坂本龍一さんの「たかが電気」

坂本龍一さんが脱原発デモで行った一連の発言の中に「たかが電気」という言葉があったことを切り取って、デマゴーガー産経新聞が「中傷記事」をでっちあげた。
私はこの内容は、十分に「名誉毀損」にあたると思っている。
特に、坂本龍一さんというある世代にとっての、カリスマであり、
ブランド
を、こういったゲス新聞の、炎上マーケティングに利用する態度には、怒りすら感じる。
では、坂本龍一さんの、脱原発デモでの発言を分類してみよう。

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  • 脱原発デモに参加している人たちを前にして)[こうして人々が集まっているのは]原発への恐怖が充満している、ということではないか。
  • (それを受けて私たちがやれることは)電力会社への依存度を減らしてくこと。
  • (少しずつ、さまざまな原発以外の手段を実践していくことで)原発に頼らない電気を我々市民が選ぶことができるようになる。

そこで、以下の発言になります。

  • 言ってみれば、たかが電気です。たかが電気のために、命を危険にさらさなければならないのでしょうか。

ここでのポイントは、「言ってみれば」です。つまり、その後に続く主張は、少し抽象度を上げて、比喩的に言おうとしていることを意味します。ということは、その後に、「すぐに」続けて言っていることは、この内容の「補足」だということが分かるでしょう。

  • たかが電気のために、命を危険にさらさなければならないのでしょうか。

今までの上記の文脈から考えたとき、ここで「命の危険がある」電気とは、

のことを言っている、ことが分かるでしょう。つまり、ここで「たかが電気」と言っているのは、

  • 原発の危険を甘受してまで発電「しなければならない」と考える電気

が、一体、どれだけありうるのか、と問うているわけです。
その電気が私たちの生活を便利にするとして、その電気の「どれだけの割合を原発に依存してまで」発電しなければならないのか、そんな危険を受けいれなければならないような電気が、本当に「どこまで膨大な量なのか」。
つまり、

  • (私たちの生活にとって「どうしても必要とする」電気の量) − (原発以外の手段で発電可能な電気の量)

この量が、本当に、原発を動かさなきゃ足りない、というなら、「たかが電気」じゃないわけです。しかし、本当にこの量は「プラス」でしょうか?
本当に、いるものといらないものを分けて、効率的にできるところを効率的にして、それでも、「どうしても」必要な電気の量が、「プラス」だと言うなら、それは「たかが」じゃないですよ。でも、それが「プラス」じゃない、と言うなら、「マイナス」だとするなら、

  • 「(必須分と較べれば)余裕分の」電気

は、

と較べれば、

  • 「たかが」レベルの電気分

と言うことは、実に自然な発言ではないでしょうか。
私たち人類が、つい最近まで、電気を知りすらしていなかった(静電気くらいしか知らなかった)ことを考えれば、若い体力のある人たちにとって、電気のない生活は、それほど難しくないでしょう。だとするなら、子供だったりお年寄りが、彼らの弱い体力を補うレベルとして、どれくらい必要なのか、となるでしょう。
そうやって「どうしても必要な電気の量」を足していったとき、どれほどのものになるのか。夜の街を煌々と照らす街灯は、本当に、あそこまで必要なんでしょうか。その電気の量は、

に代えてでも必要な量なのでしょうか。

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また東浩紀さんの炎上マーケティングですか。
東さんは本当に坂本さんを尊敬しているのでしょうか。坂本さんの真意を理解しようとしているんでしょうか(こういう発言を見てると、坂本さんの「作品」は、自分の「思想」から評価するけど、坂本龍一さん「本人」を、自分の主張の「だし」にして平気な感性のように見えますけどね orz)。なんか、宇野常寛さんの寄付のやり方をめぐって、いちゃもんをつけてたやりとりを思わせるものを感じませんかね...。