櫻井孝昌『日本が好きすぎる中国人女子』

この本は、ある意味、「告発」の本だと言える。つまり、私たちが「知らない」だけで、実際の、中国の状況は、こうだ、と言うわけである。
それは、掲題の著者の「実感」として、明らかな自明性がある、ということなのであろう。
私たちの通念では、中国とは、ネトウヨたちが、尖閣問題などのデモで見られたように、過去の歴史の教育を通して、日本への「憎しみ」を増幅し、怨みを毎日、心に刻み続けている人たちだと思っている。そして、その通念を、大手マスコミが、毎日、

  • 煽り続けている

というのが、現状だと言えるであろう。
確かに、こういった側面はある。ある世代の若者にとって、歴史教育から受ける「暗黙のメッセージ」は、つまりは、日本は「敵」だということである。それは、社会通念として、造反有理であり、この前のデモのように、いざとなったら、日本に対してなら、なにをやってもいい、というメッセージとして受けとっている。
しかし、そういったことと、現在の世界情勢における、日本の状況には、一定の「誤解」がある。それは、戦後の日本とアメリカの関係が、積み上げてきたような、そう簡単に、日本が、もう一度、侵略国家となると考えることには、あまりにも多くの

  • 現実的なハードル

があることが示すように(実際、9条という、たかだか、憲法の一つの条文を書き換えることさえ、ここまで四苦八苦していることが示しているように)、日本の社会システムは、戦後の長い年月の間に、

  • 平和国家

としてのさまざまな「からくり」をビルトインしてしまっている、ということなのである。
もちろん、そのことが、現在の極右政権が、侵略戦争を始めることを考えない、と言っているわけではない。一部の「はねかえり」が、もう一度、戦前へのバックラッシュをもくろんでいない、と言っているわけでもない。
しかし、この本も誤解し、多くの人たちが誤解している、非常に重要なポイントがある。それは、こうやって、世界的に日本の再評価がなされている、ほとんど「全て」の点とは、実は、

なのである。この点が、非常に重要なのである。なぜか。それは、そもそもの、サブカルチャーというものの、特徴に関係している。

中国の若い女の子に、どんな日本のファッション誌を読んでいるのかと聞くと、『ViVi』と『mina』の二誌の名前があがることが圧倒的に多い。

言うまでもないことであるが、こういった若者ファッションも、一つのサブカルチャーである。サブカルチャーとは何か。サブカルチャーとは、言ってみれば、

  • 政府が国民に「与える」規範から外れているもの

のことである。例えば、中学生の女の子が着る「セーラー服」というものがある。これを着ることは、学校の「模範」となる学生に求められていること、という意味で、一種のハイカルチャーである。ところが、これに対して、さまざまな「差異」を意図して、女の子たちが、細かい部分を細工し、個性をだしていくことは、

である。国が強制してくる「学生としてあるべき着こなし」に

  • 反抗

して、女の子たちは、自らの「個性」を、そのファッションに投入する。
ファッションとは「差異」である。自らを世間と「差異化」することが、自らがこの大衆社会に「存在」することを証明する。よって、女の子たちは、ファッションをやめられない。ファッションをやめることは、この大衆社会では自ら生きることをやめることと同値であるから。
そして、必然的にファッションは「サブカルチャー」である。なぜなら、ファッションとは、その定義から、体制が強制してくる「何か」から、徹底して逸脱しようとする、大衆の側の

  • 差異化の運動

のことだからだ。つまり、ファッションは、ひとたび、体制側は強制してくる何かに屈服したとき、そのときがファッションの「死」だからだ。

中国では、大学に入るまでは化粧が校則で禁じられていたり、雰囲気的にもオシャレを楽しむのが難しかったりするのだが、だからこそ大学に入ると、それまで我慢していたオシャレへの傾倒が一気に進む女子が多い。より派手なメイクとファッションへと進む女子には『ViVi』派が多く、そこまで進めない女子たちに『mina』派が多い。これが私の印象である。

ファッションとは何だろう? ファッションとは、一種の、「仮面」である。女の子たちはメークをすることで、自分を隠す。しかし、他方において、そのメークを見てもらうことで、自分を「さらけだす」のでもある。
つまり、自分とは「メークをする」ことによって、与えられる何か、なのである。
中国の大学生になるまで、ファッションを、学校と国によって「禁止」されていた女の子たちは、大学生になって、

  • 自らに目覚める

わけである。彼女たちは、仮面をかぶることで「本当の自分に<なる>」のである。

「カワイイ」という概念には、その対象物が好きでたまらないという肯定的な意思が含まれていることが多い。それだけでなく、かなりの場合、「日本的な」というニュアンスが含まれているものに使われる。
「日本は日本にしかないものをつくる国だ」
日本を評価する世界の声のなかでこれがもっとも多い意見である。だから、アニメという和製英語は日本の商業アニメーションを指す言葉として世界に定着し、マンガもコミックとは別のメディアとして日本語のまま海外でも使われる。大型書店に行けば「manga」コーナーをみつけることは容易だろう。原宿を中心としたストリートファッションに対する世界の評価も、まさにそうだ。世界の女の子たちは日本の原宿ファッションに対して「カワイイ」と日本語で叫んでくれる。
私が数年前から感じてきた「世界カワイイ革命」というべき現象が垣間みえる。
この「カワイイ」をよりわかりやすく伝える言葉として、いま世界に広がりはじめているのが「萌え」。「MOE」(萌え)もまた「カワイイ」と同じように、着々と世界語への道を歩みはじめている。

ある意味、中国の女の子たちが、日本のファッションに魅かれていくのは、理解できるようにも思われる。
しかし、中国の多くの大学生たちが、日本の漫画やアニメに、興味をもつ理由はなんだろうか?

日本のアニメ文化が、日本人の想像をはるかに超えて浸透している中国では、『涼宮ハルヒの憂鬱』や『けいおん!』といった、美少女キャラが活躍する”萌え系アニメ”といわれる作品群も大人気。このあたりも「萌え」という日本語が中国で普及するのに大きく貢献していることはまちがいない。

以前、中国の出身の方に、普通の日本語を勉強していない中国の方たちが、日本語の「文章」を見て、その「漢字」をみることで、どれくらい

  • 意味が分かるのか?

と聞いたとき、だいたい、7割くらいは理解できる、と言っていたのを聞いた覚えがある。
このことは、非常に重大な意味があると私は思っている。
というのは、今度は、日本人が中国人の書いた文章を見て、同じように、7割理解できるかもしれない、と言えるからだ。
そもそも、中国とは非常に広い地域を指す言葉で、北の端と南の端では、日本のアイヌ語と沖縄語が、まず通じないだろうというのと「変わらない」事態があったことは間違いない。
しかし、おそらく「漢字」で書かれた文章は、ほぼ、どの地域かも関係なる、だいたい通じたわけである。
そういう意味では、日本を中国圏に含めることは、定義上、正しいのだ。
中国人は、はるか昔の太古の頃から、漢字文字によって、さまざまな地域の人たちは、意思伝達をしていたし、それは、日本人だって、漢字の文章を読むことによって、中国の文化を吸収してきた。そういう意味では、中国の人たちが、はるか昔からやっていたのと「同じ」ように中国語を読んできた、

  • 同じ中国人

なのである(つまり、「定義上」そうなのである)。

「子どものころから好きになるのは全部、日本のものでした」
そう口にしてくれる中国人女子たちに、これまでどれだけたくさん出会ってきただろうか。

さて。どうして、こういうことになるのだろうか? 中国の若者は、子どもの頃、アニメで「ドラえもん」を見たのであろう。あのドラえもんの世界に描かれていたものとは、典型的な「サブカルチャー」である。
あの世界には、一人として、

  • 模範的優等生

がいない。みんな、どこか「だめ」な特徴のある子どもばかりである。彼らはみんな、どこか、欠点をもっている。そして、その欠点を一向に克服できない。みんな、

  • 中間的

な存在である。全然、「国家が表彰状を与えて、褒めたくなる」そういったポイントがない。
しかし、である。
そのことが、圧倒的な、彼ら中国の子どもたちの「共感」を呼ぶわけである。自分がダメであること。人から秀でていないこと。そうなれないことは、圧倒的に多くの子どもたちの「現実」である。彼らは、日々の生活の中で、いかに自分が「特別」でないことを、嫌というほど、言われ続けるからこそ、

  • そうであっても「そうであるまま」に存在している

ドラえもんの描かれる「世界」は、彼ら子どもたちにとっての、重要な「単独」性をもつわけである。

そんな状況下、まず日本のアニメが世界中で、どんなかたちであれ、みられているという事実は決定的なアドバンテージと思うのは私だけだろうか。

サブカルチャーであること。そのことが、ある意味での、「普遍」性を与える。つまり、その国における「自由」の、

  • 大きさ

を示唆している。日本が特別というより、日本という国のその戦後の平和国家としての有り様が、この国の文化(=サブカルチャー)の

  • 自由度

を非常に大きくしてきた、というふうに考えるべきであろう。確かに、これだけの人口の多さを維持し、大衆文化の一定の「規模」を維持しながら、これだけ、

  • 自由

が担保されている国は、世界を見渡しても、それほどないのかもしれない。

広大な敷地を有する中国の大学は、郊外にあることが多い。そこでの寮生活。つまり、中国大学生の多くは、いわば合宿に近い生活を、大学という街で日々過ごしているのである。
こうした特殊な環境では、誰かが面白いといったものは、あっという間に周囲に広がっていくのは想像に難くない。
日本のアニメという共通原体験で育ってきた若者たちが、大学のキャンパスと寮のなかで日々顔を突き合わせている。
中国の大学がオタクの温床といわれる環境は、こうしてできあがっていくのだ。

私がこの本の主張に対して、「反対」の立場をとるのは、上記の引用にも関係するが、つまり、それは、

の特性にも関係している。サブカルチャーとは、必然的に、その「過激」化が、アンモラル「的」な方向に向かうことを運命としている。つまり、大事なことは、サブカルチャーの「延長」上に、必ず、

  • アダルト・コンテンツ

がある、ということである。つまり、絶対に、サブカルチャーは、アダルト・コンテンツの延長にある対象として、

  • 体制側によって「弾圧」される

運命にある、ということなのだ。この場合、アダルト・コンテンツが「重要」だから、一切の国家による介入を拒まなければならない、と言っているわけではない。そうではなく、アダルト・コンテンツはサブカルチャーの延長にあり、この二つを、明確に切り離せないがゆえに、アダルト・コンテンツの弾圧が、必然として、サブカルチャーの没落と不即不離の関係にある、と言っているわけである。
コミケなどの二次創作において、その「過激」さが、より強調されるのは、そういった対象が「価値」があるから、というよりも、ほとんどの人たちにとって「関係のない」そういった、フェティッシュな過激化を極めた対象を、どうしようもなく、

  • 消費

する、非常に「変わった」趣味の人たちが、ほんの一部だけど、存在して、たまたま、そういった少ないながら存在する連中の「精神衛生」上、役に立っている、というレベルのものでしかないのであろうが、しかし、そういったものの「過激」さを、

  • 弾圧

していった先には、今度は「あらゆる表現」の弾圧を正当化していくロジックが待っているわけである。
このことは、中国の大学生の関心においても、同様のはずである。サブカルチャーは、非常に身近な友人との「コミュニケーション・ツール」としての話題作りなのであって、ここを離れての

  • 意味

を、一義的に与えることはできない。むしろ、日本のアニメは、どこか「アンモラル」だからこそ、彼らの日常生活の「話題」になるのである。
大事なことは、この「連続」性である。
近年、クール・ジャパンとかいって、日本政府が、漫画やアニメやラノベやゲームを、海外販売戦略として、売り込もうと、この業界に

  • 介入

しようと、し始めている。そして、この本の著者は、なんとかして、この動きを拡大すべきだ、と言うわけである。
しかし、そんなことをしたら、どうなるか。日本の漫画やアニメやラノベやゲームが

ということである。「国家公認」の、体制文化となる。そうした場合、まず、なにが起きるか。徹底した、アダルト・コンテンツの「非道徳的」対象の、「弾圧」である。そういったものは、

  • 国家の品位に反する

のだから、国家が、世界に売り込むのに、自国の品位を落とすものを、売れないだけでなく、「見るだけで汚らわしい」と、日本の市場からの締め出しを行うようになる。
大事なことは、ひとたび、サブカルチャーの世界に、国家を介入させたら、

  • 国家という存在の「品位」に見合わないコンテンツは、自らのブランド・イメージを穢す対象として弾圧し始める

という結果になる、ということなのである。
このことは、非常に重要なことを意味している。
近年、体制派知識人といったような連中が、さかんに、国家中枢に関与しようとし始めているが、大事なことは、サブカルチャーで「商売」をしようとしている「知識人」が、国家に介入してはならない、ということである。国家中枢に関与しようとしながら、サブカルチャーを商売の種にしようとすると、間違いなく、

  • 国家の品位

弁証法にとりこまれる。そうすると、その一人の知識人の名誉の問題だけでなく、サブカルチャー業界全体の

を引き起すことになる。つまり、その一人の、目立ちたがり屋の知識人の、はねっかえりによって、日本のサブカルチャー業界全体が、

  • 窮屈な道徳的「規制」

の網を強化させられる。こうして、日本も「普通の国」へと、

  • 衰退

していくことになる。つまり、国のお金で飯を喰っている連中は、たのむから、その国のお金でブカルチャー業界を汚さないでくれ、ということである...。

日本が好きすぎる中国人女子 (PHP新書)

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