濱口博行『日本は、サッカーの国になれたのか。電通の格闘。』

舛添さんの辞任劇において、最も大きな影響を与えたのは、テレビのワイドショーであり、新聞であろう。しかし、こういった媒体は、そもそも、電通

  • OK

を出さなければそれをコンテンツにできない。というのは、まず「広告」を彼らが握っているから。各テレビ局の広告枠に、どの団体のどういった広告を流すのかは、実質的に電通がコントロールしている。
どうしてそういうことになるのか?
一番分かりやすい説明は、電通以外に、この分野で活動している企業がないから、ということになる。よって、この分野についての、「ノウハウ」は電通社内にしかない。電通にしか、この分野をどうのこうのできるノウハウがないなら、広告をしたい側も、広告を欲しい側も、その「ノウハウ」をもっている電通に頼むしかない。
なにかが、おかしいと思わないだろうか?
一番おかしいのは、電通が「独占禁止法」を犯している、と思われることであろう。しかし、一体だれがそれに抗議できるだろう? マスコミの「広告」は、電通が支配している。最初から、ファシズムなのだから、それに逆らうことは、そのビジネス・モデルを止める、ということを意味するであろう。
舛添さんバッシングのテレビ番組や、新聞の紙面作りを行いたくても、

が「ダメだよ」と言われたら、できない。その最も典型的な例が原発であった。原発安全神話は、原発が危険だという番組を作ると、電通に絞められるから、テレビも新聞も言わなかった、というにすぎない。それは、原発マネーこそが、電通が最も「儲かる」コンテンツだったことを意味する。この社会は、この社会にとって最も重要なことが話し合われるのではなくて、

中から「最も重要なこと」が話し合われていたにすぎなかった、ということになる。
ではなぜ、電通による日本の一極支配が、今に至るまで続いているのだろう? 言うまでもない。自民党が自らの「存続」のために電通を利用しているから、と言うしかないであろう。
自民党は、大手マスメディアを電通を通して支配しているだけではない。ネット上の、さまざまな「電凸」、つまり、素人と世間では思われている「炎上」事件にも、電通を通して関わっている。電通は、たくさんの自民党応援団「アルバイト」を、ネット工作員として雇い、さまざまな、「炎上」攻撃を彼らにやらせる。間違いなく、今回の、舛添さんの辞任においても、彼らは「活躍」しただろう。

39.中村「電通は、舛添都知事の次に、乙武洋匡さんを担ごうと考えていたんです。しかし、乙武さえんが自爆したので...」。岩上「そんなところまで電通が考えるんですね。衆参の同時選挙などは?」。中村「電通は当然、考えています。自民党のお抱え代理店ですから」@iwakamiyasumi
- IWJ 実況ch1 (@IWJ_ch1) 2016年5月31日
http://xn--nyqy26a13k.jp/archives/17578

そもそも、自民党の立候補者は、電通リクルートしてくる。自民党の一切の「盛衰」を、電通に委ねている今の状態において、東京都知事も、総理大臣も、電通が決める。なぜなら、電通が決めない限り、その人物の、電通による

  • 世論操作

が行われないから。そうである限り、最初かで、電通の「推薦」がない限り、だれも立候補すらできない。
例えば、若杉冽という方による、「原発ホワイトアウト」という小説があったが、日本の大学教授は、おそらく、電通が決めている。電通のOKがでない限り、大学教授にはなれない。逆に言えば、大学教授になりたかったら、電通に「おべっか」を使っていればいい。大学教授になりたかったら、原発大賛成とか毎日、言ってなければならない。そうでなければ、電通に嫌われるから。
ようするに、日本において、電通があらゆる

  • メディア

を支配している。メディアに関係のあるものは、すべて電通によって、決定される。
先週の videonews.com で、今福龍太さんは、日本における、「スポーツ興業」の黎明期において、最初にこの「スポーツ興業」を日本において成功させたのが

であった、と言っている。77年のペレさよなら試合が日本で行われ、NHKでテレビ放映されたわけだが、ここが日本における、スポーツとメディアの最初だった、と言っている。
掲題の本は、著者が88年から電通のサッカーに関わるようになったところから始まっているが、

尊敬する先輩、高橋治之さん(現・電通顧問[以降、肩書のみの表記は電通の肩書])から教えられた「サッカーはメディアである」という言葉の真義を日韓共同開催のワールドカップを通し私は改めて体感した。

サッカーはメディアである。つまりは、スポーツはメディアである。これは、ようするに、サッカーでありスポーツでありが、「お金を生む」なにかになっていくとき、メディアが重要な役割を演じていくことを意味している。スポーツはメディアで放送する「から」、人気がでて、ビジネスとして成立していく、わけではない。
むしろ、逆なのだ。
なぜ、スポーツをテレビで放送すると、視聴者が見るのか? それは、視聴率が上がるものに、スポーツが

  • 変わった

からなのだ。つまり、電通は視聴率が上がるようにするために、スポーツ自体を「別のもの」に変えさせる。変えさせることによって、スポーツを「テレビで見る」ことを

  • 娯楽

にする。見て「おもしろい」ものが「スポーツ」と「定義」したのだ。
サッカーもオリンピックも、「視聴率」がとれなければ、メディア上で成功しない。つまり、お金が発生して、そのトリクルダウンで、選手も少し裕福になれない。そして、それを「成功」させてきたのが、電通しかいない。掲題の本を読むと、ようするに、すべての日本のメディア・サッカーは、電通による「しかけ」であることを自ら「自慢」しているわけである。まあ、そりゃそうである。なぜなら、電通しかそのノウハウをもっていないのだから。
こうして、メディア・スポーツとは「電通」のことになった。私たちは、ある意味において、毎日、テレビでメディア・スポーツを観戦することで、

  • 電通でオナニーをしている

のと変わらなくなった。メディア・スポーツとは、電通の「操り人形」である。もはや、そこに「勝ち負け」など存在するのだろうか? もしあるとするなら、勝者は常に「電通」であり、敗者は常に「視聴者」なのだろう。もはやそこには、スポーツはない。選手は、電通の言う通りに演じているに過ぎず、まさに、電通の言う通りに、舛添バッシングをしているワイドショーのコメンテーターと同じわけである...。

日本は、サッカーの国になれたか。電通の格闘。

日本は、サッカーの国になれたか。電通の格闘。