この本でも言及されているが、私は、東さんという人の『一般意志2.0』なる本の一体、どこが、評価に値するのかが、さっぱり分からなくて、このブログでも何度も疑問をていしてきた。
正直、だれでもいいので、この本の「可能性の中心」は、どこにあるのかを聞いているわけである。ところが、彼の周辺をかためる、信者からも、まったく、そういった話がでてこない。
ようするに、なんだか分からないが、彼に「好意的」かどうか(つまり、この人にブロックされているかどうか)の「区別」しかなく、この本の「どこ」が、「評価」に値するのかを、だれも説明してくれない。
もちろん、そういった該当の個所が、自分の不勉強のため、自分に理解できないなら、それでもいいわけであるが、実際のところ、一切、そういった議論が起きないというのは、どういうことなんでしょうかね。
そこで、最近刊行された『動きすぎてはいけない』という本で言及されていることもあり、『存在論的、郵便的』という本も、前半だけであるが読んでみたのであるが、多くのデリダの本の翻訳がでる前に、あのレベルの議論ができていることは、一定の評価があるのかもしれないが、前半の柄谷批判にしても、よく分からなかった。
たとえば、否定神学なるものを(おそらく、デリダが、そういう「用語」をどこかで使ってるのだろうが)、少なくとも、柄谷さんやクリプキの議論とからめて説明されていた、固有名が、あらゆる意味に回収されない(どんな意味による「説明」も、「正しく」なりえないという意味で、「否定」の記述となってしまう)から、だから、「神秘主義」なんだという主張も、つまりは、そういうふうに
- 現象学的
に言ってしまったら、柄谷さんやヴィトゲンシュタインやクリプキの
- 可能性の中心
を逃してしまうだけなんじゃないのか、としか思えなかったわけなのだが、どうなのだろう? だれか、この話題を広げてくれた人は、いるのだろうか?
私が分からないのは、ようするに、彼の取り巻き連中は、つまりは、そういった話をしているのだろうか、ということなのである。
こういった疑問をもつようになった、直接のきっかけは、『一般意志2.0』であるが、この本は、どう読んでも、いろいろな意味で、非常に問題含みにしか、私には思えないし、実際、世の中的にも、さっぱり話題になっていないわけで、じゃあ、なんで話題になっていないのだろう、と、どうして、そういった取り巻き連中は、話さないんだろう、という、素朴な疑問があるわけである。
東さんはベクトルという言い方で説明していす。『一般意志2.0』の四四頁ら四五頁にかけての該当個所を引用しておきましょう。
特殊意志は方向をもっている。つまりベクトルである。しかし全体意志はスカラーの和にすぎない。ルソーはそう言おうとしたのではないだろうか。全体意志が方向を消してしまうものだとすれば、ある一組の特殊意志がまったく別の方向を向いていたとしても------たとえば、あえて現代日本でわかりやすい例を挙げるとすれば、ある有権者が高齢者の福祉の強化を望んでおり(後期高齢者医療制度の改革)、もう一人の有権者が若年層の福祉の改革を望んでいたとして(子供手当の実現)、その方向の差異は考慮されずに、つまりは国のかたちをどうデザインするかは考慮されずに両方の希望がマニフェストに盛り込まれれば、ただ社会保障費ばかりが膨れあがることになる。他方でルソーは、一般意志を、そのようん方向の差異をきちんと相殺した、別種の和として捉えようとした。「差異の和」とは、スカラーの和ではなくベクトルの和を意味するのだと理解すれば、ルソーの記述にはなにも曖昧で神秘的なところはない。
一見もっともらしく聞こえるのですが、特殊意志がそれぞれ異なった方向を向いているベクトルだとすれば、それを合成した場合、お互いに相殺されてゼロか、それに近い値になる可能性があります。「後期高齢者医療制度の改革」と、「子供手当の実現」が本当に真逆の方向を向いているとしたら、二つのベクトルを合成すれば、片方の方向性が消滅し、もう一方がその分だけ短くなってしまいます。それがまともだと思う人はいないでしょう。そういう”ベクトル和”は、通常のルソー理解における「全体意志」のイメージです。
仲正さんは、非常に重要なポイントを指摘されています。つまり、ここで、なぜ、後期高齢者医療制度と子供手当を、例にあげているのか、
- わざわざ
この二つなのかを、よくよく、考える必要があります。『一般意志2.0』の後半で、ノージックの「リバタリアン」自由主義が自らの「理想」だと言う場面があります。言うまでもなく、ノージックのリバタリアン社会には、
- 福祉
はありません。つまり、この人は、ルソー政治学が、福祉を根絶やしにする、
- 正当性
を与える、と考えていたのではないでしょうか?
この人がさかんに支持した、橋下大阪市長は、大阪の市営バスなど、徹底した「コストカット」をしました。そして、そういった行為を、彼も
- 礼賛
していたわけですね。
そして、思い出していただきたいのが、3・11以前の議論です。そこで、さかんに話題になっていたのが、
でした。しかし、そこで、非常に奇妙な論陣が行われていました。というのは、ある経済学者を中心に
- なぜか
ベーシック・インカムにすれば「福祉が不要になる」的なことが言われたことです(当時、ホリエモンなんかは、法人税を廃止して、一律、消費税だけにすればいい、みたいなことまで言ってましたよね)。つまり、財政のスリム化が可能になる、と言われたわけです。まったく意味不明でしたが、つまり、彼らは、ベーシック・インカムによって、国民の「権利」である、福祉を剥奪する議論が可能だと思っていたようなのです。
そして、この「不思議」な議論は、なぜか、「トレードオフ」として説明されました。貧乏人が「ただ」で、福祉を受けられるわけがない。つまり、自分の臓器なりなんなりを
- 売って
「福祉」を「買え」と言ったわけです。
そして、この議論は、3・11以降も尾をひきずっている印象を受けます。
3・11で、災害の被害を受けた人たちに、国は税金を使って援助を行っています。大量の税金の投入が必要となりました。
しかし、です。
3・11以前の、
- BI派=福祉不要論
とは、そういった税金の投入に反対していた連中だったんじゃなかったでしょうか?
果して、その主張はどこへ行ったんでしょうかね? 興味深いのは、彼らがまったく「除染」について語らないことではないでしょうか。というか、語れないのかもしれません。なぜなら、除染には、多くの税金の投入が前提になるからです。
東さんは、「市民がお互いに意志を少しも伝えあわないなら」という表現に注目します。「意志を伝えあう」は、原文では、<communication>という言葉で表現されます。そこで東さんは、「一般意志」は「コミュニケーション」なしで生じると主張します。
ただ、この箇所では、その一方で「人民が十分に情報をもって審議するとき」とも述べています。「審議する」んだったら、「コミュニケーション」しているじゃないか、という気がしますね。少なくとも、引きこもっているオタクが、コミュニケーションしないで「審議する」というのは、日本語的にヘンな感じがしますね。
そういう意味が含まれているとすれば、先ほど見た岩波文庫の訳の[ ]の中の補足的な言い換え、[徒党をくむなどのことがなければ]は少し訳しすぎだけど、東さんの言うような不当な付け足しではないことが分かると想います。つまりこの場合の<communication>は、事前に「連絡」を取り、「交渉」して、意見調整をするというようなことを指していると理解するのが普通でしょう。
一方、日本語の「コミュニケーション」には、人間らしくて暑苦しい心の繋がりのようなニュアンスがありますが、<communication>は必ずしもそうした、ヒューマンな感じを含んではいません。元々、キリスト教の「聖餐」という意味だった<communion>という言葉だと、考えや感情の一致という意味になるのですが、<communication>の方は「情報伝達」とか「連絡」といった意味合いが強いです。一八世紀のフランス語で、現在のような心理学・人間関係論的なニュアンスを含んだ意味で<communication>という言葉を使っている例はほとんどないと想います。
つまり、東さんの最も重要な主張にしても、岩波文庫の訳にひきずられた、かなり強引な「誤読」なんじゃないのか。というか、どうして、その取り巻き信者たちは、そういった指摘をしないのか、と思うんですけどね。
例えば、『一般意志2.0』の最初の議論で、カール・シュミットがとりあげられますが、このことが示唆しているように、この本が、最初から、民主主義否定論から始まっていたわけでした。それも、シュミットに「わざわざ」言及するという形で、かなり
- 確信犯的
に主張しているわけです。つまり、この本は、ある意味において、
- 全体主義肯定論
の色彩があるわけです(というか、否定神学批判って、全体主義の再評価、全体主義にも、いい面がある、という主張とも、受け取れるのでしょうから)。しかし、上記の引用にもあるように、本当にルソーは民主主義否定論なのでしょうか。この事情をどのように考えればいいのでしょうか。
例えば、ハンナ・アーレントのルソー解釈には、かなり、全体主義の理論家と受けとっていた側面があったことは確かでしょう。そう考えるなら、アーレントを通したルソーを
- 再評価
するということが、「全体主義」の再評価という側面がある、ということになる、ということなのかもしれません。
しかし、掲題の著者による、この本においても、むしろ、ルソーを、カントの
- 超越論的動機
の理論や、ロールズの社会契約的正義論につらなる、正統的な
- ルール論
の延長で考える、という方が正当的な印象を受けるわけです。
立法をするには人間を超えた神のような力を示さないといけない。そうでないと、人民は「立法者」として信用してくれない。しかし、その人物が「権威」によって、人民を否応なく従わせるようなことになったら、それは人民の「一般意志」ではなくなってしまう。ルソーは更に、もっとややこしい問題を提起します。
もう一つ、注意に値する困難がある。賢者っちが、普通人にむかって、普通人の言葉でなく彼ら自身の言葉で語ろうとすれば、彼らのいうことは理解れないだろう。ところが、人民の言葉に反訳できない観念は、沢山ある。あまりに一般的な見解、あまりにもかけ離れた対象は、ひとしく人民には手がとどかないものである。各個人は、自分の個別的利害に関係があるのでなければ、どんな政府案も好まないのだから、良法が課する永続的な不自由からえられるにちがいない利益を、容易に認めようとはしない。生まれたばかりの人民が、政治の健全な格律を好み、国是の根本規則にしたがいうるためには、結果が原因となること、制度の産物たるべき社会的精神が、その制定自体をつかさどること、そして、人々が、法の生まれる前に、彼らが法によってなるべきものになっていること、などが必要なのであろう。こうして、立法者は、力も理屈も用いることができないのだから、必然的に他の秩序に属する権威にたよる。その権威は、暴力を用いることなしに導き、理屈をぬきにして納得させうるようなものである。
より根本的な問題として、立法者が「公けの利益」の観点から見てすばらしい「法」を提案しても、人々にはそれがすばらしいということが理解できない。先ほど、理屈が理解できないという話をしましたが、「法」を受け入れたら、結論として、自分たちの行動がどういう風に制約されるかくらいは想像できるでしょう。それまで自分の個別利害にだけ関心を持って生きてきた人たちにとって、「公けの利益」の実現という抽象的な目的のために、自分の生活に制約を加えるというのは難しいことです。
ルソーの問題を考えるとき、大事なポイントは、じゃあ、ルソーから時代をさかのぼって、現代の政治学は、どういった到達点に来ているのか、と問うことだと思うわけです。
例えば、ルソーとまったく正反対の議論をした、モンテスキューの三権分立論というものがありました。はっきり言って、モンテスキューの主張は、ルソーと水と油くらいに違う印象を受けますが、実際の現代政治においては、モンテスキューが主張していた、三権分立が、実際に採用されている。
こういった事情は、おそらく、ハンナ・アーレントの考える「政治」においても、同じような事情があるわけで、彼女の言う、たんにパブリックなだけでなく、「プライベート」を一定の「割合」において確保しようという主張には、どこかルソーにとどまらない、近代政治学の「発展」の一端を示していると考えられる。
この後、二四頁から二五頁にかけて、人口が増加し続けると、生活資料不足し、争いが起こるので、生き残るには、お互いに協力し合うしかなくなる、ということが述べられていますね。
拘束されず孤立していた人間が、たがいに結合しあったその条件が法律を作った。たえまない戦いの状態に疲れ、保持して行くことが不確実になったむなしい自由の享受に疲れた人間は、じぶんの自由の一部をさし出して残った自由を確保することを考えたのである。この各人の自由の分け前の総和が一国の主権をかたちづくる。そして主権者とは、とりもなおさず、合法的にこれらの自由の供託を受け、その管理をおおせつかった者にほかならない。
自己保存のために人々が結合するようになったその条件(condizioni)が、「法」の基礎になるというのは、社会契約論の共通前提ですが、ベッカリーアの示す条件はルソーのとは違いますね。ルソーは、前々回に見たように、「各構成員をそのすべての権利とともに、共同体の全体にたいして、全面的に譲渡する」と述べていましたが、ベッカリーアは、「一部 una parte」を譲渡して、「残った自由」を確保するとしています。この「自由の分け前の総和」が、「一国の主権 la sovrania di una nazione」を構成し、「主権者 il sovrano」は、「合法的にこれらの自由を供託され、管理している者 il legittimo depositario ed amministatore di quelle」であるということですね。
「人民」全体が「主権者」になるのではなくて、一人の「主権者」に渡すのだから、ホッブズ的な感じがしますが、ホッブズの場合は、主権者に、全ての「自由=自然権」を譲渡するので、そこは違います。しかも、完全に譲渡されるのではなく、「供託され」て管理しているだけのようです。これはむしろ、ロックの『統治二論』における「政府 government」の役割に近そうです。ロックは、人々は「自然権」そのものではなく、その解釈権と違反した者に対する処罰権だけを、「政府」に信託(entrust)するという言い方をしています。ただし、「政府」は「主権者」ではありません。ベッカリーアは、ルソーというより、ホッブズとロックを折衷したような理解をしていることが分かります。しかしこのような供託をつくっただけでは十分ではなかった。各個人の侵害からこの供託を守らなければならない。んぜなら侵害者というものは、たえず、その固有の分け前を取りもどそうとするだけでなく、他人の分まで侵そとする専制主義的な傾向があるから。
社会をふたたびその昔の混乱におとし入れようとするこうした専制主義的な精神をおさえつけるに十分な力強さをもち、感性にじかに作用する契機がここに必要になってくる。この契機がすなわち、法の背反者にもうけられた刑罰であった。
上記のベッカリーアの刑罰論が興味深いのは、たんにルソーの社会契約論を継承しているというだけでなく、モンテスキューの三権分立論も意識しているし、また、彼の考える刑罰論が、どちらかというと、
- ロックの社会契約論
の方が近い。つまり、ルソー以降の政治学が、それほど一枚岩ではなかった、という側面がある、ということなんですね。
ルソーの問題、つまり、その全体主義的側面とは、彼が、ホッブズから継承した、「すべての譲渡」を社会契約論の必要条件としたことでしょう。つまり、ここの
- すべて
というものの「意味」において、全体主義的な側面を強調したし、上記の引用にあるように、エリートの「思想」を理解できない大衆たちのアポリアを引き起こす。
ところが、そういった「原理主義」をとらなければ、つまり、ロックのような、一見、ルーズな、いいかげんにさえ見えるような、
- 部分的
な「政府」と市民の関係において考えるなら、そこまで、深刻な「矛盾」とまで考える必要はなくなる。
というか、実際に、現代政治学とは、そういったものであったのではないのか。つまり、なんで今さら、ルソー一元論が主張されたのか? これも、デリダがルソーにこだわった思想家だったから、ということなのだろうが、その「必然性」がよくわからないわけである...。
- 作者: 仲正昌樹
- 出版社/メーカー: 作品社
- 発売日: 2013/10/30
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