永瀬伊織の真に描かれるべきだったもの

ラノベココロコネクト」の5巻以降を最後まで読んでみたが、私がもった印象は、4巻までと、ちょっと変わったなー、といったことだった。
しかも、その路線変更が、あまり、うまくいっていない。その辺りが、6巻までで終わりとしなければならなかった事情なのかな、とは、うがって考えてみたくもなった。
4巻までは、基本的に、「異能」とは、<ふうせんかずら>の攻撃に対する
防御
がテーマであった。「異能」は<ふうせんかずら>が彼らにぶつけてくる「迷惑な行為」で、その主体はあくまで、<ふうせんかずら>にあった。つまり、被害者は5人であり、その関係が変わることはなかった。
しかし、5、6巻になると、そういった<ふうせんかずら>が行う「異能」が、どういった現象を起こすのかの
信頼
が生まれたためか、その「攻撃」は、別のフェーズに移ってしまった。つまり、5人は少なからずその「異能」を自分の意志で「利用」可能な形で提供される。
つまり、その「異能」を彼ら5人が「使うかどうか」、その「異能」によってもたらされる現象を、自分たちが「行使」するかどうか、つまり、「共犯」が問題となる。
第5巻の、新一年生の宇和千尋は、言わば、「積極的共犯」と言えるだろう。
宇和千尋は、積極的に、その能力で、他人に「害悪」を与えようとする。まるで、ドストエフスキーの「罪と罰」のように、特別な能力を獲得した、宇和千尋は、それによって、自分が「特別」な存在になれると確信し、

  • どうせ見つからないのだから、なにをやったって、だれにも咎められない

と考え、人の道からは、とうてい考えられない、

  • 鬼畜の所業

におよぶ。特に、読んでいて「おぞましい」と思ったのが、稲葉姫子に自分を彼女の恋人の太一と思わせて、下着姿にさせる場面である。この描写が「比喩」だと考えるなら、彼は、もっと「鬼畜」の行為をしていたとしても、不思議はないとなるだろう。
「悪人」が無限のパワーを手にしたとき、そもそも、社会の側に、それに抗う手段はない。おそらく、これ以降、ほとんどの人が宇和千尋に「共感」できなかったのではないだろうか。
私は、それ以降を読んでも、どうして、宇和千尋が「改心」したのか、さっぱり分からなかった。最初は、今どきの、冷めた少年のような描かれ方であったが、世界を支配できる能力を手にしてから、彼は、非道下劣な鬼畜の野望を抱き、それを一歩一歩、実践に移す。
ところが、その「罪」が「ばれた」後、

  • なぜか

彼は改心して、「なぜか」純情純粋ボーイに変貌する。これは、驚きである。著者は、なんと、ドストエフスキーの「罪と罰」を「超えた」のだ。私が、これ以降、まともに読む気が失せた理由も分かるだろう。
どうして、私たちは、第5巻の宇和千尋を「おぞましい」と思うのか。それは、「罪」に対して「罰」がないからじゃないだろうか。宇和千尋は、明らかに、鬼畜の行為を繰り返した。それがもし、「頭に思い描いただけ」だったり「やろうと思ったが思いとどまった」ということなら、私たちは、そこまで思わないわけです。そうじゃなくて、彼は、その鬼畜の所業を実際に、実践しちゃったわけですよね。そうやって、実際に、「悪意」によって行われた「行為」に対して、5人が「罰」を与えなかったことは、このコミュニティの「非健康」さを、どうしても印象づけてしまった。
宇和千尋に、明確な「罰行為」が与えられたなら(例えば、少年院に入るなど)、私たちは、その間の時間において、彼の懺悔を受け入れていけるのだろう。ところが、5人は、なんの「罰」も与えない。
なのに
宇和千尋は、勝手に「なぜか」反省して、「いい子」に「なっちゃった」のだ。
うー。
ついて行けない orz。
いずれにしろ、それ以降、新入部員1年生の二人は、なんとなく、微妙な距離を置かれて描かれている印象を、どうしても浮ける(少なくとも、アニメ「けいおん」の、あずにゃんのようなフレンドリーさでは描けなくなってしまっている)。
対して、第6巻は、今度は「消極的共犯」と言えるでしょう。
太一と唯は、<ふうせんかずら>の与えた能力によって、

  • 人を救える

ことに気付く。彼らいつもの5人は、ランダムに他人が空想したイメージを、「見る」。つまり、この情報を追えば、他人が何を考えているのかが分かる。
彼ら二人は、青木の父親が、電車での痴漢行為の冤罪を、被害を届けた女子高生が、嘘で青木の父親を被害者にでっちあげたことに対する罪の意識で苦しんでいるイメージを見ることで、
青木を助けたい
という「他者救済願望」を実践しようとする。しかし、青木と稲葉は、この二人の行為を批判する。
「本来」ありえない、起きえない現象であり、そういった力で、現実社会に影響を与えれば、それに見当った責任を引き受けなければならなくなるのだから、慎むべきだ、という理由で。
しかしね。
そういうことなら、ちょっと作者は、もう少し「がんばらない」と、結局、なにを言いたいのか、さっぱり分からないんですよね。
だって、結果として、青木の父親の冤罪ははれて、青木の家族が救われちゃってんじゃん。しかも、作品の最後まで行っても、青木の家族は「救われっぱなし」。これじゃあ、

  • やってよかった

ってことも言えないですか? だから、作品は最後まで煮えきらない。太一と唯は、確かに反省する。でも、まったく「その意図から」ダメだったなんて、思ってないじゃん。だから、なにを反省したのか、さっぱり分かんないんですよね。
もし、太一と唯の救済行為が、結果として青木の家族を救うことになっても、問題があったと言うためには、そうやって、青木の家族が救われたことによって、

  • これだけの社会的な害悪が生まれてしまった

ということを、もっと明確に、作者が描かないと、逆のメッセージが生まれちゃいますよね。
第5巻も第6巻も、共に言えることは、

  • <ふうせんかずら>は信用できない

に尽きるわけです。だって、こんな奴、なにをしてくるか分かんないじゃないですか。第6巻で、太一と唯は、その能力で青木の家族を救えたように見えるけど、

  • たまたま

その頭に浮かんだイメージが、まったくの「デマ」だったら、より、青木の家族を窮地に追いこんだかもしれませんよね。どうでもいいことは、<ふうせんかずら>は彼らを助けたとして、最も肝心なところで、大失態をさせようと、たくらんでるのかもしれない。
彼ら5人が、まるで、<ふうせんかずら>の「異能」を、

  • 物理法則

のように、ある法則があると「勝手」に信頼しちゃってるのが、そもそも、どう考えても、「変」なわけでしょう。
結局、永瀬伊織(ながせいおり)の、前半での太一との恋愛が、どのように整理されたのかも分かんないし、彼女の「矛盾」が、どのように彼女の中で受け入れられていく、その道筋を描かれるのかも、曖昧なままだったし、ちょっと自分の期待したものとは違っていた、という感じだろうか。
作者は、この5人に、ちょっと「バランス」よく、感情移入しすぎたんじゃないだろうか。明らかに、この物語は、永瀬伊織(ながせいおり)と、稲葉姫子(いなばひめこ)の物語だった。作者は、その物語の「重さ」に耐えられず、
逃げてしまった。
凡庸なラノベ「日常」の中に逃げてしまった。まあ、この辺りが、作者の限界なのだろう...。