アニメ的「仲間」と「ひきこもり」

うーん。いろいろ言えるのだろうけれど、近年のアニメには一つの構造があって、テレビシリーズの1クールの中で、ある縁によって一緒に行動するようになった「仲間」が、さまざまな浮き沈みの激しい共通体験をすることで、その関係の「かけがえなさ」に気付いていく、ということだろうか。
例えば、アニメ「Tari Tari」は、実際に、後日談的なドラマCDにおいて、そういった挿入歌が、まさに「最後」の結論(=悟り)のようなものとして描かれる。
それは、アニメ「とある科学の超電磁砲」においても、2クール目の最後は、そういった「友達」の大事さに、特に主人公が気付いていく、という構造になっていて、実際になんというか、その「友達」の作品上の描かれ方すらも、なんらかの「バランス」が意識されているような印象さえ受けるレベルになっている。
また、この構造がよりデフォルメされているものとして、アニメ「ローリングガールズ」を考えることもできるであろう。4人の女の子がバイクで一緒に旅をする中で、途中では、いろいろ喧嘩もしたけど、この4人が一緒にいれるということの「かけがえなさ」、まさに、青春を、この旅の最後に近づくにつれて、より実感していくような構造になっている。
アニメ「ばくおん」は、アニメ「けいおん」のオマージュ的な作品であるが、「けいおん」が一つの「バンド」音楽の楽器への「販促」的な効果があるとしたら、「ばくおん」は言うまでもなく、バイク業界への「販促」的な効果を最初から狙っていたことは間違いないであろう。
そう考えたとき、非常に感じるのは、こういった「ばくおん」のようなアニメは、まさに日本のバイク業界は、ネット上にこのアニメをばらまいて、日本中の子どもたちに見てほしいんじゃないのだろうか。
深夜アニメの円盤が売れないとか言うけれど、そういったものには、オーディオコメンタリーなどがついていたりして、買う人は買うのだろうし、それ以前に作品を見てもらわないとしょうがないんじゃないか、というのは思わなくもない。
そもそも、初代ガンダムであれば、ガンプラと呼ばれた、プラモデルを子どもたちが買うということが、一つの収入源として想定されていたわけで、同じような現象が、アニメ「ガルパン」においても起きていると考えられるであろう。
そもそもよく分からないのは、地上波は無料で全国に公開しておきながら、その無料で公開したものを各個人がネットでアップロードしてはならないという、法的な根拠はなんなのだろう? 公開されたくないのなら、最初から無料で公開するな、と思うのだが、正直私には、理屈が分からないところがある。
アニメ「はいふり」は、どこかしら、アニメ「ガルパン」で描けなかった何かを実現しているような印象がなくはない。それは、「ガルパン」の、あんこうチームの5人が、戦車の中で、どんなふうに言葉のやりとりをしていたのかを、あまり積極的に描かなかったところが、多少の物足りなさを感じさせる。他方、アニメ「はいふり」は、戦艦「晴風」の船長が、ひとつひとつ、乗組員に指示を出して、全体として、連動して集団行動を「成功」させているところの、

  • 快楽

がよく描かれている印象を受ける。
また、最新の第11話では、主人公であり学生艦「晴風」の艦長の岬明乃(みさきあけの)が、同じ学生艦「武蔵」と戦闘になれば、うしても自分たちの「晴風」に甚大が被害が起きて、「仲間」が傷付くことになることが予想されることに悩む場面が描かれるわけだが、こういった「武器」の危険さの問題は、徹底してアニメ「ガルパン」では、後景化されていた。
この辺りで、これらの問題を、整理してみたい。
アニメ的な「仲間」とは、私たちが今まで使ってきた言葉で説明するなら、「日常系」のことと言っていい。日常系とは、なんらかの「日常」が、いつまでも続くことを前提として、その継続性の中の、

  • ハイコンテクスト

を一つの前提として成立する関係を、基本的に肯定するものであった、と言えるであろう。
しかし、そうであるがゆえに、それが「自己目的」化していくと、最終的に描くべきなにかは、その「価値」しかなくなる。実際、上記のアニメ「Tari Tari」「とある科学の超電磁砲」「ローリングガールズ」は、ほとんど宗教的と言っていいほどに、最終的に、この作品が目指していた「目標」として、そういった「友情」の大切さが、まさに、主人公たちと共に、視聴者が「発見」するような形で描かれることになる。
しかし、である。
今週の videonews.com で、斎藤環さんも言っているが、まさにそうであるがゆえに、そういった「関係」から「排除」されざるをえなかった人たちは、精神的に追い詰められるわけである。まさに、

  • 弱者

であり、

の世界なのであろう。そういった「リア充」になれる人たち、コミュ力の高い人たちなんていうのは、ある意味、どうでもいいわけである。彼らは、弱者からむしりとってでも、金持ちになるのだからw そうではない、弱い人たち、もっと言えば、

  • 優しい人たち

が「ひきこもり」になる。彼らにとって、こういった「仲間」的価値への悟り的到達は、より彼らの居場所をなくす、という意味で、「絶望」のメッセージになっていないだろうか?
こういった問題を私たちは、どのように考えればいいのであろうか?
例えば、ここで一つの補助線を引いてみようと思う。アニメ「はいふり」の主人公の岬明乃(みさきあけの)がブルマを目指すようになった「きっかけ」は、自分が子どもの頃、ブルマに助けられたことが大きくある。大型客船に乗っていた彼女は、両親は船に残り帰らぬ人となったが、自分はブルマに助けられる。その体験をきっかけとして、彼女もブルマになることを目指すようになる。つまり、ここでブルマという存在は、軍隊という「戦闘集団」であるというところに比重があるのではなく、東日本大震災のとき、自衛隊が必死に人命救助を行ってくれたように、なんらかの「人助け」を行う人というところに重点がある。
岬明乃(みさきあけの)の

  • 過剰

な、船の乗員仲間への「家族」意識は、確かに、このように見るなら、「病的」な過剰さがあるのかもしれない。しかし、その「過剰」であることが、なんらかの「欠乏」との大きなコンストラストとして描かれる。
それは、アニメ「Tari Tari」においても同じで、主人公の坂井和奏(さかいわかな)は、高校の入学試験の当日に母親を亡くすことで、人生の生きる意味をなくしている。つまり、その絶望であり、「ひきこもり」を

  • 出発点

として、作品は始まっているわけで、彼女の心の中は、そんなに簡単ではない、と考えることもできるわけである。
アニメ「ばくおん」の主人公たちが二年生に進学し、ミニバイクの大会で何度も優勝の経験をしている、中野千雨(なかのちさめ)がバイク部に入部してくるのだが、彼女は、身長が低く、大型バイクに足がつかないことをコンプレックスにしていた。しかし、部の先輩たちに彼女たちのバイクに試乗することを勧められ、ついに断れなくなったとき、逆ギレぎみに、先輩たちに自分の足が短かくて、大型バイクに足がつかない、乗れないことを、自嘲する。笑いたきゃ笑え、と。
すると、先輩たちは笑い出す。なぜか。なぜなら、そんなことは「たいしたことじゃない」から。つまり、そもそも女性たちにとって、みんな男性より身長が低いのだから、みんな足がつかないわけだ。みんな、

  • 工夫

をして、車高を低くして、乗っていた。私はこの話題に妙に感心したのだが、バイクというのは、どこか「身体」に近いところがある乗り物で、自分が生きることと深く関わっているわけですね。毎日乗るわけですし、もはや、体の一部のような様相を示す。そういったものに対して、中野千雨(なかのちさめ)は、あんなにミニバイクの世界では成功していても、自分が身長が低いという

  • コンプレックス

において、恥ずかしさを告白せずにいられない。つまり、自分の「身体」がどうであるのかは、上記の「仲間」となれるかどうかに関係する、非常に大きな問題だと、彼女には、思われている、ということなんですね。
この感覚って、どこか「ひきこもり」に似ている、と思うわけです。
しかし、そもそも、女性は「だれでも」身長が低いわけで、多かれ少なかれ、だれでもそういう悩みを抱えている。だから、みんないろいろと工夫をして、なんとか乗っていたわけで、中野千雨(なかのちさめ)の場合は、そもそも、その

  • ファクト

を知らなかった、ということが大きかったわけであろう。それは、実際のバイク部に入部して「仲間」になるかならないかに関係なく、たんなるファクトを知っているかどうかの違いでしかなかった。
このことは、おそらく「ひきこもり」においても、多くの場合にあてはまると思われるわけで、事実、だからこそ、彼らにさまざまな「機会」を与えることで、社会復帰をする場合もあるということなのであろう...。