井上達夫『普遍の再生』

フランスの政治週刊誌「シャルリー・エブド」の風刺画に対しての、テロが問題となっている。雑誌社に押し入り12人を射殺しているわけで、非常に深刻な結果となっている。その背景として、フランスによる中東への空爆なども言われているが、その結果の甚大さに違いはあるとしても、日本でも右翼によるフライデー襲撃など、こういった事件は何度も起きているわけで、まったく他人事ではないわけである。
しかし、この事件を反対側から見たとき、あまりに「行儀のよくない」これらの雑誌の、やっていた行為に言及すること「自体」に、私たちには不快の感情なしには受け取れない。早い話が、この雑誌は「ヘイト・スピーチ・ビジネス」なわけであろう。言論の自由という、法の網目をかいくぐって、他人を愚弄することを言って、書いて、小銭を稼ぐ。まさに、資本主義が産んだジャンクな商売ということでは、結果の「ひどさ」を別にすれば、自業自得とすら言いたくなる。
しかし、こういった現象は、いわゆる「ヘイト・スピーチ・ビジネス」として、ニッチな商売として、一般的になってきている印象を受けなくもない。法律にひっかからなければ、なにを言ってもいい。言論の自由があるんだから、それが法律違反にならなければ、なにを言ったっていい。こういった事態を、まさに、上記のような「フランス」の言論状況を「例」にあげて、だから自分もヘイト・スピーチを「やっていい」と言うわけであろう。
(このことは別に、政治ジャーナリズムに限らないわけである。韓流ドラマが人気だったといっても、そこにはどこか、帝国日本の植民地時代に受けた自民族の侮辱の感情を晴らしたい、といった「意図」がまったく見られない、といったら嘘になるであろう。同じように、日本のサブカルチャーが徹底して「天皇の歴史」をドラマ化してこなかった、タブーにされてあることにも、その「意図」が読み取れる。)
つまりは、「差別」は「儲かる」、というわけである。少人数しか見ていない、隠れた場所で、なにか差別的なことを言う。すると、それを見ている少人数の彼らは、なにか「価値」のあることを聞くことができた、少人数の一人だと思うことで、うれしくなる。よって、そういった狭い範囲で行われる議論は、どんどんと「過激」になる、ということなのであろう。
昔から、こういった「売文商売」は、そういった意味において、卑しまれてきたわけで、それはむしろ、自ら、こういった商売を営んでいる人たち自身において、自覚され、自らを諫めて行うこと、といった風潮があったものである。ところが、近年においては、それはどちらかといえば、「権威」において行われるようになる。たとえば、大学教授が本を書いて、売るわけであるが、早い話が、彼らも「ヘイト・スピーチ」を書けば売れる、というわけで、そういった「恥ずかしさ」の感情が忘れられてきた(ただの「権利」の問題になってきた)。

ポストモダンとも呼ばれるこの思想傾向の仕掛け人の一人であるジャック・デリダは、さすがにこの点に不安を覚えたのか、「法は脱構築可能だが、正義は脱構築不能である」とするテーゼを唐突に唱道した。しかし、何故、脱構築は正義の手前でとどまりうるのか、とどまらねばならないのかについて説得力ある説明を提示しえておらず、また正義を他者受容と結びつけるまっとうな視点にせっかく接近しながら、正義に関する価値判断を反省や熟慮と対置された切迫状況における「決断」や「一つの狂気(a madness, une folie)」とみなして、二〇世紀前半に流行した非認識説的メタ倫理学の立場を驚くほど単純かつ頑迷に焼き直し、妥当要求をもった価値判断の対立を理由の交換と相互的吟味によって解決する規範的議論の可能性・必要性を否認する相対主義決断主義の姿勢を崩していない。これは反普遍主義の流れを変えるどころか、それに棹差すものである。

価値相対主義的に考えてみて、フランスのジャンク雑誌社が、ヘイト・スピーチ雑誌を発行したとして、それが「言論の自由」の範囲内だということから、イスラム圏の方々が、それに「嫌悪感」を抱くことが保証されるなら、この「ヘイト・スピーチ・ビジネス」は終わることのない、エンドレス・ループに入っている、と言わざるをえないであろう。
そしてこれを、「フラット化する世界」とかなんとか言って、世界の文化は、未来において均一になる、とうそぶく。そりゃあそうである。相手の文化を「挑発」して、相手の価値観を「愚弄」して、もしもそれに「耐えられる」なら、それはいずれは「慣れた」ということなのだろうよw つまりは、その主張とは「正義は脱構築可能だ」と言っているのと変わらない。そういう人は、きっと、デリダは間違っている、と言いたいのだろうよ。

しかし「日本軍がアジアで、少なくとも数百万ないし一千万の人々を殺傷したあの戦争[十五年戦争]に対して、天皇にも責任があるが、我々にも責任がある以上、天皇を責めるべきえはない」と、侵略者の一人として言うとしたら、そこにあるのは共犯者の間の「馴れ合いの寛容」である。

フランスのジャンク雑誌社が出版した、ヘイト・スピーチ雑誌を彼らは、「言論の自由」の名のもとに、擁護するわけだが、しかし、ここで擁護している人たちは、自分の「文化」にその判断が依存しているかもしれない、ということには注意しない。つまり、ここでの「寛容」は

  • 馴れ合いの寛容

なわけである。イスラム文化圏の人たちにとって、なにを「寛容」に扱うのかは、その内容に依存する。それは、フランスの人たちにしたってそうなわけである。フランスの人たちにとって、イスラム文化は「大したことではない」と「実感」される。だから、フランス・コミュニティの中ではそれは、「大したことではない」で、「馴れ合い」が成立する。まあ、だから、商売が成立する、とも言える。ヘイト・スピーチが「儲かる」とは、こういうことなのであろうw

認識体制批判は差別の認知的磁場たるオリエンタリズム的二元論自体のお解体により、アジア的アイデンティティの罠からわれわれを脱却させる。それによってさらに、この批判は民主主義や人権のの推進者という欧米の自己理解そのものが、分化化の旗手としての崇高な歴史的使命によって欧米のアイデンティティを確立しようとするオリエンタリズムが生み出した欺瞞的な自画像であることをも暴露する。オリエンタリズムはアジアと欧米の「本質」を逆規定的に相関させ、アジア像の歪曲によって欧米の自画像も歪曲するのである。
この自画像は植民地主義的侵略と支配、奴隷制、人種差別、ホロコーストマッカーシズムヴェトナム戦争等々、欧米自らの人権と民主主義に対する壮絶な蹂躙の歴史とその現代的遺産を隠蔽ないし周辺化するだけではない。それは醜悪さをぼかすだけでなく美質を過剰に誇張する。欧米社会が近代市民革命を遂行することにより民主化と人権保障を先駆的に確立したという世界史的自己劇化が修正を迫られていることをここで想起する必要がある。現代の実証的比較政治学の分析によれば、総人口に対する投票率など、一定の経験的指標によって確認できる実効的民主化が実現したのは、欧米においてもそれほど昔の話ではない。概して今せ世紀に入ってからの現象であり、けっして名誉革命アメリカ独立戦争フランス革命などの「偉大な時代」に起こったことではなかった。たとえば、英国対総人口投票率が一〇パーセントを越えたのは一九一〇年代に入ってからのことであり、米国が女性参政権制限を撤廃したのは一九二〇年である。ちなみに、米国は同じ一九二〇年に、共産主義者無政府主義者を迫害した「パーマーの赤狩り」やサッコ=ヴァンゼッティ事件を起こし、民主化にとってこの年がもつ記念碑的意義を減殺している。

私たちは、欧米ユダヤキリスト教社会から、世界に普及してきた「人権思想」は、まさに「オリエンタリズム」そのものであり、私たちアジア人が「鏡」として学ぶべき、唯一の対象と考えがちだ。つまり、ヘーゲルの歴史哲学がそうであったように、欧米社会は「進んでいた」、世界史の先を行っている、というわけである。だから、ここから西洋思想を学びさえすれば、世界史の最先端に行ける、というわけである。
しかし、実際には上記にもあるように、欧米の人権思想は、その実践において、一筋縄にはいかなかったし、それは今においてもそうだと言える。逆に、そういった中において、欧米以外の地域が、それほどのカタストロフィを迎えることなく「平和」な時代を続けられてきた、とするなら、そこに学ぶべきなにかも多くある、と考えるべき側面は否定できない。

第三に、普遍性と確定性の混同による批判がある。これによれば、普遍主義とは先在するルールが価値原理によって人間の行動や判断を一義的に確定でき、かつ確定すべきだとする信仰であり、言語の意味が具体的な言語使用に先立って存在するいう実念論的意味論と同じ誤謬を犯すものである。この信仰は他者の創造的な解釈の自由を排除しようとする意志であると同時に、自己の解釈の恣意を隠蔽しようとする意志である。

掲題の著者の主張は、この引用に尽きているように思われる。つまり、普遍的であると言う場合、それを「確定的」と混同してはならない、ということである。言論の自由が「普遍的」と言うとき、それは、ルールによって「確定」されている、と考えると上記のような混乱がおきる。欧米人権思想や西洋の「正義」が、この意味での「(確定的)普遍性」を主張していると考えると、言論の自由があるんだから、ヘイト・スピーチで儲ける「自由」がある、みたいな本末転倒した議論になるわけであろう。
このことを、どう考えればいいのか。例えば、柄谷さんは、それを「帝国」に対する「再評価」につなげている、と考えることもできるであろう。国際連盟は地球上の全国家を対象にし、EUはその地域の国家連合のような形になっていて、アメリカもそれに似ている。ある「ルール」を、一挙に「セカイ」に繋げようとするのは、どこかセカイ系を思わせる、中二病的な作法だとも考えられる。いったんそれを、地域連合のようなレベルにもっていき、そのレベルでの「作法」の合意を目指す。なんにせよ、他人を不快にしておいて、「法律に違反していないんだから、その範囲なら、なにを言ってもいい」とヘイト・スピーチ・ビジネスをしている連中を、どのように

  • 囲い込む

のかは、最終的には彼ら自身の自覚を待つほかはないわけで、今回のような事件は、大小を問わず、21世紀は続けることになるのではないか...。

普遍の再生 (岩波人文書セレクション)

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