アイマス渋谷凛の示す位置

たとえば、アニメ「アイドルマスター シンデレラガールズ」の第一話において、15歳の女子高生、渋谷凛(しぶやりん)は、島村卯月しまむらうづき)とまったくの反対の反応を示す。
島村卯月は子どもの頃からの夢であるアイドルになるために、スクールに通い、プロデューサーに誘われると、一つ返事でOKをだす。他方、渋谷凛は、街で偶然、プロデューサーに声をかけられて、アイドルにならないかと言われても、まったく興味がない、と言い

  • 拒否

する。そして、何度も誘われても断るわけであるが、つまりは、これが

  • 他者

なわけであろう。
たとえば、このように考えてみればいいのではないか。
もしも、渋谷凛があのまま、プロデューサーの誘いを断り続け、アイドルにならなかったら、どうなるだろう、と。このアニメは結果的に、渋谷凛がアイドルの誘いに応じたから、彼女への「好感度」が上っている、ということを意味している。しかし、日本の女性たちの多くは、別に、アイドルになりたいと思っているとは限らないわけであろう。
アイドルというのは、男性の女性に対する、一つの「視線」の典型である。それは、一つのお互いの関係を決める「作法」を、決定する。このことを、一種の比喩のようなものとして、「所有」と言ってもいいであろう。
なぜアイドルは、これほどの隆盛を誇っているのか。それは、多くの人がアイドルであることに、なんらかの「価値」があると見ているから、と考えられるであろう。そのように考えたとき、こういったアイドルという重力の中心に引き寄せられてこない、渋谷凛のような存在が重要になってくるわけである。つまり、そういった存在が、それでも、アイドルの中心の重力の中に入ってくる。そのことが、アイドルの「価値」の維持を意味する。
アイドルは、多くの女性にとって、なんの魅力もない、なんのやる価値のない無駄な時間であろうか。もしもそうだと、国内の多くの女性が思うなら、その時、アイドルの時代は終わるであろう。つまり、今多くの女性たちが、実際にどう思っているのか、渋谷凛のように、まったく興味ももっていないのかどうかは、大きな問題ではない。たとえば、今回であれば、渋谷凛がその誘いにのる「伏線」として、どの部活動にもそれほど夢中になれる魅力を感じずに、なにか夢中になれるものを探していた、というフラグがあったわけであるが、そういう意味において、渋谷凛はアイドルを「理解」して、その中にある何かを「理解」して、つまり、

  • 分かった(知った)

上で、参加してきたわけではない。そこに「探し」に来るという形で描かれている。いずれにしろ、このアイドルという「引力」の中心に、巻き込まれてくるという「磁場」の可能性が感じられないなら、アイドルは「アイドルになりたいと思った女の子」という、かなり特殊な

  • 部分集合

の中でしか、成立しない、閉じたコミュニティということになるであろうが、それでは多くの人を引き付けるという意味では不十分なのであろう。そういう意味で、渋谷凛(が参加するということ)は重要であるわけだが、そのことを彼女のポーカーフェイスが示唆している、ということなのであろう...。