私たちはイスラムを理解できるのか

安倍という日本の総理大臣が、国内で、常に「国民の人気投票」の結果に注意をかけ続けなければならないことと、あいはんして、海外では、その圧力が弱まり、好き勝手な「旅の恥はかき捨て」並みに、国内的には、なんのコンセンサスもないことを、勝手に約束し、勝手に同盟を結び、勝手に、敵認定して喧嘩を売ってくるということは、今までもあったことであり、はっきりしていることは、私たちには、こういった行為をする総理大臣を止める、どんな能力もなかった、ということであろう。
国家は、前から言っているように、常に、特定の利益団体が、さまざまなプレゼンスを示すために、さまざまに圧力活動を行っている、そういった「空間」であり、その「パワー」の強弱によって、常に国家は

  • 暴走

を続ける。これは、この世に国家があり続ける限り、続く。一瞬も休まることなく、国家はこの「暴走」の連続であり、非連続なランダム・ウォークを続ける。そういう意味においては、国家とは

  • 狂気

の入れ物だということになるであろう。私たちはこの国家と、一体、いつまで「つきあい」続けなければならないのであろうか。とにかく思うことは、こういった「喜劇」の馬鹿らしさ、であろう。
なにか、国家という「一体」性を意味するものに、自己同一化して、なにかを考えるという作法は、さまざまな意味において、精神衛生上、無理がたたっている、ということなのかもしれない。言うまでもないことだが、どんな組織も、さまざなな意図をもって行動している、多くの多様な構成員によって行われている、というだけで、それ以上の意味を考えようとすることが、無理があるのだろう。
3・11以降、日本においてはっきりしてきたことは、国家であり政府の言っていることと、国民の考えが、多くの場合に乖離しているということであり、そして、多くの人たちがそのことに、慣れてきた、ということではないだろうか。国家や政府はいろいろなことを言っているが、それも、所詮は、一部の特定利益団体の代弁者であり、御用学者であり、

  • 彼ら

と自分の考えが一致しないのは、違う人間なんだから、当然だよな、ということであり、それを国家としての意志の同一性のようなところで考えなくなった、ということであろう。
今回の安倍さんのパフォーマンスは、アメリカのイスラエル寄りの右派勢力に神輿にかつがれた、ということを意味しているにすぎず、その行動が、まったくオバマ大統領の考えと一致しているのかも怪しいわけで、いわば、安倍政権が、どういった連中のポチになりたいかをよくあらわしている、と言える。
たしかに、人質をとっての身代金の要求は、問答無用の犯罪行為であるわけだが、イラク戦争から続く空爆によって、この地域は、ずっと多くの死者を出してきた。トータルで一体、何人が死んだのか。軍人だけでなく、民間人への被害はどれくらいになっているのか。オバマ大統領は強行に「イスラム国」のゆるやかな弱体化から解体を目指すと言っているわけであるが、その結果として、この地域にどれくらいの被害をもたらすのか、まったく予断を許さない。
アメリカがこの地域への侵略を行ったイラク戦争において、アメリカの目的が「石油」であることは、だれからも自明であった。そして、その戦略がオバマ大統領になっても続いている。アメリカのこの地域の石油戦略が、オバマ政権の現在における強硬政策に、一貫して続いている。
今回の人質事件において、イスラーム学者の中田考さんとジャーナリストの常岡浩介さんが会見を行っていたが、一つ理解しなければならないことは、お互い、イスラム教徒であることであろう。
つまり、そもそも私たちは「イスラーム」の考え方を理解していない、ということなのである。つまり、こういったことをまったく理解することなく、彼らに、自分たちの「作法」、つまり、近代国家であり、近代人権思想を押しつけて

  • 理解できない狂信集団(=テロリスト集団)

といった、レッテル貼りをすることは、まさに、思考停止にほかならない、ということなのであろう。

中田 一言で言うと、一人の神がいて、その一人の神に服従するということですね。それが、言葉自体が、イスラムということがそういう、服従する、帰依するという意味ですので。そういう教えですので、価値の根源が一つである。イスラム的に説明すると、イスラム信仰告白というのは、ラーイラーハ・イッラッラーという言葉になるのですけど、これはアッラーの他に神はないという言葉なんですけどね。ただ、神という言葉自体が日本語の神とはまったく、 一応イラーハという言葉を神と訳していますけれど、意味が違っていまして、崇拝されるものという意味なんですね。崇拝された人が神なんですね。それに、真の神と偽の神がいる。偽の神は偶像になるわけですね。真の神というのがあって、それは崇拝、実際されてるものだとですね、神でないものも崇拝されてるわけですので、本来崇拝されるものはなんであるのか、それを考えるわけですが、宇宙の創造主というのがいてですね、それが崇拝されると、他のものはどんなものであろうと崇拝の対象にならない、そういう考え方ですので、わたしは存在の根源と、価値の根源が一つであると、それがイスラム、一言でいうと、そういうものであると考えています。
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こういった考え方は、ユダヤ教でありキリスト教と、まったく同一だと言ってもいい。つまり、基本的な考え方は、イスラムユダヤ教キリスト教と変わっていない。では、なにが変わったのか。それが、欧米社会における、

  • 国家の世俗化

にある、ということになる。つまり、過去における宗教的な共同体の規範であった、こういった教えが、欧米においては、それに「類似」したもの、いわば「比喩」的なものとして

  • 国家

として、独立したオートノミーを始めるようになった。たしかに、国家には「罪」とか「罰」といったシステムがあるが、それは、近代欧米国家では、完全に信仰と独立して、構成されるようになる。

中田 まずですね。イスラム法以前にですね、最初に言いましたように、神ですね、創造主、世界を造ったものですね、それと、善悪ですね、あるいは規範でもいいんですけど、それを定めるものが、一つであると、そういう考え方ですので、神とは、創造主であって、世界の創造神であって、立法神である、立法者である、という考え方です、ですので、法という考え方は、当然あるわけですね、法があると、神の命令ですね、基本的に神の命令があると、となるわけです。その場合に、えっと、日本の法律とかだとですね、たとえば、なにか悪いことをやったときに、刑法だと罰があるわけですね、刑法でなければ、強制執行という形で、暴力で担保する、そういう考え方をするわけですね。ところが、イスラムの場合ですと、ただ、日本、西洋の法律もそうですけど、この世の法律だと、守らないこともあるわけですね、見逃がされることもありますのでね。誤審があることもありますし。イスラムだとそれはないと。宇宙の創造神ですので。それで、じゃあ罰はなにかというとですね、それは、来世になるわけですね。人間が死んだ後に受けるわけですから。最後の侵犯、これが裁判なわけです。ここで一挙に全部まとめて暴かれると。もちろん、恩赦のようなものもあるわけですね、必ずしも、悪いことをしたから全部裁かれるわけではないんですが、基本は決まっていて、これをやったら裁かれるというのがあって、最終的に来世で悪いことは罰されると。これが基本構造です。ですから、罰というのは来世の話です。
日本だと、特に刑法の場合だと、知らないということが言い訳にならないわけですよね、ところがイスラムの場合は、あくまで意図ですので、悪いことをすると、知らなければ基本的に許されるんですね。行為じゃない、基本的に意図を裁く。当然、人間だと意図は分かりませんから、でも神は意図を知っているので、意図が裁かれます。それでですね、基本的には、イスラム法というのは、イスラムを信じることで始めて義務が生じるわけですね。知らない人間というのは、義務は生じません、あるいは逆に、イスラムの信仰がなければ、いくら表面的に、イスラムの断食をするとか、礼拝をするとか、イスラムのまねごとをすることは、なんの意味もありません。
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まず、大事なこととして、このイスラムの教えは、このイスラムの信者となると宣言した人たちの間の関係性を規定しているものであって、

  • それ以外

の人たちをどのように扱うのかは、まったく別のことだ、ということなのである。これが決定的に近代法との違いであろう。あくまでも、イスラムの教えは、イスラムの神を信じるものたちにとってのものなのであって、「信じる」がゆえの、お互いの共同行為だ、という形になっている(イスラムの神を知らない異教徒が、そもそも「罪」を分からないのだから、意図を問うことは無意味ということである)。つまり、それ以外の「外部」は、「異教徒」というカテゴリーになって、まったく扱いが違ってくる。
そういう意味では、例えば、日本人が「異教徒」として、彼ら独自で民主社会を作って「平和」に社会を営んでいてくれることは、イスラム教徒にとっては、まったく「ありがたい」状態だ、ということにもなるわけである。
イスラムには、基本的に現世での「罰」というものはない。というか、その概念自体が意味不明ということなのかもしれない。それは、そもそも、相手の「意図」が問題とされているのだから、ということになるであろう。しかし、実際には、村の掟といったように、さまざまな現世での犯罪行為に対する罰則といったものは、イスラム社会においても行われている。では、それらをどう考えればいいのかが、以下になる。

中田 これはですね、基本的には何もないのが基本なんです。ただし、ものによってはそれをやった者を罰せよというふうな命令がある場合もある。たとえば、一番はっきりしているのは窃盗の場合で、男の盗んだ人間、女の盗んだ人間には、盗んだ人間の手を切り落としなさい、これは命令形として出てくるわけです。これはですね、これ自体が命令なのですから、これをやらないとその人間に罰がかかる、と。もちろん、その盗むことは禁じられているんですけど、その本来の意味でのイスラムでの罰は来世にあるわけですね。で、現世ではそういう結果が起きるわけですけど、起きないこともありますよね、見逃されて起きないこともあるしね、現在のイスラム世界ではその罰自体がありませんから。もう少し言うと、現世で手首を切り落とされれば、それが贖罪になるんでですね、来世の罰がなくなるんです、逆にいうと、現世で罰を受けてないと、来世で罰を受けちゃうんですね、
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イスラム世界において、現世での罰とは、「それをやった者を罰せよ」と書いてある行為を「行う」行為に伴うもの、と解釈される。つまり、「それをやった者を罰せよ」ということは、それをやった人を知っていながら、その人間を裁かない人間に、今度は、その人に対して

が発生する、という論理構造になっている。

中田 私は血を見るのが大嫌いなわけでして、嫌だと思う人間はやんなきゃいいだけなんですよね、ってだけの話だと思いますけど、切られたくなければ、盗ままなければいい、もちろん、イスラムの場合、盗むといっても、ある程度の金額はあるわけですね、たとえば、飢えた人間がおにぎりを盗んで、これで手を切ることはありません、そうではなくてですね、そういう必要な場合いというのはむしろ、盗んでも食べろというのが、イスラムの教義なんですね、そういう意味では、盗まなければならないという、そういう状況というのはないんですね、あと、冤罪ですね、冤罪はさけなければならないですけど、そうでなければ、切られたくない人間は盗まなきゃいいわけですから、というだけの話だと、私は思っていますけどね。
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中田 世俗の場合は根源的な根拠ってないわけですよね、ところがイスラムの場合だけでなく、規範倫理というか、規範論理というか、当然それには、我々の叙述というか、客観的なものにおける公理にあたるものというのは規範にもあるわけですけど、それ自体は証明のしようのないものですね、それがイスラムの場合は神の言葉となっているわけです、それで自然法と違ってですね、神の啓示があるのでしてね、啓示的に書いてある、そっから先は法学の手続きとまったく同じなわけですね、合理的にそっからその意図を、と。その場合に、今のように、手首を切れとはっきり書いてあるとですね、これはそれ以外の取りようがないわけですね。
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なぜイスラム教において、「盗み」がこれほどの重罪とされているのか。そこには、むしろ「結果」として、イスラム社会がそれによって

  • 繁栄してきた

といった、結果としての意味の大きさがあるのかもしれない。「盗み」が重罪となっていることで、商業活動は大きな「信頼」を担保している、と考えられる。つまり、こういった倫理のないところでは、商業の発展はないわけである。
このように比較してきたとき、近代国家の

  • 弱点

のようなものが、如実に現れているのを感じざるをえない。近代国家は「なにが罪であるか」を、あくまでも「社会契約」によって決定する。つまり、民主主義である。ところが。この共同体のメンバー以外は、そもそもこの決定に関与していないわけで、つまり「外部」が最初から排除されている。つまり、近代国家は

  • 他の国家

との関係性を決定する手続きにおいて、明らかな弱さを抱えている。アメリカやフランスや、中東の国々が、イラク空爆を行うとき、その「行為」が

  • 正しい

と決定する「規範」は、しょせんは国内における「社会契約」つまり、民主主義的手続きにしかない。つまり、この手続きさえ、なんとか突破すれば、実質は

  • なにをやってもいい

ということになってしまっているわけである。実際に、イラク戦争以降、おどろくべき人数の人間が、中東で空爆で死んでいる。もちろん、殺す側の軍隊は、軍人を「狙って」殺している、と主張するのだろうが、実際は、無差別爆撃と変わらない。民間人の多くがまきこまれて死ぬわけであろう。

  • これは罪ではないのか?

つまり、大事なポイントは近代国家においては、ひとたび、「国家」というマジック・ワードを通すと、どんな行為も「罪」ではなくなるわけである。いかなる理由においても、である。
これに対して、イスラムの教えを比較したとき、そういった「逃げ」は、まったく許されない。あくまでも、「誰」が「殺した」かの世界であり、基本的に殺人は罪であり、そのことは国家の指導者が

  • 民主主義なる国内的なコンセンサス

を通したからといって、なんの「普遍性」も意味しない、ということを言っているわけであろう。
イスラム教、ユダヤ教キリスト教における、預言者は、神の言葉を現世にもたらす存在としてある。しかし、この場合に重要なことは、そういった彼らが残した言葉が、実際に、今の社会を「成立」させるのに重要な役割を果す、ということである。つまり、その「掟」があるから、生まれる秩序が在るということなのである...。