オタク空間

(今回は、あまりこのブログのスタイルとかに、こだわらずに、フランクに、書いてみたい。)
ここのところ、少し時間があったこともあり、アキバに一日ぶらぶらとしていたのだが、そこで、私が改めて驚いたのは、アキバの、かなりのエリアを使い、
フィギア
が販売エリアを、覆い始めていることであった。
このことについては、以前、「全国イタ車革命」という形で、検討したことがあったが、その頃は、なんというか、そういった萌芽が見られるというレベルで書いていたところもあったのだが、ここのところのアキバは、マンガやラノベや同人誌やDVDやゲームと、ほぼ変わらないくらいの存在感をもって、多くの店舗で、販売されている。
というか、その販売されている商品の、3分の2くらいは、新品じゃない、中古ではないかと思われる。こういったものが、新品を売っているところとあまり変わらないような店舗で、普通に売られている。そして、その数が半端じゃない。
アニメのフィギアは、大きさは、一般に手の平くらいなのだろうが、さらに、小さい昔のガチャガチャに入るレベルのもの、食玩くらいの大きさ、食玩そのもの、と、とにかく、さまざまなものが売っている。また、同列にして、トレーディングカードなどもあるが、それらの特徴は一言で言えば、

  • レア

ということになるのだろうか。もちろん、新品は売り切れになろうが、再注文すれば買える。しかし、例えばテレビのシリーズが終われば、メーカーは、自然と、販売を中止していくだろう。
しかし、アニメそのものは、毎期ごと、どんどん量産される。もちろん、そうすれば、当然、たくさんの登場人物があらわれる。この、

  • 少量販売
  • 多種類販売

の組み合わせは、自然と、それぞれに「レア」感を醸成していく。そして、大事なことは、そうやって、アキバに
大量
にあるものを、一つ一つ眺めることによって、ネット検索など比べものにならない、
リアリティ
があることである。実際に、目の前で実物を見るのと、ネットで画像や動画を眺めるのでは、明らかに、
印象
が違う。こんなことは言うまでもなく、情報理論的な意味でも、

  • 情報量

が違うのだ。私はこのブームは、相当に定着するんじゃないかと考えている。
こう言ってみたとして、人によっては、それがなんだっていうんだ、と思われているんじゃないかと思う。
そこで、以前、「全国イタ車革命」ということで考えた論点を深める形で、再度、論じてみようと思う。ようするに、この
多様性
が重要だということである。その一つ一つは、あるアニメのあるキャラであるわけですが、その場合、そのキャラは、たんに「それ」ではないわけです。そのキャラは、その物語の全体の中での、ある
象徴
としてあります。つまり、そのキャラそのものが、ある一つの「メッセージ」を体現します。そのアニメのストーリーは、時間にすれば、何時間にも渡るわけですが、そこにおいて、そのキャラが置かれた役割はなんなのか、このように考えたとき、それが、

  • 日本の全アニメの全キャラクター

において、分類されるわけです。そして、大事なことは、その「一つ」が、これを買うことになる、その人の
実存
に対応する、と考えるところにあります。そのキャラを、これだけ膨大にある中から、なぜ「ほかならぬこの一つ」としてその人が買い持っているのか、が、その買った当人との、ある物語的な象徴への対応関係を示唆している、というふうに考えるわけです。
ただ、こうやって文字で書いているだけでは、なんとも、実感がわかないと思われるので、この前自分が買ったのを紹介しているサイトから借用させてもらい、画像で見てもらおう。
一つ目は、つい最近、自分が重要な作品として、評価させてもらった、アニメ「輪るピングドラム」の最重要登場人物でして、


screenshot

なぜ陽毬(ひまり)が重要なのかについては、再度の説明はいいでしょう(作品を見てもらえば分かる、ということで)。もう一つは、アニメ「Aチャンネル」の、サブキャラでして、



screenshot

このアニメも近年の作品の中では、自分としてはいいイメージをもっている部類ですが、それよりもなによりも、なぜこのトオルというキャラなのかは、このマンガをみたことのある人なら、るんとトオルの関係から、なんとなく、どういった部分で自分が好感をもっているのかは理解されるのではないかと思われる。
こういった、アキバという
空間

進化
について、その今の現象とその方向について考えたとき、再度、あらためて、「これ」をどのように考えたらいいのか、ということに、どうしても考察が向かってしまうわけです。
私が今回、こういったものを考えていくときのキーワードだと思ったものが「空間」である。一般に、空間といったとき、アキバなら、それぞれのビルの中の販売のスペースのようなものをイメージするだろう。もちろん、それで間違ってはいないのだが、数学において、空間という言葉を使うときは、さらに、
抽象的
な、ほぼ「構造」と同じ意味で使うことになる。たとえば、私はこれを、

  • おたく空間

と呼んでみたいと思うのだが、アキバのマンガや同人誌やDVDやゲーム、もちろん、フィギアが売っているエリア。さらに、パソコンなどの電気部品を売っているエリアも、含めましょう。さらに、同人誌の即売会の会場で、同人誌が売られているときは、そのエリアも含めましょう。
さらに、2ちゃんねるなど、こういったことについて、話題にしている書き込みがあるような、多くのスレッドや、ツイッターの、おたく厨たちのつぶやき合い、もちろん、こういったブログも
電脳空間
という「おたく空間」と考え、含めましょう。
さらに、テレビにおける、多くのアニメ番組の放送も、この「空間」の中に含めます。さらに、これらを作っている、漫画、ラノベ、フィギア、アニメ制作の現場や中の人の生活空間も、含めます。
さらに、これらを消費している、おたくたちの日々の生活場所、その様子なども、この空間に含めるとします。
数学における、「空間」とは、実際の物理的な時間空間と言うときの、空間と、必ずしも一致する必要はありません。それは、ある「構造」がそこにあるとき、それを空間と呼ぶという感覚があり、より、抽象的なものになります。この場合は、インターネットの中や、テレビのコンテンツさえ、空間として含める、ということになります。
問題は、それらを一つと考えた場合の、この「オタク空間」を、どのようなものと考えるか、ということになります。
私のちょっとした印象として、こういったものが、日本の前近代にける「無縁所」のようなものとして、現代の日本において「機能」しているのではないか、と考えています。
そこで、「無縁所」とはなんなのか、となるわけですが、

江戸時代、女性には離婚権がなかった。たとえ夫の方に非があり、それを詫びるために離婚する場合ですら、三行半の離縁状を書き、妻を離縁するのは夫であった。それ故、基本的には、いかなる専横な理由であっても、夫は自由に妻を離縁しえたといってよい。
とはいえ、妻の側に離婚のための手段が全くないわけではない。夫が妻の衣類などを妻の同意を得ずに質入れした場合とか、妻が親元に帰ったのを、夫がそのまま三、四年放置しておいた場合などには、妻の離婚の意志は認められた。
しかし、妻が積極的に離婚の決意を貫くための最も有効な手段は、最初にあげたように、川柳にもよまれた縁切寺への駆込みであった。

この網野善彦の『無縁・公界・楽』ほど、重要な本はないでしょう。この本において、歴史学者の著者は、こういった江戸時代の、駆込寺のような慣習が、さらにそれ以前の歴史においても見られたことを、文献から証明することによって、日本社会に長く存在した
アジール空間
という存在に注目します。こういった、駆込寺のようなところは、非常に不思議でして、とにかく、ここに逃げ込んだら最後、どんな権力者も、その中に入って、連れ戻すということができません。つまり、治外法権であることを、なぜか、
権力当局自体が認めている
ということになります。こういった「自由」空間がなぜ、存在したのかは、なかなか、おもしろいテーマではあります。
たとえば、自分がある貴族でしたが、別の貴族に襲われることで、財産を没収され、殺されるかもしれません。しかし、たとえそのような事態になりそうなときでも、ここに逃げこめさえすれば、とりあえずは、その財産を、ここの中に持ち込むことで、財産の散逸を防ぐことができます。
このシステムのいいところは、「だれもがこういった事態に陥る可能性がある」ことです。だれもが、没落のリスクを免れることはできない、という共通認識が、だれもが、
こういった施設があることに同意する
という、不思議な結果となる、と考えられるでしょう。
こういったアジール空間を、日本においては、主に、仏教の寺が果してきました。もっと言えば、
森の中
となります。森の中は、庶民は深く入ることはありません。つまり、森は、修行僧の住処であったわけです。
日本の歴史は、日本書紀から始まるわけですが、この日本書紀において、まず、論語が中国から献上された、という記述があります。つまり、論語を、皇族の伝統として、自分たちのものにした、という記述が「ある」わけですから、この事実を尊重しなければならなくなります。つまり、日本のそれ以降の政治は、基本的には、中国の儒教を中心として、行われていた、論語政治を踏襲するわけです。
同じように、日本書紀には、仏教を受容していく過程が、後半のメインテーマとなっています。つまり、そう日本書紀が書いているのですから、当然、日本において、仏教の尊重は必須となるわけです。
こうして、日本社会は、以下の三つの柱によって、支えられるようになります。

  • 論語の献上の受容による、中国の伝統の論語政治の正当性
  • 皇室という日本書紀の記述以前から続く正当性
  • 仏教の皇室による受容による、その冠婚葬祭的な意味での正当性

ここでおもしろいのは、この仏教が、正統的な、政治統治のメインストリームに存在しなかった場合でさえ、その「居場所」が与えられ、そう簡単に、統治権力もこの秩序に介入できなかった、ということなのだと思います。
仏教は天竺から中国を通って日本に入ってきた仏典を中心に、日本国内で発展したものですが、おもしろいのは、その「科学」的な先進性です。仏教を受容した当時において、仏教は中国における、最新の知性でした。つまり、仏教と最新の技術には、区別がありませんでした。
そこから、寺の建築には、当時の最高の技術が使われます。そして、同様に、多くの仏像が作られます。注目すべきは、それらの仏像が、当時の
最新技術
だった、ということです。だからこそ、このように、大量に作られることに対する、インセンティブがあったと考えられるでしょう。
ところで、こういった仏像を当時作っていた技術者たちの生活と、今、多くのクリエイターたちが、フィギアを作っていることに、なにか
違い
があるでしょうか。私には、ほとんどその差異を感じられません。
私はここにおいて、こういった「無縁所」と「オタク空間」を、一つの位相のもとに、
接続
し、これらをひっくるめて、一つの空間として、表象することをイメージします。
その特徴は、一種のアジール空間としての、
社会のルールからの保護
が、「なぜか」社会の側から、提供されている空間だ、ということです。
たとえば、都の青少年規制条例というものがありました。しかし、都民の多くの反対運動によって、この条例の中身は実質、骨抜きとなります。つまり、
社会がこういったものの「強力な」規制を「求めていない」
ということなのです。よって、ネット上には、MAD動画と呼ばれる二次創作作品が、「なぜか」アップロードされ、消費されながら、削除も処罰もされない、という現象まで起きます。
また、近年問題となっている、テレビアニメを動画で海賊サイトにアップロードされる現象も、上記で指摘した、
メディアミックス
という現象を考えると、現在のあまり規制が厳しくなっていない状態は、逆にそれによって、多くの「視聴者」を獲得し、そのことが、
その他のメディアミックス商品の売り上げに通じる可能性がある
ということを考えたとき、興味深く思えたりもするわけです。言うまでもなく、子供は高価なDVDを買えません。しかし、こういった子供時代に見たものは、
一生
「消費」してくれるわけです。また、DVDを売りたいなら、さまざまなメディアミックス商品とセット販売にするなど、いろいろ、手段がないわけでもないでしょう。
私がなぜ、「オタク空間」と前近代の「無縁所」を
連続
させるのか、というなら、まさに、こういったオタク的な文化が、現代の
駆込み寺
のような、日本社会の精神的な逃げ場を提供しているから、と考えるわけだが、こうした場合に、これらを細かな「物」の体系と考えるより、なんらかの

として捉えた方がいいのではないか、と。例えば、フィギアの一体一体は、仏教における仏像の一体一体に対応するだろうし、マンガやアニメのストーリーは、仏教説話に対応する。そのように対応させていくなら、一つ一つの作品の特異性を、解析していくだけでなく、この
空間
全体の構造を分析していくような、作業が求められているのではないか、と考えるわけです。

ことは、今後の日本社会の見通しをよくします。都の青少年規制条例からも分かるように、今後も社会からの、オタク空間への攻撃が止むことはないでしょう。
2ちゃんねる、ネット上のMAD動画や、同人誌販売、漫画、アニメ、ラノベ、フィギアなど、さまざまな、オタク空間を構成する要素を、この日本社会において、どういった位相において定位すればいいのか。こういったものを擁護する場合の理論的参照点としての、
現代日本アジール空間
という定義の有効性は、よりいっそうのアカデミックな考察が求められているように思うわけです...。