哲学=文学(=小説)

トマス・クーンの科学論を思い出してみても、彼の主張において、その科学者コミュニティが科学論文としての「決定」において、重要な役割をしていた。
科学者集団は、その「論文」が、その科学者集団によって「アクセプト」されたものとしての「印(しるし)」として、その科学者集団が発行している「雑誌」に掲載される、という形で、決定されていた。これは、たんに雑誌に記事として掲載された、という事実を意味するわけではなく、なんらかの形式的な「審査」を経た、ということを意味している。
こうして形式的に決定された論文を、一般的な意味における

  • 文学(=小説)

と区別することは、意味があるかどうかはともかくとして

  • 可能

であろう。
それは、どちらかというと「自然科学」の対象が、それら科学者集団において、「自明」な形で認識されていることに関係している。これは同じく、数学にも言える。ここは大事なポイントで、なんらかの「理論」として、その対象が、それら専門家集団において、

  • 区別

されて、意識されている、というところがポイントとなっている。
他方、である。
哲学と文学を、原理的に本質的に区別することは可能であろうか?
私はそもそも無理なのではないか、と思っている。つまり、哲学とは「文学(=小説)」のことなのだ。一般に文学(=小説)は「フィクション」のことと考えられ、少なくとも、ノンフィクションと区別されるのではないか、と思われている。しかし、この区別がそもそも意味がない。なぜなら、それを主張するのは、そもそも、著者の側の方であって、著者以外の人が、このどちらなのかを決定することはできないからだ。もちろん、明らかに「架空の人物」を登場させれば、それを理由に「フィクション」だと決定するかのように思われるかもしれない。しかし、それは違う。なぜなら、後からそれらの登場人物は、実は、ある実在の人物のことを指示していた(つまり、間違って違うように書いて「しまった」)と言うことは、著者にはいくらでも可能だから。
例えば、吾妻ひでおの漫画を思い出してもらえば分かるように、フィクションの文脈で、いくらでも、著者が「登場」する。これは、そもそも、フィクションやノンフィクションという区別が、まったく意味をなさないことを意味している。フィクションを最後まで書いた後で、一行、「といったフィクションを私は考えた」と書き加えるだけで、この小説は「メタ」な意味で、ノンフィクションになるのだから。
フィクションかノンフィクションかなどという区別はまったく意味をなさない。フィクションを書いている人は、ノンフィクショナルな存在であるのだから、ここに線を引いたところで、いくらでも著者は越境してくる。
同じことは「哲学」にも言える。これが哲学だと言ったところで、それになんの意味があるだろうか? この状況はまったく、フィクションとノンフィクションの区別と変わらないわけである。一見、哲学的な饒舌を、物語の登場人物にさせることは、普通に、どこにでも見られることだ。だとするなら、

  • 全編

そうだったとして、それを「物語」だと、どうして言ってはいけないのか。
大事な区別は、どこにあるのか? これを「学問」だと考えたとき、上記の(トマス・クーンの科学論で言うところの)「論文」と、そうでない「一般の文章」の、この区別だけ、だということが分かるのではないか。
この二つにおいて、「前者」は、いわば、その「専門家集団」において、この区別が意味があるだけでなく、実際に、大きな線引きを、彼ら「専門家集団」に与えているところがポイントなのである。
以前に書いたことがあるが、哲学と文学(=小説)は、一種の「エッセイ」に包含される概念だと言えるであろう。エッセイとは、ある個人が記述した「文字列」を意味するだけで、それ以上でもそれ以下でもない。つまり、定義がそれ以外にない。しかし、そのように考えてみると、哲学にも文学にも「定義」はない。
このように考えてみればいい。古代ギリシアにおいて、哲学をやっているつもりでいたピタゴラス学派が、さまざまな数学の法則を発見していったとき、ユークリッド幾何学の命題を発見していったとき、その

  • 狭い範囲

を「数学」と呼び始めることはある。しかし、そうした場合、この「カテゴリー」は一種の「科学」として一般に扱われる、ということが生まれうる。それは、言語学や心理学においても起きたことなのかもしれない。しかし、このカテゴリーの制限は、それ以前に呼んでいた

  • 哲学一般

とは区別して扱われる。
つまり、哲学や文学やエッセイは、こういった「カテゴリカル」な、フレーム付けがまだ行われていない「考察の断片」であるため、まだ「理論」になっていない、ということなのである。
私はそういう意味で、「哲学者」とか「批評家」とか「批判理論」という言葉をやめるべきだと思っている。ただの「文章」であり、「小説」であり、それでいいはずなのだ。むしろ、こういったものに、それ以外の装飾をほどこして呼ぶような行為は、そもそも「存在しない」ところに、なんらかの

  • 区別

があるかのように線を引く「ブランド」化、であり、「高級化」であり、「エリート」化であり、まさに

だと思っているわけであり、こういった連中は信用できない、と思うわけである...。