ある聖性について

フランスが、ISとの戦いを宣言して、シリアに爆撃を行うことについて、言うまでもなく、それにより多くの民間人の死者が生まれることは、始める前から分かっているわけだが、それでも、フランスはそれを「断行」するのだ、と言うわけである。
アメリカも、ロシアも、フランスも、ISの「挑発」に、もう我慢ができない。彼らに向けて、ミサイルを投げつけずにいられない。それによって、ISに対して、実際的な「被害」を与えて、相手に打撃を与えたと思えないことには、このはらわたがにえくりかえっている、この感情を抑えられない。ISに「お前らぶっ殺してやる」と言われれば言われるほど、「売り言葉に買い言葉」で、その「罵詈雑言」に対応した、物理的な「攻撃」を行わなければ、自分たちの

  • 平和
  • 安全
  • 安心
  • 正義

が、どうにも、おちつかなく、もぞもぞとして、心の居場所をうまく与えられない。
私たちは、もっと現代人というのは「理性的」な存在なのだろうと思っていたわけだが、こうして、ISの口車に乗せられて、シリアに爆弾を落として、多くの民間人を殺している姿を見るにつけて、「国家」というのは、基本的には「野蛮」な存在なのだな、ということを思わせる。
これと同じようなことを思わされたのが、あの3・11における、原発の過酷事故であった。原発の過酷事故というのは、統計学の「平均値」で考えると分かりやすい。確かに、一般に、この過酷事故の起きる確率は、さまざまな偶然が重なって始めて起きるという意味では、ほとんど起きない、という意味では、確率ゼロ集合と言っていい。ところが、起きた場合、それは「過酷事故」と呼ばれているように、かなりの被害が想定される。それは、福島第一が今だに、その廃炉作業が進展していないことが、よくあらわしている。
この場合、その平均値は、確率ゼロ集合でありながら、ほとんど無限大に振り切れる。
なぜか。
それは、確率ゼロ集合は、真の意味で確率ゼロではないからだ。例えば、ここで言う「普通は起きない」という意味は、

  • じゃあ、安全対策にお金を注ぐ必要がないよね

といった「リスク管理」になる。ほとんど起きないことにお金を使うことは、経済学と矛盾する。起きないのなら、対策をしない、という判断こそ、経済学的に合理的ということになる。
つまり、ここにパラドックスがある。原発の過酷事故は「確率ゼロ集合」においてしか起きないの「だから」、対策を行わないことが経済的に合理的だとして、対策を無視すると、必然的に

  • 過酷事故の「確率」が上がる

つまり、原発の過酷事故は、そのようなパラドックスによって、むしろ「100パーセント起きる」とすら言ってもいいような、状況が生まれる(実際に、チェルノブイリ、スリーマイル、福島と、何十年かのスパンで「定期的」に起きてきた、と言っていいわけである)。
しかし、ここにおいても、「国家」の「野蛮」さが牙を剥き出しにしてくる。
例えば、日本において、3・11以前から、原発推進政策は、天皇からの「直接」の命令として、原発推進組織の長官が、直々に、天皇によって選ばれる形で、

という形で、形成されている。よって、非常に奇妙なことが起きる。3・11を経験した私たちは、もう原発を止めればいいんじゃないのかと素朴に素直に思うわけだが、そうすると、どこからともなく、日本の底辺から

  • 天皇様の命令に逆らうのか(怒

といった、右翼活動家たちの「怒鳴り声」に、恐怖を覚える。むしろ、これはISのテロや、彼らの「挑発」が過激になればなるほど、テロとの戦いに、どんどんのめり込んでいくように、原発の過酷事故が、より悲惨であればあるほど、どんどんと

に舵を切らずにいられない。事故の損害が大きければ大きいほど、

  • むしろ原発をより拡大していこう

の掛け声が、どんどん大きくなっていく。
ここには、間違いなく、ある「力学」が存在している。
例えば、TPPの著作権問題について、確かに、政府はコミケの二次創作については、守ろうといったことを臭わす発言をしていることは確かである。しかし、下記における福井健策さんの分析を読むと、これはかなりやばいんじゃないのか、といった印象を強くする。つまり、話はまったく「違っている」わけである。

TPP交渉で知財分野は日本の完敗だった

実際に、おそらく、警察や検察は、政府の意向をくんで、自らの意志によって、非親告罪を理由として、次々と牢屋に入れるということは、最初は行わないであろう。つまり、それはネット動画のダウンロード罪が、ほとんど、運用されていないのと同じ理由で、有名無実化した、法律となっていく、と。
ところが、非親告罪化にしても、法定賠償制度にしても、これらはむしろ、

  • 国民による「隣組」化

を結果する。むしろ、様相はまったく変わってくる。つまり、

  • 新しいビジネス・モデル

が生まれる。つまり、

  • 当たり屋ビジネス

が。まず、何が起きるか? 作家、評論家、芸術家の、それぞれの作品は、基本的には、なんらかの意味における

  • パクリのパッチワーク

でできている。すべての部分は、どこかのだれかのパクリを、組み合わせているにすぎない。よって、その「正義」を糾弾する組織が、大衆の中から生まててくる。こういった人たちは、作家、評論家、芸術家の作品を、しらみつぶしに、パクリのリストを作り始める。そして、彼ら「正義の味方」は、こうやって

  • わざわざ、見やすいように、整理をして

それを警察に、提出する。「お巡りさん、こんなに世の中には悪を行っている人たちがいるんです。だから、早くつかまえてください」と、警察に、クレームを毎日のように、つきだすようになる。
これは、一種の「錬金術」である。
弁護士がお金が欲しくなったら、世の中の、あらゆる「パクリ」を、見つけだし、一つ一つを、警察に突き出せばいい。そうすれば、警察が社会の悪を見捨てるわけにはいかなくなるし、必ず訴訟を起こさざるをえなくなる。つまり、弁護士の仕事が、

  • 生まれる

わけである。弁護士はお金が欲しいと思ったら、テレビに出ている有名人や、雑誌に文章を書いている「偉そうな奴等」の文章の「パクリ」を、まとめて、警察に「犯罪者」として突き出せばいい。原理的に、どんな文章も、「パクリ」なんだから、原理的には、この裁判は必ず「勝訴」して、法定賠償制度によって、がっぽりがっぽり儲かる。
さて。
一体、日本のどこに、TPP万歳と言っている人がいるんでしょうかねw
私は、22世紀において、国家は「正義」によって滅びるのではないかと思っている。TPP著作権は、その始まりである。大衆はおそらく、

  • 正義ゲーム

を始める。あらゆる「文章」は、どこかしら「著作権違反」を行っている。だれかのパクリをしてない文章はない。よって、大衆は、その「悪」を見つけるやいなや、

  • 警察に<チクる>

わけである。大衆はどんどんと、この国家に内在する「悪」を、警察に告発するようになる。そうすると、何が起きるか? 警察は、その一つ一つの訴えに対して

  • どうして警察は、この訴えを受理するのか
  • どうして警察は、この訴えを受理しないのか

を、一つ一つの事例に対して「応答」をしなければならなくなる。ところが、どんな訴えも必ず「パクリ」が内包しているのだから、原理的には、警察はそれら「すべて」の訴えを受理しなければならなくなる、ということを結果する。当然、それぞれの訴えば、「パクリ」である限り、「悪」なのだから、原理的には

  • すべての訴えは「有罪」になる

というわけで、訴えられた全員が、牢屋に入ることになる(ただし、法定賠償金は、払えるお金をもっていない人を訴えても、あまり効果がないので、まず狙われるのが、小金持ちのプチブル階級だ、ということになるが)。
つまり、この日本には、牢屋に入っていない人がいなくなる。つまり、国民がいなくなる。
いや。逆の方が考えやすい。
つまり、日本人は、誰も公的な場所で、言葉を発しなくなる。なぜなら、どんな言葉をつぶやいても、必ずそれは、なにかのコピペであり、アイデアの盗用なのだから。だれも、何も公の場では言わなくなる。もの言えば唇寒し。つまり、なにかの意見を言ってものが「負け」なのである。これは、どんなことを言っても、目立つ限り、「非国民」扱いをされた、戦中の日本ファシズムと同様であろう。
国家は自壊する。国家自らが「決めた=選択した」ルールによって。
ここにある「本質」はなんだろうか?
私は、いずれにも共通した特徴として、

  • 国家の聖性

について、どうしても考えざるをえない。私たちは、ようするに「国家に逆らう」という表象に対して、非常に強力な

  • タブー

が存在している。それは、私たちが常日頃、「ヤクザにからまれないように、因縁をつけられないようにしよう」と、ヤクザの脇を歩くときは、肩がぶつからないように、ビクビクしているのと、まったく、同一だと言っていい。
国家、ヤクザ、ISに共通しているのは、それぞれが「暴力装置」をもっていることである。つまり、暴力には「聖性」が伴うわけである。私たちは、どうしても暴力集団を、結果的に、

  • タブー化(=神聖な存在)

せずにいられない。それは、テロとの戦いで、ISにダメージを与えるためなら、シリアの一般市民の犠牲者が生まれることも「やむをえない」と思うことも、テロとの戦いのためなら、ISの戦闘員だったら、どんなに残酷な殺し方をしても、何人殺しても「許される=すかっとする」と思うこととも矛盾しない。
ようするに、国家やヤクザが「タブー化=聖化」されているのに対して、ISが「テロリスト化=非人権扱いOK化」しているのは、結局のところ、彼らISが今のところ、私たちの生活をおびやかす状況にはなっていない、という感覚がある。
つまり、カントの崇高論と同様に、まだ、私たちがISの「脅威」を身近に感じていない、という状況がある。
こんな思考実験をしてみよう。もしも、この地球上のすべての国家とISとの「戦争」で、ISが勝った場合を考えてみればいい。その場合、今度はこの「世界国家」は、ISが支配していることになる。そして、それ以前に、ISに逆らっていた、すべての国家は、この地球上からなくなるであろう。
もちろん、こんな世界になったら、世界中の人たちはISに抵抗するかもしれない。しかし、その抵抗も成功せず、何十年と経過したら、どうなるか。言うまでもない。ISにも、今の日本人にとっての日本国がそうであるような、

  • タブー化(=神聖な存在)

が始まるわけである。なぜなら、この場合、ISは「暴力装置」だからだ。大事なポイントは、国家、ヤクザ、ISは、それぞれ、ある意味において

  • 住民を守っている

わけである。暴力をもつ側は、暴力をもたない側を「守る」わけである。もっと言えば、それによって、国民は暴力集団に、ある種の「恩」を感じてしまっている、と言ってもいいであろう。その「関係」が、私たちに一種の「偶像崇拝」を、感情的に抗いがたく思わされているわけである...。