田村秀『暴走する地方自治』

今回の大阪の住民投票は、近年においては驚くべき投票率大阪市の「解体」がなんとか食い止められた。しかし、言うまでもなく、この大阪における大阪都構想なるものは、かなり前から、橋下大阪市長によって、訴えられていた政策であったわけで、別に、急にこの話がでてきたわけではない。
大阪の人はこのことを、自分たち、関西地域だけの問題であり、よそからとやかく言われる筋合いのことじゃない、といった最初から話し合うつもりのない、つれない反応が多かった印象があるが、同様の構想は

と同様の模索が一時期話題になっただけに、決してこれは、他人事として回りから見られたわけではないわけである。しかし、ここで注意がいるのは、この大阪都構想に対して、中京都構想、新潟州構想の方は、その構想が語られた後、多くの有識者による批判にあい、実際のところは、とっくの昔に、尻すぼみの、ほとんど消滅状態にあった、ということなのである。つまり、なぜこの二つはそのような状態になっておりながら、大阪だけは、ここまでつっぱしる結果になってしまったのか、というわけである。
そもそも、この「構想」とは、どこにポイントがあるのであろうか。言うまでもない、大阪市名古屋市新潟市という政令指定都市、つまり、巨大市町村の「解体」にポイントがある。しかし、もしも、たんなる「巨大都市の分割」にポイントがあるなら、その分割単位の「自治」マインドの自発性が強いるものであるなら、私は賛成するかもしれない。しかし、そうではないわけである。

財政面でも他の市と大きく異なっている。通常であれば市町村税である市町村民税(法人分)や固定資産税、事業所税特別土地保有税都市計画税は都税となっていて、このうち、市町村民税(法人分)や固定資産税、都市計画税は都区財政調整制度によって当別区の財政調整に使われている。

これらの構造は東京23区の「アナロジー」として構想されている。しかし、そもそも、東京23区とは、戦前、地方自治とはまったく反対の動機によって、国家主導によって作られた。東京市を解体した東京23区は、

  • 区議会は存在
  • 区長は官吏

という形の著しく地域自治権を剥奪された中央集権的な地域として組織された(その中に、上記のような一般の市町村にさえ劣る、税制の権利の制限も含まれる)。

このような事情があるからこそ、特別区長会では都区のあり方検討委員会などを立ち上げ、有識者などとの検討を重ね、「都の区」制度は廃止して、他の市同様基礎自治体として東京〇〇市となることを求めている。ここでは、都が市の事務の一部を区に代わって一体的に処理するという、行政の一体性という観念から脱却し、また、政令指定都市の行政区や基礎自治体の内部団体である地域自治区などとも区別するためにも、区という名称から決別することを唱っている。このほか、基礎自治体の対等・協力の関係の中で基礎自治体連合を創設することも求めている。

これが今の「トレンド」である。つまり、早晩、23区はなくなる。むしろ、大阪都構想中京都構想、新潟州構想とは、まったく逆に、「区の市町村化」が、早晩、行われるというのだ!
しかし、これはどういうことなのだろうか? 世田谷区の区長の保坂さんも言っていたが、東京23区はむしろ、市町村になりたい。それは「住民自治」を求める東京の、戦前から

  • ずっと

たゆまず続けられてきた、東京人の「願い」だったわけである。
私たちはここで、もう少し冷静になって、大阪都構想中京都構想、新潟州構想とはなんだったのかを考えなければいけないのではないか。
そもそも、こういった「改革」政治家の台頭は、イギリスのサッチャーであり、日本の小泉元首相がそうであったように

によって主導されてきたものであった。これは「小さな政府」というところに特徴があったように、ようするに

  • 福祉の廃止
  • 金持ち減税

を狙って行われた、プチ・ブルジョア勢力による、反革命運動として始まっているわけである。
そこには、リバタリアン的な思想を背景にして、福祉の廃止が、国家の借金への対抗策として要求されるという、国家側からの「要請」に答える形で提出されるイデオロギーが要請されていた。そして、それに「応答」することが、いわゆる「思想家」たちに求められていた、ということにある。
こういった延長に、ベーシックインカム論や、国の財産の「民間への売却」、福祉の大幅な縮小などが彼らによって模索されることになる。
例えば、3・11において、一見「福島の人たち」のために、汗水かいて働いてくれているようなことを言いながら、その人の言うことをよく聞いてみると、住民は国や東電にお金をたかるべきじゃない、といったようなことを言っている人がいた。その「動機」も、上記と同じで、国家財政の危機において、徹底した

  • 福祉の削減

が求められている中で、たとえ被災者であろうと「福祉」を提供すべきじゃない、といった「リバタリアン」的な、むしろ

  • 国民を救うことより、国家財政を「救う」

ことに生き甲斐を感じる連中の非人間的な態度が注目されたわけである。
こういった一連の、「改革」の中で、大阪の橋下市長の発言が注目された。彼の行った、徹底した大阪市の福祉財源の削減は、上記のようなネオリベ的な需要の延長において解釈された。
そして重要なポイントとして、在特会などによる、彼らの言う「在日特権」なるものも、こういったネオリベ連中によって、同様の問題として説明されたわけである(思い出してほしい。在特会によるヘイトスピーチは、そもそも最初から、無条件で非難されていたわけではない。これを最初「言論の自由」の範囲で「容認されなければならない」と言っていたネオリベ論者が、少なからずいたことを)。
そもそも、ここにはどんな「構造」があるのであろうか?
おそらく、ほとんどの「ネタ元」は、国家官僚なのではないか、と思っている。大阪の橋下市長を始めとして、有識者も含めて、多くの人たちは、まず、国家官僚と「親しく」なる過程で、彼らから

  • レクチャー

を受けるのではないか。その過程で、彼らは舞い上がってしまうのである。自分が国家の重要人物と「ねんごろ」になれたことに。
上記の新自由主義的なネオリベ論壇のネタ元に、国家官僚たちのレクチャーがある。そこにおいては、

  • 国家財政の危機

として、

そして、このマイナーヴァージョンとして

といったイデオロギーが「キャンペーン」として、国家官僚から「リーク」される。これらに共通するのは

  • 貧乏人の「福祉」の徹底した「破壊」

である。それによって、国家財政の「健全」化が画策されている、というわけである。
このような、ネオリベ連中にとっての、彼らの「司令塔」は、国家官僚である。では、国家官僚は何を考えているのか。それは、彼らの「権限」の拡大である。
例えば、社会学者のルーマンは、現代社会の複雑化に伴い、その「縮減」が問われていると言った。つまり、なんらかの形で、複雑化する現代社会の複雑性を「単純」化しなければならない、ということである。その場合、彼が考えていたものとして

があったわけであろう。近代以前の社会はまだテクノロジーの発展が起きておらず、この社会の複雑化に対応する官僚側の手段はなかった。しかし、現代社会はこのコンピュータの発展によって、少ない官僚であっても、コンピュータを使うことによって、この複雑社会を「管理」できるのではないか、という予想をたてた。
言うまでもなく、中央集権であればあるほど、行政リソースは少なくすむ。そして、全体の財源を公平に配分することによって、よりフレキシブルな福祉の実現も可能となる、と考える。
しかし、よく考えてみよう。財源の一極集中は、もしもそこを一部の利権集団に抑えられたら、

  • 全滅

だということを。権力は集中すれば集中するほど「腐敗」する。それは、ヴェーバーを引用するまでもなく、古今東西の真理なわけであろう。
ベーシックインカム論にしても、たしかに「スケールメリット」は認めなければならないが、本当にこんなことを実行できるような「倫理」的な組織を、この日本政府に想像できるのか、という疑問が尽きないわけである。
ネオリベ連中が考える日本革命は、ようするに

  • 中央集権

によって、そのスケールメリットによって、社会システムの「効率」化を目指すことと同時に、

  • 地方からの権限の剥奪

もっと言えば

  • 個々の市民からの権利の剥奪

によって、「福祉財源」を最小化を目指す、一種の「律令」化として、動機づけられていたことがわかるであろう。大阪都構想にしても、大阪市の廃止であり、特別区化は、大阪市レベルの「自治権」の弱体化を意味する。このことを、「でもその権利は大阪府に移るだけなんだから、自治権としては同じなんじゃないか」と思う人がいるかもしれないが、大事なことは、都道府県は、私たちの最も身近な大阪市に比べて、

  • 離れた

自治単位であり、この単位が道州制においてはより拡大されるとを考えても、

  • 都道府県のレベルはより「国家」の行政レベルに近く、「国家」の行政レベルの影響を受けやすい

ことを認識しなければならない。つまり、大阪維新の会によって目指されたこと、大阪市解体構想は、

  • 国家官僚の「権限」の拡大であり、市民の権利の縮小

を目指した、明治維新における「廃藩置県」のような、より強力な中央集権化であり、律令化を目的とした政策だったことを理解する必要がある。
私たちは、ここで「冷静」になる必要がある。
大阪都構想は、かろうじて、住民投票によって防がれた。ここには、大阪市民の良識が反映されたと思う。では、地方自治はどのような方向に進むことが合理的であろうか。

一般的に政令指定都市となるメリットは、都道府県から大部分の権限を移譲されて、高度で専門的な行政サービスを一体として行うことができること、これまで都道府県を経由して国に対して要望していたことも、政令指定都市が直接、国と折衝できることなどが挙げられている。一体性については、例えば一般の市町村の権限である公立小中学校の管理運営と教員の人事権を一括して行うことによって教育行政が一体的に運営できることや、国管理の国道を除いて、市道都道府県道、一般国道のすべてを政令指定都市が管理することなどが具体的なメリットの代表例である。このように一体的に行政サービスを担うようになるのであるからこそ、むしろ二重行政はなくなるはずである。

掲題の本は、政令指定都市のメリットに注目する。むしろ、橋下市長の言っていたことに反して、政令指定都市は、国の法律によって、住民自治にとって、さまざまな「メリット」が

  • 権限

として与えられている。つまり、これこそが地方にとっての重要な政策的選択肢であることが、冷静になることで分かるであろう。
私たちはここで冷静にならなければならない。あなたの目の前で、「あなたのためだから」と、いろいろ話している人が、一体だれの方を向いて話しているのかを。本当に、私たち市井の市民のために語ってくれているのか。それとも、国家官僚の方を向いて、彼らの権限獲得のために、私たち市民から、さまざまな権利を奪おうとしているのかを...。

暴走する地方自治 (ちくま新書)

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