なぜか、タオイズムと関係して、考察されていく。つまり、その後のニューエイジ思想に関係するわけである。

中国的思考の中心にあるという、「気」を中心としたタオイズムの三極構造論を、『混沌の海へ』の山田に従って、もう少し概観しておこう。
老子において「一貫してつきまとうイメージは、中央ないし内部に位置する空虚な空間」、すなわち「無である道」であり、「万物生成の核となる気」である。「万物ハ陰ヲ負ウテ陽ヲ抱キ、沖気、以テ和スルコトヲ為ス」と、山田は『老子』を引用し、「『老子』という『三』は、外部空間に陰陽を、内部空間に沖気を配した三極構造にほかならなかった」と結論づける。
しかし、「三極構造から二極構造へ移行するのは、自然的傾向」に過ぎない。「おのれの無力さを自覚しつつも、なおかつおのれを貫こうとするとき、たとえば道家の思想が生まれ」、それが三極構造だと、山田は言うのである。
山田が、毛沢東主義に「伝統的なもの・土着的なものによって近代的なもの・西洋的なものを噛み破ろうとする強靭な意志」(『未来への問い』)を見る時、それはタオイズムとも重なっているだろう。毛沢東主義も、第三世界論も、そしてタオイズムも、それらは西欧的な知に対する「代替知」として導入されている。
ここで、後の章の論述のために注記しておけば、『混沌の海へ』が刊行されたのは、ニューエイジの教典となったフリッチョフ・カプラ『タオ自然学』の原書が刊行されたのと同じ一九七五年である。『タオ自然学』では、東洋の自然哲学の先進性を証明するために、中国科学史家ジョセフ・ニーダムが盛んに援用されているが、山田もニーダム研究者であり、『未来への問い』にはニーダム論が収められている。ニーダムも、毛沢東中国の政治的支持者であった。

例えば、日本の脱原発運動にとって、大きな影響を与えたといわれる、全共闘世代の、高木仁三郎も、大きく毛沢東思想に影響されていた、と掲題の著者は総括する。

もちろん、高木の毛沢東主義は緩やかなものであり、その後の高木は毛的根拠地論を後景に退かせ、市民主義者の相貌を全面に出すことになる。しかし、宮澤賢治への親炙といい、三里塚闘争をモデルとしたエコロジー主義といい、高木を支えているのが毛沢東主義であることは、疑いをいれない。だが、さしあたり、ここでとりわけ驚くべきなのは、一九八二年の時点で 毛沢東主義にナイーヴなまでに積極的に親和的な、高木の鈍感さと誠実さである。

(1968年以降、新左翼運動は、外国人差別問題などの、マイノリティ問題などの、個々の課題への対応へのシフトしていき、それに伴い、ワン・イシューで大きな人々の動員を行うものではなくなっていく。そういった状況において、三里塚闘争や反原発運動なども、毛沢東思想的な運動論をイメージされながら、考えられたのだろうか...。)
全共闘運動の指導的立場にあった一人の、津村喬のその後の思想においても、こういった延長に、間に日中国交正常化オイルショックをはさみ、反原発の思想を形成してくる、と著者は総括する。

では、原発問題とは何か。津村は次のように言う。

原発のエネルギーとは、原発をつくり続けることにしか使われないという自閉的なシステムで、体制の維持だけが自己目的化される今日の末期資本主義を象徴するものといえよう。原発問題とはエネルギーの問題でもなければましてや”安全性”の問題でもない。原発を作り続けるという、戦争やアポロ計画に匹敵する浪費の中で体制の延命、再編をやりとげるという問題なのだ。(「帝国主義政治戦略の再編------日米原子力決戦の中で」一九七六年)

資本主義批判としての反原発。この視点こそ、今日もっとも必要なものにほかならない。そうでないとすれば、反原発の論調は、せいぜい「安全な」クリーン・エネルギーというベンチャー・ビジネスに回収されていくだけだろう。そして、ベンチャーこそ、本質的に新自由主義的なものであることは、リーマンショックに帰結したこの一〇年の経験で、誰もがウンザリするほど知っていることではないだろうか。

うーん。ここで、原発の問題は、「安全」の問題でさえない、と言っているのは、それが、フーコー的な、国家による、統治のテクノロジーの問題と考えるからだが、例えば、今の政府もそうであるように、たとえ、日本で今後、原発増設が、かなり難しくなったとしても、第三世界に日本が売りだそうという姿勢は維持しているわけで、これは、新自由主義的な精神があるかぎり、終わることがない、という総括だということだろう。
なかなか、難しい問題だが、ひとまず、ここでは思想の方向を考察しているわけで、この後の方向がどういったものとなっていったのかに、焦点するわけですが、これが、いわゆる、
ニューエイジ
となる、と。上記でも、少しでてきていますが、なぜか毛沢東がタオイズムと接続されて考えられる傾向があり(同じ、中国の東洋思想ということなんですかね)、タオイズムこそ、ニューエイジ運動の中心的なものの一つですから、こういった方向に向かうことは自然なんですかね。
(たとえば、推理作家でもある、笠井潔についても、著者は以下のように総括し、ここにおいても、毛沢東主義から繋がる、影響を考える。

笠井においては、「マルクス葬送」という主題が新哲学派と共有されながらも、新哲学派が清算したオリエンタリズムだけは維持されている。それは、日本の読者に向けて書かれた作品であろう『バイバイ、エンジェル』が、矢吹駆以外には日本人が登場しないというエキゾティックな舞台に設定され、しかも、そのヨーロッパにおいて、矢吹駆が他のヨーロッパ人からエキゾティックなまなざしを向けられ、畏怖されているという枠組みに端的に表現されている。笠井は、マルクス主義を葬送しながらも、毛沢東主義清算していないのだ。


おりしも、ベトナム戦争のヒッピーが隆盛となり、こういった精神世界をより実体的に考える、神秘主義的な精神運動が「ブーム」となる。
エコロジー運動もそうだが、仏教などの東洋思想や、ヨガ。さらに、オカルト的なユングルドルフ・シュタイナー。まあ、ニューアカは、こういったものを、積極的に取り入れたわけですし、その後の、サブカルチャーは、ほとんど、こういったものの延長にある。
その中でも、ある種の、カリスマ的な評価が全般的に見られたのが、宮澤賢治である。上記で、高木仁三郎も評価しているし、まあ、こういったエコロジー的なことをやっている、ほとんどの人が評価していますよね。
では、なぜ前世代の宮澤賢治が、こういった、その後の世代を「まるで先どりしているかのように」評価されるような仕事ができたのか、というわけですけど、ここについても、掲題の著者は、

  • 大正生命主義

に注目する。

鈴木によれば、それは前史を持ちつつも、「日露戦争後から関東大震災に至る時代の思想・文化状況において、『生命』の語が氾濫し、『生命』という言葉がその時代のスーパーコンセプトとなった」ことと定義される。続いて鈴木は、「『大正生命主義』に大きな影響を投げかけた、西欧一九世紀末から二〇世紀初頭の思想を五つ」列挙する。
(一)「個体発生は系統発生を繰り返す」の命題で知られるエルンスト・ヘッケルの生気論的人類進化論。(二)アンリ・ベルグソンの『創造的進化』。(三)ウィリアム・ジェイムスのプラグマティズム。(四)エレン・ケイのフェミニズム。(五)クロポトキンアナキズム。以上である。これらのうちの幾つかは、現代のニューエイジ運動でも、しばしば参照される。

こういった、戦前知識人の「生命主義」と、近年のサブカルチャーニューエイジ運動との関係は、言われてみれば、近いように思う。それは、端的に、宮澤賢治の評価がそれをあらわしている。
では、そんな宮澤賢治は、「安全」なのだろうか。田中智学との関係が深いわけで、上記の大正生命主義を考えても、そんなに簡単ではないように思われる。

クロポトキンと深く親近的な右翼思想家は、五・一五事件の思想的背景なした、権藤成卿と橘考三郎(水戸・愛嬌塾)の、いわゆる農本主義思想家である(橘は実行にも加わった)。二人がクロポトキンに親炙していたことは知られている。

権藤は、自身の思想を簡便にまとめた著作で、次のように言う。

およそ国の統治には、古来二種の方針がある。その一は民衆の自治に任かせ、官司はただ儀範を示して、これに善き感化を与うるに留むるのである。その二は、一切のことを官司みずから取り切って、民衆を統治するのである。前者を自治組織と名づけ得べくんば、後者は官治組織と名づくべきである。
わが肇国の主旨は、全く前者の主義によったもので、東洋古代の聖賢の理想は、すべてここにあった。(『自治民政理』一九三六年)

ここに、権藤のコミューン主義が端的に表現されている。これが、クロポトキンの相互扶助的自治組織と、ほとんど同一であることは論をまたない。もちろん、クロポトキンはその範囲を全人類に及ぼし、権藤は東洋とりわけ日本に、その自治主義の伝統を見出しているという違いがあるだけである。日本の「社稷」の司祭が天皇であることは、言うまでもない。

掲題の著者は、こういった右翼農本主義が行った五・一五事件というテロリズムと、宮澤賢治との、「近さ」を指摘する。

宮澤賢治の童話「グスコーブドリの伝記」は、主人公ブドリが火山に一人突入し、それを爆発させて自死することで、地域農村(「社稷」!)の温暖化を図ったという「美談」で終わる。この結末について、高木仁三郎は困惑を隠さない。

これは、エコロジカルなテロリズムの思想であり、「社稷(コミューン)」主義的アナキズムが根本的に内包しているものなのだ。そのテロリズムを行使するためには、科学テクノロジーが使用されるか否かは二の次の問題に過ぎない。「社稷」主義的右翼においては、おおむね、原発のようなテクノロジーは否定される傾向があろうとしても、である。
宮澤賢治もまた、「昭和維新」運動の先駆者テロリストたちがそうであったように、地方(小)ブルジョア出身の遊民であり、遊民ゆえに「故郷喪失」の感情を抱いていた。「グスコーブドリの伝記」のブドリもまた、故郷喪失者であり、遊民である。

よく考えてみれば、こういった「大正生命主義」と、ゼロ年代などの、近年のサブカルチャーとの「近さ」も、興味深い論点のように思われる。笠井潔が、セカイ系に比較的、理解を示したのも、こういった延長に考えられるのかもしれない。
言うまでもなく、311以前の広瀬隆ブームも、「こういった」サブカルチャー的なものの延長に位置付けられたものであったわけで、この科学と「ニューエイジ運動」との
関係
が再度、これからの脱原発運動だけでなく、日本のサブカルチャー的なものの見通しを考える上でも、必要とされているように思われる...。

反原発の思想史―冷戦からフクシマへ (筑摩選書)

反原発の思想史―冷戦からフクシマへ (筑摩選書)