大川玲子『イスラーム化する世界』

今回、安倍総理がエジプトで言ったことは以下であるわけだが、こうやって改めて見ても、驚くべき内容であることがわかる。

イラク シリアの難民・避難民支援、トルコ レバノンへの支援をするのは、ISIL がもたらす脅威を少しでも食いとめるためです。地道な人材開発 インフラ整備を含め、ISIL と戦う周辺各国に総額で2億ドル程度 支援をお約束します。
VIDEO NEWS » 日本は『十字軍』の一員なのか

読み方によっては、ISIS と戦う「ため」の支援であり、そのための「人材開発」「インフラ整備」つまり、軍人であり、軍事設備への「お金の援助」とも読める。というか、そもそも、これは「ISIS との戦い」を理由にした援助なのだから、それが人道援助なのかどうなのかといった区別は、支援側の一方的な名目にすぎないわけで、そういった区分けには意味がないわけであろう。
今回のイスラエルと、イスラエルとの友好国への歴訪には、明らかに、イスラエル「支援」の意図は読めるわけで、その一環として今回の支援がある、というふうに、ISIS 側が解釈するのは当然であるわけであろう。
今回の事件を前にして、まず、私たちの今までの常識からして、今回、何が「異常」な状況が起きているのかについては、一つだけはっきりしていることがある。

高橋和夫 まともに考えると、日本の石油の相当はアラブ諸国から来ていて、イスラム諸国から来ていて、どっちとつきあうべきかというのはあきらかで、といって、イスラエルをまったく無視しろ、というわけではないんですけど、この時期に、イスラエルと軍事面で関係を深めていこうという姿勢はなんなんだろう。別に、左翼とかリベラルとか、そういう問題じゃなくて、冷徹に日本の国益を考えたときに、イスラエルとつきあうのか、イスラム教徒とつきあうのか、選ぶ必要はなく、両方とつきあえばいいんですけど、比重の問題で、なに考えてるんだろう。
VIDEO NEWS » 日本は『十字軍』の一員なのか

この内容を考えるとき、今回の安倍総理の行動が、第二の敗戦として、日本の滅びを予言しているようにも思われる。戦前の日米戦争が、アメリカからの石油の輸入を止められたことによって、日本の敗戦が決定的になったのと同じように、今後、日本がアラブ諸国から石油を売ってもらえなくなる事態での進行は、ほとんど不可避のように思われる。安倍総理の周辺の、イスラエル大好き勢力が、アメリカの共和党勢力の一部に相手にしてもらえることが嬉しくて、彼らにこの日本を切り売りしていく一環として、今回の事件が後世に理解されることになるのかもしれない。
掲題の本が示唆するように、現代を「グローバル」化するイスラームの状況ととらえたとき、ISIS は確かに、イスラム社会の中でも批判はあり、その運動が、一つのイスラム社会の中での「運動」の、党派的な何かであると捉える側面もあるとは思うし、実際の勢力基盤として、欧米が敵対視しているほどの規模もない、そこまでの「巨大視」には、どこか、おおげさであり、「やりすぎ」なんじゃないのか、といった視点もある。
また、高橋さんの解釈では、そもそも「イスラム国」とは、ヨーロッパであり、アメリカの

  • 国内問題

なのではないか、といった側面もある、と指摘している。

高橋和夫 イスラム国って中東の問題のように思っているけれども、あれは中東というスクリーンに映っているヨーロッパの問題の気がするんですよ。ヨーロッパのモスクに行くと、一世はいいですよね、一生懸命、働いて、貧しくても、下働きでも。でも、二世、三世はおもしろくない。学校へ行ったら、お前イスラム教徒だろ、と差別されて、モスク行くでしょ。お父さんの世代の説教師は、ウルドゥ語で説教していたりして、でも二世代目は分かんないわけですよ、でも俺イスラム教徒だもんて言って、ネットで見たら、分かりやすい話で、シリアに行って死ななくていいんですか、なぜ同胞を救おうとしないんですか、という。それで、誰も俺のことなんか思ってくれなかったけど、俺が呼ばれてんだ、と思う子がいっぱいいて、行くわけですね。
VIDEO NEWS » 日本は『十字軍』の一員なのか

ヨーロッパが多くの移民を受け入れたとき、それらは「安価な労働力」という意味でしかなく、実際に、一世に対してはまだ、その程度の「合意」でなんとかごまかせたとしても、二世、三世となったときに、いつまでも「安価な労働力」というだけには留められなかったはずでありながら、しかし、結果としては、学校では差別される、就職もうまくいかない、ということになれば、一つのそれが

  • 疎外感

として、つまり、移民政策が「なんらかの意味での失敗」として、こういった形によって、あらわれている、とも受けとれる、ということなのであろう。
こういった文脈で考えたとき、今回のイスラム国の人質にともなう、賠償金の要求に伴う呼びかけは、

  • 日本人に向けた

呼びかけであるという特徴があったわけである。つまり、彼らイスラム国にとっても、安倍総理などという、どうでもいい奴がなにを考えていようが、彼らには興味がない。そうではなく、日本人の一人一人がどう考えているのか、と問うていたのに、まったく、知識人はその呼びかけに答えようとしない。というか、彼らは

  • 国内

向けにしか、常に答えていない。国内の「友達」とじゃれあっているだけであり、つまり、「オタク・コミュニティ」の中でしか話しておらず、そういった「外部」からの呼びかけに、なにかを反応するという「作法」をもっていないわけである。現代思想にしても、しょせんは、国内のオタクたちの「ネタ」にすぎず、それが国際的な文脈で読まれなければならない、という意識もない。日本のオタクが世界の最先端を行っているんだから、日本国内のオタク・コミュニティの中で、じゃれあっていることが、なにか、世界史的な意味があるとでも思っているのであろう。
上記のイスラム国の「呼びかけ」は、いわば、ヨーロッパ社会の底辺層の、イスラム・コミュニティから訴えられた、

  • 国内的異文化差別

  • 疎外感

から始まった、この社会のあり方への「異議申し立て」として読まれなければならなかったのに、一体、日本の知識人の中の誰がそれに答えたというのであろうか。
掲題の本は、近年のイスラーム社会の「グローバル」化の文脈において、むしろ、

といった、各世界の、その地域内において、ムスリム社会が「マイノリティ」の立場に置かれている人たちの中から、まったく新しいイスラームの解釈を、いわゆるイスラム学者でも、アラブ語を話しもしない、英語でクルアーンを読んでいる人たちの間から、生まれてきている現状に注目する。

しかし次章論じるように、近代以降、新しい潮流が生まれ、クルアーンと社会を結びつける解釈がなされるようになる。そうした流れから現代、グローバル化のなかでアラブ人でも宗教学者でもない者たちが英語で解釈書を著し、注目を集めるようになっているのである。ここが、本書のテーマとなる。
ここまでにもふれたように、現在、ムスリムたちは世界中に居住している。中東や東南アジアなどの伝統的にムスリムが多く住む地域以外においては、彼らは「マイノリティ(少数派)・ムスリム」となる。日本のムスリムたちもそうである。ムスリムにも当然ながら、イスラームの理解や実践には個人差があり、またムスリムとなった経緯が生まれながらなのか、もしくは改宗なのかによっても意識は大きく異なる。だが異教徒に囲まれて暮らす人びとには、ムスリムが多数派である社会にはない諸問題が生じる。礼拝や断食といった五行と呼ばれる儀礼の実践や子どもへのイスラーム教育、スカーフをかぶることによる周囲の反応といった問題に加え、ムスリムでえあることへの謂れなき偏見に対面することになる。しかしこれらの困難を通して、より深いイスラーム理解を得るムスリムたちも少なくない。自分がムスリムであることの意味を問う良い契機となり得るからである。

その一つの例として、アメリカの「フェミニスト」である、アミナ・ワドゥードに注目する。彼女の主張は、とかく、「男尊女卑」と解釈されるクルアーン

であろう。彼女は、クルアーンの「男尊女卑」は本質的ではないと考える。つまり、そんなはずがない、と言うわけである。つまりそれは、クルアーンが生まれた、当時のアラビア半島という社会の

  • 制約

にすぎず、それがクルアーンの本質であるはずがない、と考えるわけである。つまり、聖書であり、クルアーンは、そのベールをあばくとき、その「比喩的」な意味において、男女平等を唱える、「あるべき」ユートピアが語られている、と俯瞰的に読まれうる可能性を考えなければならない、となるわけである。

ただし、ワドゥードがクルアーンを否定的にとらえてアラビア語を批判しているわうけではないことも確かである。彼女はクルアーンとは普遍的な存在なのであるから、むしろ一つの文化的背景、つまりアラブ文化や言語に限定すべきではないと考え、全ての文化の同等性を表現しつつ、クルアーンの超越性を認めている。彼女によれば、クルアーンが啓示された当時のアラビア半島の状況は家父長的で、女性を、子どもを産むための存在と見なす男性中心文化であった。よってクルアーンの啓示にもこの文化的偏重あ見られるという。しかしクルアーンの大原則は社会における調和のある平等な関係であり、それを究極的には理解し実現しなければならないとも主張している。
この発言もまたなかなかに過激である。彼女は、クルアーンも特定の時代や場所における文化という制限のなかにあり、それをそぎ落としていくことで本来の普遍的な教えを抽出することができると考えている。これは近代以降、ムスリムの学者たちが議論し続けてきた大きな問題であるが、クルアーンを文学作品や歴史資料と同等に相対的に見すぎることは、ムスリム共同体によって認められることはなかった。しかしワドゥードは切実に男女平等のクルアーン解釈を求め、男性優位社会を如実に反映しているアラビア語の優位を崩さなければ、クルアーン解釈における男性中心的解釈を乗り越えることはできないという考えに至ったのだと考えられる。

こういった態度は「異常」であろうか? 私はむしろ、これこそ、本来の意味での、

の姿ではないのか、とも思うわけである。預言者たちがもたらした、神からの「言葉」は、それが与えられるべくして、預言者によって、この社会にもたらされる。そのように考えた場合、彼女のここまでの「情熱」が、一体、何によって動かされているのかと考えたとき、それを「預言者」の行為と並行して解釈されるのは、必然ではないのか、とも思うわけである。
同じようなことを、彼ら「イスラーム国」の日本人、一人一人へのメッセージにおいても感じるわけである。彼ら、ヨーロッパ移民の二世三世として、ヨーロッパ社会から、疎外され、ドロップアウトした人たちが、あえて、日本人たちに問うていることは、

  • こういった世界の現状が、どこかおかしいと思わないのか

といったものであったわけであろう。そういった「外部」からの問いかけに、なんの反応もできない、なんの回答もできない、無視して、国内の「オタク・コミュニティ」に向けて、予定調和の、「分かるだろ」漫才にふけっているうちに、その世界史的役割にも気付くこともなく、日本人は世界から見放され、この非道徳的民族は消滅していく、ということなのであろう...。