千葉雅也『動きすぎてはいけない』

ハンナ・アレントが、ナチス以降の、この戦後社会において、大衆社会を、最も重大な問題と位置付けたとき、おそらく、現代社会は、なんらかの、

  • 次のフェーズ

に進んだ、ということを意味していたのかもしれない。
アレントが、全体主義の回避こそ、あらゆる政治課題における、第一の問題と位置付けたことで、この社会は、さまざまな

  • からくり

をビルトインすることが必須の課題となった。それは、前回書いたように、具体的には、人々をパブリックな存在として扱いながら、なおかつ、プライベートをもった存在として遇する、といったような、どこか、矛盾しているようにも思われる定式化であった。
しかし、いずれにしろ、そういった作法が20世紀の最大の課題であった「全体主義」に抵抗していく手段として、一定の「合意」を得てきたのが、現代社会だと言える。
そして、大事なことは、こういったことは、たんに「国家の制度」だけの問題ではない、ということである。つまり、私たち一人一人が、日々の日常の中で行う「行動」を、「そのようにしていくこと」が求められたし、実際にアレントを自覚しているかどうかはともかく、かなりの人たちが、そういった態度を自覚的にも振る舞うようになっていった、ということを意味する。
しかし、そうであることが、実際のところ、何を意味していたのか、という問いは決して、なくなることはない。大衆社会は、ほうっておけば、「暴走」することは分かっている。そうであるから、その大衆社会に、なんらかの「パッチ」をあてなければならない、というのが、アレントの構想であったし、そして、それは、実際のところ

  • 「仮面」の社会

ということであった。
つまり、私たちは、この大衆社会において、本当の意味での、他者からの「承認」を得られないし、得てはならない、ということである。つまり、私たちは、結局のところ、生涯の「孤独」を生きろ、と命令されたわけである。
アレントの引いた線によって、確かに、この大衆社会は、ある「コントロール」された様相を示すようになった。しかし、そのことが、この社会を「どんなものにしたのか」と問われたとき、それは、たしかに、(かろうじてであれ)全体主義ではなかったとしても、そういったものとは別の

  • なにかの困難

として、振る舞われている、といった状況が示されている、とは言えないだろうか。いや。もっと言えば、それは全体主義でないとまで、言いきれることなのか。つまり、

とでも呼ばれるような、長い長い潜伏期間の果てにあらわれるような、堪忍袋の尾が切れるような形で現れないとも限らないような、そんな非常に、ねじれて、奇妙な形になった「全体主義」として、だれにも「自覚」されない「全体主義」として、

というような、なにか変な、だれもがそれを知っていながら、だれもそれが「何」なのかを言えないような、そんな形のファシズムとなっているのかもしれない。
例えば、日本において、学歴社会や、長年言われ続けている子供の「いじめ」や自殺、近年、顕著にあらわれるようになった、「相対的貧困」であり、ネトウヨたちによって夜毎くりかえされる、ネット上での公開血祭りという

  • 祭り

の意味などを考えていくと、なんとも、

  • 「よく分からない」深刻さ

とでも呼ぶしかない現象は、なにかそんな、「潜在的全体主義の一つの「形態」として、実は、私たちの現前に「現れてきている」ということなのかもしれない。
人間は変わらない。大衆社会であれば、全体主義に結果するし、そうでない社会であれば、そうでない社会なりの、困難に直面する。というのは、たとえ、どのように社会が変わろうが、人間そのものの「何か」は変わらない、いや。そう簡単には変わらないから、である。
ここで、変わらない人間とは、人間のどういった性質のことを言っていると考えられるであろうか。
一つの例として、「麻薬」について考えてみよう。子供が周りの友達から、麻薬を打ってみようよ、と進められる。ドラッグをやれば、いろいろ、いいことがあるよ、と。そこで、その子供は、その子がくれたドラッグをやってみる。すると、何が起きるか。一つだけはっきりしていることは、

  • 禁断症状

である。ものすごく、強烈な「欲望」が内部から生まれる。もう一度、ドラッグをやらなではいられない。しかし、もう一度やるためには、今度は「売って」もらわないと、手に入らない。そこで、大金が必要になる。親に嘘を言ってでも、大金を貸してもらって、手に入れるしかない。しかし、こんな関係がいつまでも続くであろうか。
ここでは、二つのことが関係している。確かに、最初に私たちが麻薬を打ったのは、自分の「意思」であった。ところが、次に麻薬を求めたとき、それは、たんに、自分の「意思」と呼ぶことをためらわせるような、ある自らの物理的な存在様態の

  • 変容

が起きた後だ、ということである。つまり、私たちの身体は、私たちの意思と関係なしに「物理的」なのである。
自分が自分の思うようにならない、という表現は、自分は自分という「一つの統一体」である、という意識と関係している。しかし、言うまでもなく、私たちの体は多くの細胞で構成され、多くの不随意な筋肉が

  • 勝手

に行動し、私たちの体のホメオスタシスを維持している。それは、意思と呼ぶにはあまりにも、「非意味的」な、おのおのの、エージェントによる、「行動」とでも呼ぶしかないような、そんなものでしかない。

ツリーからリゾームへ。この指針を、浅田の解釈では、アドホック(その都度の仮の)でしかない、他者への接続したり/しなかったりの勧めと見ているように思われる。「スキゾ・キッズ」は快活に、切断と接続をスイッチする。しかしドゥルーズにとっては、もっと低速の、鈍磨した状況への注目も重要であった。ドゥルーズは実際、息切れせざるをえない人であり、アルコールに溺れた人でもあった。彼の言説には、自分自身からの逃走の魅力と危うさが、仄めいている。
せつ|したり/しなかったりということ。『千のプラトー』は、先ほどの「接続の原理」に加えて、リゾームの「非意味的切断の原理」というものを、次のように説明している。

(......)非意味的切断の原理。これは、諸々の構造を分かち、あるいはひとつの構造を横断する、あまりに意味をもちすぎる切断に対抗するものだ。リゾームは適当な一点で切れたり折れたりしてかまわない。リゾームはそれ自身のしかじかの線や別の線に沿ってまた育ってくるのである。

哲学は、たいていは、絡まったものごとに有意味な切断をして、ものごとを理解するための営みであると想いなされている。それに対し、「非意味的」切断も起こってよいとは、ひどくいい加減なことに思われるかもしれない。が、重要なのは、「意味をもちすぎる切断」の回避である。

ツリーからリゾームと言うとき、掲題の著者が言うように、私たちは、浅田彰が描いた「ポップ」な、躍動する、増殖過程をイメージしたわけである。しかし、浅田の描くこのイメージは、いわば、浅田的

  • エリートの「成功」の軌跡

をイメージさせる。浅田のような、エリートは、この現代社会を軽やかに、動き、その一つ一つを「成功」させ、どんどんと、成功体験を築き、はるか彼方の成功の頂きまで行ってしまう。そして、多くの優等生たちが、彼のその「あまりにもの成功っぷり」、

に憧れるってわけだ。
ところが、そうやってあこがれた、私たちの現実はどうだ。底辺をはいずりまわり、失敗の連続。私たちは、

  • なんの意味もなく失敗する

むしろ、成功こそ「偶然」にすぎない。リゾームは「ちっとも増殖しない」。つまり、これは、マイナスのランダム・ウォークなのだ。前に進まないランダム・ウォーク。ずっと、同じところを、行ったり来たりし続ける。
なぜ、そうなるのか。
それは、私たちが「愚か」であるから、と単純に言うわけにはいかない。それは、私たちの「多様性」が、むしろ「強いる」わけである。自然数のように、単調に前に進むことを

  • 選べない

私たちは、勇敢に前に進むのと「同じ」速度で、どんどんと後ろに後退する。そして、自然数にはありえなかったような、中途半端な所で、立ち止まる実数空間を、たじろぎ、悩み、右往左往する。いや。そんなもんでは、すまないのである。
私たちの歩みは、当然、数学者が実数空間以上に、

  • 自然

に感じている、複素数空間を右往左往することになる。それは、私たちの「数の本性」が、そうあることが最も自然であるからこそ、私たちの歩みを、そういったさまざまな「位相」において、進ませる。
私たちの歩みが、奇妙なまでに、ためらい、複雑に、さまざまな次元を進んでは戻らせるのは、私たちの「多様性」が、私たちを単純ななにかとしてあらせることを、許さないのである。つまり、私たちが自分がリア充になれず、悩み、苦しませるのは、むしろ、私たちそのものの本性にある「多様性」が、私たちにそう「強いて」くることに、

  • 素直

だということを意味しているわけである。

この「偶発性」という概念、ないし「偶然性」を、議論に導入せねばならない。偶々(たまたま)であるというのは、いかなる理由もなくそうである、解釈不能=非意味的であるということに他ならない。別のしかたの関係への変化は、純粋には、理由なしで、非意味的に、想像される------この自由=空間(スペース)を、種々の理由・意味づけの方式(物理的な時空もそのひとつである)から分離して肯定するのである。
定式化しよう。関係の外在性テーゼは、純粋には、項の何たるかに関係なく、いかなる関係であれ、(1)理由なしに=偶然的に想像されること、かつ、いかなる関係であれ、(2)無数に他の諸関係から分離されうるということ、を意味している。これは、関係=述語=出来事の論理的なアナーキズムであると言ってもよい。偶然性と分離、この二点が、外在性の意味である。

ある「結合」があったとする。このとき、その一方と他方は、なんらかの物質的な組み合わせが生まれることとなる。しかし、である。その一方と他方は、

  • なんの関係もない

のである。ただ、その二つは、ある物質と、別のある物質として、「そのまま」のものとして、意味もなく関係もなく、ただただ、

  • くっつく

わけだが、果して、これはなんなのだろう? なぜ、こんなことを書いているのか。私たちは、日々の暮しの中で、自分たちが毎日、判断している、さまざまなことを、それぞれ、「意味」において、解釈し、行動している。
先ほどあげた例である、麻薬を使うかどうかにしても、そうである。ところが、そういった「判断」とは、一体、なんなのか? ヒュームの連合説とは、私たちの脳の中で行われている、さまざまな「判断」も、一種の、民主主義において、多くの人たちが干渉しあって、なんらかの決定が行われていくような、そういった

  • 複数主体の合意形成システム

としてイメージすることを意味する。しかし、この複数主体を、さらに多く増やしていくようにイメージを拡大していったとき、そこには、まさに、細胞や、その細胞を構成している、さまざまな分子構造においてあらわれているような、上記にあるような、

  • 非意味的な結合と分離

の「それぞれ」が、それぞれになんらかの「意思決定」に関与しているのではないか、とさえ、イメージできる、ということなのである。
私たちは、オーバードーズを避けられない。私たちは、たんなる意思によって、麻薬を避けることができない。つまり、自覚的に避けていることが、

  • 知らないが、「そう」行う

ということを、やらないでいられることを、少しも担保しない。それは、もはや、単一的な意思だけでは、説明できないような、さまざまな「複数」性を同時に「持つ」からとでも言うしかないなにかなのであろう。
そして、こういった姿は、男女が好きになることであり、恋愛であり、愛においても、まったく、同様の様相を示す。

ドゥルーズによれば、「倒錯的な再性化は、脱性化する冷淡さの密度が高いものであるほどにそれだけ強力で広範囲に渡る」のであり、ぎりぎりまで「冷淡」であるならば、「再性化は、実施にあって、一種の飛躍として行われる」という。この「飛躍」に関する次の引用は、難解である。

実地での飛躍[saut sur place]とは何を意味しているのか。くりかえし[reiteration]の機能の特殊な役割は、マゾヒズムについてもサディズムについても、これ以前のページで明らかにされている。つまりそれは、サディズムの量的な累積性と加速性であり、マゾヒズムの質的な宙づりと凝固とであった。(......)サディズムと苦痛の明らかな紐帯、マゾヒズムと苦痛の明らかな紐帯は、実際はこのくりかえしの機能に従属しているのだ。(......)本質的なのは、次の事実である。苦痛は、その用途を条件づける反復の形態との関連においてしか、価値を帯びにということである。

再性化をもたらす「実地での飛躍」は、どうやら、ともかくも「反復」によって起こるらしいのである。しかしこれは、説明になっているのだろうか。引用の後半から分かるのは、二つのタイプの反復が、サディズムマゾヒズムを分かつということである。サディズムの本質は、「量的な累積性と加速性」の反復である。マゾヒズムの本質は、「質的な宙づりと凝固」の反復である。以上は、加速する/宙吊りになる------あるいは、減速する------反復行為、という違いによる二つのタイプの実地での経験論へと、これまでの議論をすべて、帰着させているように思われる。
本章の解釈では、マゾヒズムは、経験論的なものであった。マゾヒズムは、与えられた経験の部分を条件として、別の仕方の経験を分身させる。他方、サディズムは、経験しえない《欠如》へと向かう。その《欠如》は、間接的に論証されることでしかなかった。サディストは、実地では、破壊の累積・加速をしている。サディズムにおいても、激化する反復の経験的な快感なしでは、《欠如》の論証の「意気阻喪」と再性化、という相反することを二重に経験できないはずである。
さて、この後ドゥルーズは、「もっとも、こうした結果は失望させるもので、反復は快楽をもたらすものだ......という観念に還元されてしまうように思われる」と付言した上で、快感のために反復するのではなく、反復に快感が「従属」するのだ、と結論する。

(......)今や、自律的な畏怖や畏怖すべき力としての反復と同行し、それに従属するのは快感の方なのである。快感と反復は、互いの役割を交換した。実地での飛躍、すなわち脱性化と再性化という二重のプロセスの効果とは、以上のようなものなのである。両者のうちでは、死の本能が口を利こうとしているかに見える。だが、飛躍はまるで一瞬のうちに実地で行われるので、言葉の語り主になるのは、決まって快原理の方なのだ。

ようやく、『マゾッホ紹介』における『快原理の彼岸』の扱いを明らかにできるだろう。
サディズムマゾヒズムにおいて死の本能は、異なった反復の経験として作動するのである。一方で、サディズムにおける純粋否定は、唯一の真正なる《欠如=死》であり、それは、実地での<加速する反復の経験>にとっての極限である。他方、マゾヒズムにおける破壊的でない否認は<複数の死=分身>であり、それらは、<宙づりの反復の経験>において実現されるのである。

フロイトの考える「死の本能」は、死への「快楽」を意味し、それは、マゾヒズムサディズムが、両方、自らに向かう

  • 快運動

として解釈される。このように考えたとき、ある意味において、自殺は、一種の快楽衝動と考えられる。
いじめは、一種の、サディズムでありマゾヒズムである。フロイトが、「死の本能」と言うとき、そういった、愛であったり、恋愛であったり、快楽であったり、サディズムであったり、マゾヒズムであったり、フェティシズムであったり、といったような、こういった

  • どこか、人々の「意思」といったような「意味」で「閉じない」

「非意味」的な「衝動」の、オーバードーズであり、切断ばかりして、ちっとも増殖していかないリゾームといったような、

  • きれいに流れない

いつまでの、よどみ、汚なく浮遊し続ける、なんだか分からない感情の、ブラウン運動が、私たちを脅かし、不気味にさせ、憂鬱な感情を残していく。
この、なんだか分からない、よどんだ無数の感情が、私たちを、アレントの描く現代社会の、どこか、

  • 貴族的な

見通しのよさの「裏側」を与え、そんなに未来社会に楽天的になれない、という、謙虚さであり、真摯さを、同時に抱かせずにはいられない、ということなのであろう...。