原子力発電所の問題は、一般には「エリート」の問題と考えられた。というのは、早い話が、原発について詳しくて、電力会社やメーカーや経産省に、その原発専門として働くような人は、まず、原子力物理工学を大学の専攻にしている人ということになるだろうから、そんなことをまずやっているところは、東大か京大くらいしかないんじゃないのか、ということになり必然的にそうなった、ということである。原発は「未来のエネルギー」として、国策として推進してきたわけで、必然的にその技術を担う人材は、高学歴の人たち、ということになった。
つまり、今回の3・11の事態は、早い話が
- エリートの<限界>
を明確に示した事態であったということなのだが、どうもそれに対する「エリート」たち、いや、その「御用学者」や「エア御用」の反応が鈍いのが気になるわけである。
そもそも、電力会社はエネルギーを配電することが目的の企業であって、危機管理の専門家ではない。今週の videonews.com の地震学者の高橋正樹さんも言っているが、アメリカにおいては原発の危機管理は、原子力空母をもつアメリカ海軍の人たちが行っているといった側面もあるというわけで、そもそも、電力会社に原発の危機管理の能力が
- ある
と考えていた、日本の「エリート」たちの敗北だったといった危機感がまったく感じられないわけである。
掲題の本はいわば、現代における
- 「エリートの時代」の終わり
を考察しているわけであるが、それはどういうことなのか、というわけである。
第2に、江戸幕府大名をはじめ武士の階級は石高で示されるように、庶民と比較にならないほどの高い収入であった。江戸から明治に時代は移ったが、社会の上層部は経済的に恵まれていてもよい、という伝統と信念はそう簡単に消滅しなかった。
第4に、明治新政府の求める「富国強兵」「殖産興業」の政策を実行するためには、法律の制定から始まって諸制度の整備など、官吏の役割にはとてつもない大きな期待があったし、権限も与えられていた。その期待に応えて、かつ指導力を発揮する官吏、特に高級官吏には有能な人を高い報酬で起用する必要があった。困難でかつ高い指導力を必要とする仕事には、高い報酬を与えるというのは経済学が教えるところでもある。しかも、このような仕事のできる養育水準の高い人が少なかったので希少価値ということもあった。
私たちが今住んでいる日本社会の基本的な基盤は、明治維新において作られた。つまり、というころは、私たちの基本的なマインドは、江戸時代の基盤において、マイナーチェンジした、といった形で構成されている。
江戸時代の特徴は言うまでもなく「身分社会」である。しかし、この場合にそう言うとき、つまりはこのことは、
- 政治の主体=武士階級
ということと等値だったと解釈できる。庶民は基本的に政治に介入しない。つまり、税金を回収する側の主体ではない。しかし、ということはつまり、その範囲での「自治」を庶民が行っていた、と考えられる。
江戸幕府の統治政策は基本的には、「アナーキズム」である。つまり、ほとんどの側面において、幕府は住民自治に介入しない。住民は確かに、年貢という税金は払うが、それ以外のことについては、住民は住民で勝手にやれた、ということである。
しかし、そのことは住民にとって、高度な学問の修得が「モチベーション」にならなかったことを意味する。確かに読み書き、そろばん程度は、日常を生きていくためのものとして、寺子屋などで学んだのであろうが、それ以外の専門分野に対しては、基本的には、武士階級の「教養」として囲い込まれていたと言ってよく、庶民の高度教育化が、ほぼ進むことはなかった。
一言で言うなら、この状況が変わったのが、明治維新以降ということになるであろう。
第4に、軍国主義へ向かう中で、日清・日露の両戦争での勝利というできごとが発生し、国民全体が軍隊を寛容の眼、あるいは憧憬の眼で見るようになった。これら勝利の立役者は当然のごとく軍人なのであり、例えば東郷平八郎前述のように「軍神」にまで祭り上げられるほどであった。軍人は国のために尽くす英雄ととらえられるようになったので、軍人が政治家なり首相になることに抵抗はなくなったのである。
第5に、これまでで強調したように陸士・海兵・陸大・海大などは基本的に学費が不必要だったので、低所得家庭の子弟で野心のある少年の場合、政治家になるためのステップとして軍人になることを望んだ人も結構いた。
そもそも、何が明治維新になるときに変わったのか。それを一言で言えば、
- 義務教育化
にあったことは間違いないであろう。どんなに貧しい家庭の子どもも、みんな小学校に入れられた。このことには幾つかの意味があったであろう。なぜ、国民全員を子どもの最初の段階で「共通」化されなければならなかったか。まず、
- 天皇宗教への入信儀式
を、どうしても行う必要があった。特に、子どもの幼い、なににも穢れていない時期に。次に、日本の殖産興業化において
- 教育水準の引上げ
は、どうしても実現しなければならない課題であった。最後に、そこにおける
- 競争
による、優れた人材のリクルートは欧米における、近代国家の「基礎」であったわけであるが、ここでの重要なポイントは、
- 優れた人材を競争させ、この社会の埋もれた陰から見つけ出す
ことが、国力の上昇にか欠かせない要素だった、ということになる。
こういった特徴をもっとも反映させていた組織こそ、帝国日本軍ということになる。帝国日本軍のエリート養成学校は、上記にあるように、低所得の家庭の子どもも受けいれたことで、そういった家庭の子どもにそこに入ることへのモチベーションを与える。そして、この傾向をより決定的にしたのが、日露戦争における、条件付きながらの「大勝利」ということになるであろう。ここにおいて、軍人エリートは日本の完全な
- 市民権
を得ることになる。軍人は日本の「ヒーロー」になったわけである(というか、上記にあるように、「軍神」として、靖国神社を通して「祀られる」対象になっていった、というところが重要なのだろうが)。
しかしここで勘違いをしてはならないのは、軍人は「日本を守る」からヒーローなったのではない。世界中を征服して、日本の市民に「戦利品」を分けてくれるから、日本人たちは、軍人に「たかる」ようになる。軍人は「金のなる木」になった、というわけである。
ここまでを整理すると、江戸時代から明治維新を経て、日本の戦前は、
- 全国民に対する「共通」の義務教育化
- その中における「等価な条件」における競争による「優秀」な人材のリクルート(それに伴う貧困家庭への金銭的援助)
- 近代国家の基礎となる、ハイレベルな官僚人材の維持
というフレームになるであろう。しかし、ここで私たちは上記の過程が一体、何を意味しているのかを考える必要がある。
兵学校に在学中の成績が昇進にとって重要であるし、時にしか起こらない戦闘での成果を考慮するよりも、年功制によって昇進がなされる特色があった。
官庁・企業における人事政策の基本も年功序列制だったが、軍隊での人事の基本はそれ以上の年功制だったのである。これは若い時代に実力を示した人や示さない人の昇進において、あからさまな人事評価を基準にした差をつけず、組織を構成する人の全員のインセンティブを大切にするという動機がある。しかし背後では人事評価をしっかり記録しておいて、中年以降になって昇進につける資料として用いたのである。
なぜ官僚の所得の伸びが小さかったかといえば、次の事情がある。第1に、政府財政が厳しくなったこと。第2に、軍事大国化に向かったので、官僚の俸給にまわすよりも、軍事支出にまわすようになった。
よく考えてみよう。組織にとって、その組織を構成するメンバーの「モチベーション」を維持するために、大事なポイントはなんであろうか。言うまでもないであろう。
- がんばれば、出世できる
という「期待」であろう。もしも会社に入った時点で、自分が出世できないことが分かっていて、最初から同期の高学歴の馬の骨が、エスカレーター式に出世していくことが分かっていたら、だれが真面目に働こうなどと思えるだろうか。しかし、ということは、日本の企業がやっていることは、
- 非常に細かい「人事評価」
ということになるわけである。つまり、「日常」をなんとかして、社員に「可能性」を感じさせて、「がんばらせる」ことができるか、が組織の「最優先事項」となるわけである。
このことが何を意味しているか。軍人は確かに、戦争をする「能力」が問われる役職である。弱い隊長の部隊は、相手との戦いで負けてしまう。しかし、そもそも、戦争を行うなどということは
- 非常事態
なわけで、日常の「評価」と真っ向から対立する。日常的に軍人が行うことはむしろ「事務作業」と言ってよく、そういったところで「評価」をしてしまって、こういったことが「得意」な人間を、隊長にしてしまうと、まったく「使えない」部隊になるという結果に陥るわけであるが、しかしそれをやらないわけにもいかず、という、まさに
- 官僚化
が、日本の政治システムを侵食していった過程こそ、明治維新の「結果」と呼んで間違いないであろう。
しかし官僚の世界は、前例を重視して新しいことをなるべくやらないという保守的な態度をとる、規則万能なので画一的になる、出世の妨げになるので責任回避や自己保身の精神が強い、などのいわゆる官僚主義がはびこるようになることは各国の歴史の教えるところである。
官僚や、学校勉強優秀者や、東大合格者が「得意」なのは、とにかく「暗記」して、
- ルール通りに行う
ことだと言えるだろう。とにかく、「間違えずに行える」わけである。しかし、このことは逆に言ってしまえば、失敗しそうなことにはチャレンジしない、と言っているのと変わらないわけである。
官僚が省庁内で出世するために有効な手段は、新しい事業をするための予算を獲得することであって、それに成功すれば有能な人とみなされる風潮がある。その事業がたとえ国民のためにならなくとも、あるいはむしろ有害であったとしても、とにかく予算を獲得すればいい仕事をしたとみなされるのである。
官僚化とはなんだろうか? それは一言で言ってしまうならば、
- 本来の目的と関係なく、組織がその「組織維持」を「目的」として、勝手に暴走していく
ことだと言えるであろう。このことは非常に重要なポイントを含んでいる。なぜなら、それによって彼らの「序列」が決定もされていくからである。なぜ、原発を日本は止められないのか。それは、日本の官僚が
- 原発を推進することによって、今の役職を獲得していった
連中によって占められているからなのである。日本の官僚の偉い人は「みんな」、原発を推進した「から」、偉くなったので、それを批判することは、今の「幹部連中」の
- 正当性
を問うことに繋がっていくために、だれも口に出せないから、というわけである。
管理部門が企業や官庁での中枢部門として君臨していた時代は、日本経済が好調な時代においてはさほどの問題は生じなかった。現業部門はやや誇張すれば放っておいても成長する時代だったのである。しかしバブル期以降に経済が不況の時代に入り、一方で世界経済はグローバル化の道に入るようになり、企業間の競争が激しくなる時代を迎えた。企業は製造・販売部門において他企業との競争に立ち向かわねばならなくなり、これら現業部門が企業の生死を制するほど重要性が増すようになった。こういう分野での成功者が企業の経営者になる傾向が強くなったので、これまでのような管理部門出身の経営者が取って代わるようになった。
そうすると管理部門で成功した名門大学出身に替わって、現場で安価で良質のモノをつくりまくり、そしてそれを売りまくるというバリバリと業績を上げた人が経営者になる時代を迎えた。そういう人の中に名門大学出身者もいるにはいるが、非名門大学出身者の数が増加してきた。勉強のできる人よりも、現業部門で猛烈に働いて成功する人に、非名門大学出身者が多いのは理解できることである。名門大学出身者の中には例えば人に頭を下げまくるとか、体力勝負といった働き方を好まない人が結構いるだろうし、非名門大学出身の人は現場に出て、「ここは自分たちの勝負どころ」と、ビジネスに非常に頑張る可能性がある。
私たちが働いていて、なにかの案件があり、プロジェクトが出発し、人材が集められ、開発が始まったとしても、それが完成すれば、
- モノはできた
わけで、開発メンバーは基本的には要済み、ということになって「解散」となるわけであろう。
つまり、どうしてこれと同じことが「官僚」に起きないと考えるのか、ということなのである。明治維新直後は、確かに近代法の整備も、まったく足りておらず、官僚による「開発案件」は引く手あまたであったであろう。しかし、それらも整備され、社会が安定していけば、基本的に
- 官僚は用済み
になっていくのではないのか? これと同じことが、戦後の復興からバブルまでの日本であったわけであろう。上記でも言ったように、官僚が得意なのは、暗記と「間違えずにルールを適用」する、その「正確」さ、であるわけだが、これらの能力に
- 需要
がある「時代」は、官僚バラ色時代となるわけであるが、ある程度社会の整備もされて、各国においても、競争相手が台頭してくるようになって、今度は、そういった厳しい競争環境における
- 競争
によって勝ち残っていくことが求められる時代になると、たんに記憶して正確に事務を行っている「だけ」の存在は、相対的に重要さが下がっていく。つまり、
- 官僚の単価が下がっていく
わけである。官僚は「安い仕事」になっていく。この時代において求められるようになるのは、上記にあるように
- 「現実」に、お金を稼いで来る人
つまり、現場のプロジェクトの中の人、ということになわけである。なぜなら、どんなに「屁理屈」がうまくても、実際にお金を稼げなければ、社員を食べさせることもできないわけで、だれもついてこない、ということになるからである。
実際にどうやったら、お金を稼げるのか。それは、言わば、現場における「試行錯誤」そのものである。言うまでもなく、その「方法」なんてない。成功したら、それが「方法」なのであって、成功したから、今、これによって生きているのであって、それ以上でもそれ以下でもない。例えば、営業が「新規開拓」をするのに、同じ企業に、何年も、一ヶ月に一回、通いつめて、
- 信頼
されるようになって、「始めて」、ああ、そういえば、この人に仕事を任せてみようか、となるのであって、上から目線で「大衆が俺の価値を理解できない無能」とか言っている時点で、すでに「エリートの時代」は終わっていることを分かっていない、ということになるのであろう...。
- 作者: 橘木俊詔
- 出版社/メーカー: 朝日新聞出版
- 発売日: 2015/04/13
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