西尾維新『終物語 上』

掲題の小説の中ごろに、有名な「モンティ・ホール問題」が重要な役割を演じている。詳しくはウィキペディアでも読まれれば、その概要は把握されるであろうが、この確率問題のポイントは、ある「言外」の約束事が関係している。

「プレーヤーの前に閉まった3つのドアがあって、1つのドアの後ろには景品の新車が、2つのドアの後ろには、はずれを意味するヤギがいる。プレーヤーは新車のドアを当てると新車がもらえる。プレーヤーが1つのドアを選択した後、司会者(モンティ)が残りのドアのうちヤギがいるドアを開けてヤギを見せる。
ここでプレーヤーは、最初に選んだドアを、残っている開けられていないドアに変更してもよいと言われる。プレーヤーはドアを変更すべきだろうか?」
モンティ・ホール問題 - Wikipedia

この問題は「直感的」には、変更しようがしまいが確率は変わらないんじゃないのか、といった感覚を私たちがもつが、以下の「条件」においては、変更した方が確率は高くなる、というところにポイントがある。

  1. 3つのドア (A, B, C) に(景品、ヤギ、ヤギ)がランダムに入っている。
  2. プレーヤーはドアを1つ選ぶ。
  3. モンティは残りのドアのうち1つを必ず開ける。
  4. モンティの開けるドアは、必ずヤギの入っているドアである。
  5. モンティはプレーヤーにドアを選びなおしてよいと必ず言う。

モンティ・ホール問題 - Wikipedia

ここで、上記の条件のうち重要なのは、三番目の「残りのドアのうち1つを必ず開ける」にある、と言えるであろう。つまり、この人はプレーヤーが一回目の選択で当たったか外れたかを「知っている」わけである。だとするなら、もしもプレーヤーが外れていることが分かっていながら、次のステータスにゲームを進める、という理由が分からないわけである。
大事なポイントは何か。それは、確率とは「確率空間」の定義によって決まる、ということである。上記であれば、その「箇条書き」されたルールによって決定している、ということである。
こういった視点で考えたとき、上記の指摘は必ずしもパラドックスではないことが分かる。そもそも、確率とは、この確率空間を「定義」する作業のことを言っている。
しかし、この例は、この小説の特徴をよく表していると言えるのかもしれない。
この作品のヒロインの老倉育(おいくらそだち)は、主人公の阿良々木暦(あららぎこよみ)を嫌っている。しかし、問題はなぜ彼女が彼を嫌っているのか、にある。そこには、彼の、ある意味での「忘却」が関係していた。
ブルーハーツに「パーティ」という曲がある。この曲は次のような歌詞から始まる。

僕のSOSが君に届かない
ブルーハーツ「パーティ」)

親によるDVに悩んできた彼女は昔から、阿良々木にSOSを発信していた。ずっとである。しかし、阿良々木はそれに正面から向き合わなかった。
この作品は、そういう意味で、阿良々木にとっての「罪」の物語である。
ところが、である。
この作品は、そのように話は展開しない。どういうことか? 阿良々木にとって、老倉は自らの「罪」に向き合うはずの存在である。つまり、老倉は阿良々木を傷付ける存在である。しかし、

  • 物語

はそれを許さない。この作品は阿良々木の「妄想」の世界である。言わば、「ゼロ年代」的妄想である。つまり、これは阿良々木の「自意識」の世界なのだ。つまり、どういうことか。
この作品は「物語」である。つまり、阿良々木は「カタルシス」と共に、最後は「救われなければならない」。なぜから、この世界の「主人公」は、阿良々木であり、彼が

  • 成長

することが、この作品の「目的」だからである。

僕の質問を無視する形で、扇ちゃんは言う。
「いいキャスティングだったんですけれどねえ----ほら、あの人、これまでのヒロンズの原点みたいなところ、あったじゃないですか。阿良々木先輩を揺さぶるには絶好のキャラクター性だったと言いますか。まあすべてが私の思い通りとはいきません。それは計算違いです----というか、見込み違いです、つまりは阿良々木先輩の手柄です。本当はもうちょっと、老倉先輩があなた達をかき回してくれると期待していたんですが。でも本当、転校先ではうまくやれるといいですね。誰も彼女を知らない新天地でなら、きっと成功なさるでしょう。......阿良々木先輩のおかげで。おかげさまで」

なぜ、忍野扇(おしのおうぎ)というキャラクターが登場したのか。それは、この作品。いや、西尾維新

  • 全ての作品

が言わば、「ビルドゥングス・ロマン(=教養小説=自己形成小説)」だからである。彼の作品の主人公である「僕」は、なにも選択できない、なにも選ばない、「ニヒリズム」の主人公として登場します。なぜ「僕」が選べないかというと、それを選ぶための材料が「僕」の中にないからである。彼の描く主人公は「からっぽ」の主人公である。しかし、物語は「僕」を「からっぽ」のままにしておかない。つまり、次々と「ヒロイン」が現れて、「僕」の「からっぽ」な自意識の

  • 意味

を見つけてくれる。つまり、「僕」は

  • 成長

をするわけである(わたしはここで、こういった作品スタイルと、いわゆる経済学における「リフレ派」の主張する「成長」を重ねることで、皮肉っているわけである)。ビルドゥングス・ロマンにおいて、主人公の「成長」は、ヒロインの

  • 手段化

によって実現される。その典型的な例がヒロインの「死」である。つまり、ヒロインが死ぬことは、

  • 文学エリート

の「僕」が「成長」するのには欠かせない、というわけである。ヒロインは自分の死の意味を、「僕」に託す。そのことによって、「僕のエリートとしての特権的な位置が保証されるわけである。

  • 女の一人も「殺していない」奴は、まともな文学の一つも書けるわけがない

というわけであるw 掲題の作品は、最初、主人公の「罪」の糾弾から始まった。ところが、この作品において、徹底して主人公は、この事実に向き合おうとしない。つまり、主人公は作品の前半において、

  • 不安

として描かれる。そういう意味で、この作品において、主人公は自らの「罪」に深く傷付く。
では、その深く刺さった「傷」は、どのように展開していくのか、と問わずにいられないはずだが、ところが、この作品においてその最も重要な、その「傷」の有り様が描かれなければならなかった、もっと言えば、この今までの作品と同じ長さをかけてでも、描かれなければならなかった、最後の阿良々木と老倉との対決の場面は、一切、読者に「物語」として描かれない。
というか、この作品は一種の

  • 卑怯

なレトリックによって、重要な論点をごまかしている。本来なら、阿良々木の「罪」が問題であったはずであるのに、作品の最後において、作者は、

  • 阿良々木の「罪」より、より「悲惨」な老倉の「罪」

を対置することによって、阿良々木の「罪」を相対化させることによって、阿良々木を

  • 安心

させるわけである。つまり、阿良々木の「罪」よりもなによりも、老倉の「悲惨」さを、阿良々木の罪に「対置」することによって、阿良々木を「救っている」わけである。これによって、阿良々木はなんの負い目もなしに、老倉の

  • 悲惨な生い立ち

に彼の「救いの手」を差し延べることができる。この作品は二つの意味で「卑怯」である。

  • 阿良々木と老倉の最後の対決の場面を直接描かないことで、阿良々木の本来の罪の問題をごまかした。
  • 老倉を「転校」させることによって、まるで、それによって、「全てがハッピー」であるかのように、でっちあげた。

まさに、いじめっ子が、いじめられっ子の「悪事」に耐えられずに、学校から去っていくかのように。本来なら、その「罪」を背負って、学校を追い出されなければならなかったのは、いじめっ子の側だったのかもしれないのに。
上記の引用を見てほしい。作者は勝手に、忍野扇(おしのおうぎ)というキャラクターの口を使って、老倉が転校をすれば「ハッピー」「になる、と「予言」させて、まるで全てが、

  • 幸せ

になったかのように描く。なぜ、作者はそうするのか? それは、どうしても作者は「僕」を

  • 成長

させなければならないからなのである。つまり、「僕」は作品の前半に描かれた「試練」を「乗り越えた」ことにしなければならない。なぜなら、それが「物語」だから。つまり、阿良々木の「幸せ」のために、老倉は

  • 手段

として登場しなければならなかった。この構造はまさに、最初にとりあげた「モンティ・ホール問題」に似ていないだろうか? モンティ・ホール問題は「パラドックス」と呼ばれる。そういう意味で「魅力的」な引力をもつ。ところが、そこには話の途中の

  • 曖昧さ

が決定的な「ごまかし」を生んでいる。それによって、阿良々木は老倉に最後まで、正面から向き合うことはない。本当はその「モンティ・ホール問題」の議論の「曖昧さ」こそ問われなければならなかったはずなのに...。

終物語 (上) (講談社BOX)

終物語 (上) (講談社BOX)