永井均『なぜ意識は実在しないのか』

掲題の本なのだが、確かにこの本を読まれる多くの方々が、どのように思われるのかは、私は興味ない。しかし、これだけは言われてもらいたいが、「意識」という言葉は、<今ここ>の日本の文脈においては、今は亡き伊藤計劃の『ハーモニー』というSF小説を無視して考えられない、という気持ちがあるのだが、まあ、見事なまでに、彼のその小説についての言及はない。
そういった文脈で言うなら、むしろ、伊藤計劃自身の「分析哲学」的な興味の文脈の中で、その「意識」という言葉を、『ハーモニー』における重要なキーワードとした、と考えるなら、それなりに重なっている、とは言えるのかもしれないが。
しかし、もしもそういった議論をするとするなら、掲題の著者というのは日本人なのかな、という疑問さえ浮かんでくる。というか、この日本社会の生活社会の中で、さまざまな生活者の周りの人々との葛藤を経ながら、日常を生きている

  • 生活者(=労働者)

とは、おそらく違った位相を生きている人なのであって、まあ、言ってしまえば、大学教授なんていう

  • 純粋培養

の無菌室で生活しているから、こんな浮世離れした議論をいつまでもやってられるんだろうな、と。
もっと言えば、掲題の著者は「文芸批評家」でないんですよね。つまり、文芸批評家であるなら、伊藤計劃の『ハーモニー』という作品が、とりあえず、目の前にあったら、その作品の「文脈」で考えますよね。少なくとも、それに「応答」しようとするわけじゃないですか。掲題の著者には、少なくとも、そういった動機はなかった、ということになるのであろうw
(「意識」という言葉を、この現代の日本の社会で使っておいて、伊藤計劃の『ハーモニー』に応答しようともしない、というのは、相当、世間様の常識からは、斜め上に行っちゃっているんでしょうねw)
伊藤計劃の『ハーモニー』における「意識」問題とは、「意識」問題ではない。つまり、「意識」などどうでもいい。彼はある種の「反語」的な語りをしたのだが、それは徹頭徹尾

  • 倫理的

な問いであった。つまり、彼が問題にしたのは、人間の「悪」の宿命についてであった。お金持ちたちが貧乏人を侮辱し、高学歴たちが低学歴を侮辱する、そういった「悪」に対して、ミャハの問いは、もしも人間が未来永劫に近い間生きたとして、そんな「悪」がその間ずっと続くなら、人間には生きている価値がないんじゃないのか、と問うたわけであろう。
つまり、逆説的であるが、そういった人間が宿命的に宿す「悪」を、人間自らが断ち切ろうとするなら、それは人間が「意識」を捨てる、と同値なのではないか、と問うたわけであろう。
つまり、伊藤計劃ニヒリズムは、「悪」が人間の本質と深く関係している、というところにある。だから、意識を捨てるということが、それ以降も外面的には、ほとんど変わらない行動をすることになるとしても、

  • (今まで私たちが解釈してきた)人間を止める

ということと、ほぼ同値の問題構成になっている、というところがポイントであったわけであろう。
もちろん、掲題の著者なら「善悪など存在しない」と言うわけであり、つまりは、善悪は哲学の問題ではない、ということになるのであろうが、まあ、別にそれはそれでいいわけである。ただ、伊藤計劃のようにターミナル・ケアを生きた人がどれだけ人間の「悪」を深刻な問題だと考えたか、市井の大衆が、どれだけ日々の生活で、この「善悪」の問題を真剣に悩んでいるか。ようするに、私が言いたいのは、そういった問題に比べれば、掲題の著者の関心は私には関係ない、というだけなのですから。
掲題の著者への違和感は、私なら、こういった問題はなんらかの「アナロジー」で考える、ということになる。例えば、大学の数学の一分野に「測度論」というものがある。まさに、「測る」ということが、一体何を意味しているのか、ということになるわけだが、例えば、「測度論」と「確率論」は数学的には、まったく同じものになる。
掲題の著者が言う「私」を、私はひとまず、こういった文脈における「測定マシーン」と定義する。この場合、掲題の著者の文脈を意識するなら、

  • この世界には多くの「測定マシーン」が存在するようだ
  • それらの「測定マシーン」があるというのは、「私」という「測定マシーン」が、この世界を「測定」したから言っている
  • そういった世界の多くの「測定マシーン」と、「私」という「測定マシーン」には、本質的な差異はないが、そもそも、「私」という「測定マシーン」が「測定」をしないと、そういった世界の多くの「測定マシーン」があることを「私」は知らないのだから、そういう意味で、「私」という測定マシーンは、あらゆる測定マシーンの「前提」として、私の中では「解釈」されている

こんな感じになるであろうか。
では、ここからは「測定」とは何か、を考えてみたい。
ある対象に光をあてる場合を考えてみる。私たちはその跳ね返ってくる光を「測定」する。その場合、その光の測定結果には、その対象のなんらかの情報が含まれている、と考えられる。これが、基本的な「測定」の構造である。
そういう意味で、測定とは測定結果という「情報」をアウトプットすること、と言うことができる。では、「情報」とはなにか。情報、つまり、言語には二つの特性がある。

  • 固有名 ... 指で指示するのと同じ意味。最終的に支持者の指示しようとしたものと被支持者の解釈したものが「同じ」かを確認する手段はないが、とにかく、お互いのどちらかでも、なにかに「困れば」、うまくいっていないということになるのだから、あまりそういった問題は本質的にならない。
  • 形容詞 ... 基本的にこれが何かを記述しないが、形容詞どうしの区別があり、その形容詞で指示されるものの間でも「どのくらい」かによる差異は記述可能、つまり、種類と量の差異という二種類のベクトルをもっている。

このように見てくると分かるように、そもそも、「情報」とは、なんらかの

  • 差異

の記述でしかない、ということが分かる。つまりどういうことかというと、人間というそれぞれの「観測マシーン」は産まれてからずっと、なんんらかの「観測」をし続けている。その場合、それらの「観測」データは、この世界の

  • 真実

写像であるかどうかは、どうでもいい、ということになる。なぜなら、そもそもデータ、つまり、情報になった時点で、それは「差分でしかないから。だから、そういった人間それぞれが、どういった「差分」という情報を生み出しているのか、といったことは本質的ではないわけである。もしかしたら、まったく違った何かをイメージしているのかもしれない。しかし、たとえそうだったとしても、それなりにお互いの「会話」が成立するなら、それは「問題」にならない。
それぞれの人間は、そうやって産まれた時からずっと、外界を「観測」し続け、そうした観測結果という「情報」から、なんらかの

  • 外界の「解釈」モデル

をもっている。これが、私たちが「この世界」だと思っているものなわけだが、この「モデル」の特徴は、これが「差異」の集合体から作られたイメージだということで、そうであるから当然、一人一人の人間で、同じであることを少しも保障しない。むしろ、「差分であるということは、私たちにとって生きる上で「重要」なものであればあるほど、極端に「大きく」強調されてモデル化されている、と考えた方が普通ということになる。
観測という「情報」は二つのものによって成立している。

  • 観測マシーンによって「観測」された観測結果
  • 観測マシーン「自体」の観測による観測結果(=メタの観測)

つまり、観測結果はその観測結果を生成した観測マシーン、または、観測対象の、俯瞰的な状況の情報なしには、その観測結果の「情報」の解釈は意味を生成しない。
そのように考えたとき、一つの特異な観測マシーンが問題になる。あらゆる観測マシーンは観測結果の「意味」は、その観測マシーンの「観測」によって成立するということは、つまりは、その観測マシーンを「動かす」人の「動機」のようなものが、本当はその観測結果の「意味」のほとんどを決定している、と言っても過言ではない。しかし、だとするなら、この「私」という観測マシーンは一体、

  • なぜ観測をするのか?

という問題。というか、私たちは本当に「観測」などしているのだろうか? つまり、あらゆる感覚情報は、ある意味で、

  • 勝手

に入ってくる。勝手に、感覚器官が感覚してしまう。こういったものを「観測」というのは違うんじゃないのか。私たちの感覚器官は産まれてから死ぬまで、ずっと活動している。それは、一般に言うところの、なんらかの「方向」(=意図)をもって、

  • こっちの方を図ってみる

というのとは、どこか違っていて、なんというか

  • ランダム・ウォーク

で、ずっと千鳥足で、さまざまな方向を彷徨いながら、勝手にずっと観測している、という感じだろうか。
例えば、こんな例を考えてみよう。私はある時、ずっと自分を撮影し続けてみようと思ったとする。そして、その日からずっと、私はあらゆるカメラを使って、自分を、さまざまな角度から撮影を始めた。そして、同じことを、別のだれかに対しても行ったとする。そして、私はその、私を撮影した「記録」と、その他人を撮影した「記録」を

  • 比較

してみることにしたとする。この場合、私を撮影した記録も、その他人を撮影した記録も、たんに、物理学的、生物学的な人間という対象の、唯物論的な記録にすぎないわけだが、お互いを「比較」して、

  • その範囲

において、「違いはない」なら、基本的に「同じ」ものとして扱っても、それほど困らないんじゃないのか、というのが非独我論的な(=自然科学的な)アプローチということになるのであろう。

同時三重人格の場合はどうでしょうか。同じ一つの身体にA、B、Cという三つの人格が宿っているとして、たとえばCにとって、Aは違うけどBはゾンビなんじゃないか、なんて問いには意味がない。その点はその通りだと思います。それでも、Cにとって実質的な意味のある懐疑がありうるし、ありうるどころか、きっと実際にその懐疑を持つだろうと思うんです。それはですね、AとBは本当に二人なのか、ひょっとしたら本当は一人なのに、二つの別々の人格を装って自分(Cのことですよ)をだましているのではないか、という懐疑です。Cがその真偽を調べる方法はないと思いますが、そうであるかそうでないかには明らかに実質的な違いがありますよね?

掲題の著者の言う「私」は、自分が今、生きているわけで、朝起きてから、また、夜寝るまで、意識があって、ずっと、意識的か無意識かに関係なく「観測」をしていて、さまざまな情報を収集している、というその

  • 事実性

がある、ということの「認識」に関係している。つまり、この「マシーン」が、なんだか分からないけど「動いている」ということがあって、それ以外のさまざまな情報なんているのは、この「マシーン」が動いている結果として観測される「情報」に過ぎない。もちろん、その「情報」を分析すれば、世の中には、さまざまな「測定マシーン」があり、さまざまな測定結果があることは分かっているけど、そういった「測定結果」でさえもが、この私という「マシーン」の測定結果に過ぎない。
ようするに、なんで「私」は生きているのか、という不思議なのだろう。
そういう意味では、上記の三重人格の三つの人格が、以下の意味で、本質的でない、ということは分かる気もする。

それはですね、ひょっとしたら驚かれるかもしれませんが、いま別人性という問題と関連して論じてきた議論は----その他のこの種の議論もみなそうなのですが----、独在性の問題とはまったく関係しない、という点です。独在性の問題は、どういう根拠によってであれ、端的に私である者が現に存在してしまっている、そしてどういう根拠によってであれ、そいつとは区別され、そいつとはまったく異なるあり方をしている(にもかかわらず)同じ種類に分類される者も存在してしまっている、という事実にかかわるからです。この不可思議な事実性の問題を概念化したのが独在性です。

しかし、そうだろうか?
ここには、もっと本質的な問いがあるように思われる。
それをここでは「ヒューム問題」と呼んでおこう。
もしも私が私のことを「私」と呼ぶとするなら、次のように問うことは可能なのではないか?

  • 一瞬前の「私」と今の「私」を、なんらかの意味で「同一」と呼ぶ根拠はなにか?

つまり、次のようなことをイメージしてみよう。ある瞬間。私を「私」というものと解釈した。しかし、次の瞬間。私は、その一瞬前の「私」と今の私には「連続性」がないと考えた。確かに、一瞬前の私と、今の私には、さまざまな「違い」がある。違っているものを「同じ」と呼ぶことは、端的に間違っているのだから、違う存在なのだろう。
では、今この瞬間の私を「私t1」と呼ぶことにしよう。そして、次の瞬間の私を「私t2」とする、これを繰り返して、「私tn」は、すべて、本質的に「別人格」と考えよう。
さて。こういった存在は「私」というものを、表象できるのだろうか?
私と「言おう」としたとき、私の「わ」の文字を思考した時と、「た」の文字を思考した時と、「し」の文字を思考した時では、本質的に違うのだから、

  • <わ>の時の私 != <た>の時の私 != <し>の時の私

となり、これを「わ・た・し」と書くことにしよう。残念ながら、「わ・た・し」は私を表象できない。なぜなら、<わ>の時の私と、<た>の時の私と、<し>の時の私では、本質的に異なっているのだから、それを「一貫性」のあるものとして解釈する理屈が、この世界にはないからなわけである。
この世界像は、まさに「健忘症」に似ているかもしれない。それら一瞬一瞬の「記憶がない」というより、なんというか、それらの「記憶」が、今の自分となにか関係があると思えない、という表現の方が正しいのかもしれない。
もっと言えば、こういう人を「過去を振り返らない人」と表象することも可能なのかもしれない。過去を振り返るという行為は、自分の過去の学歴と比較して、低学歴の人を馬鹿にしたり、お金持ちの家の子どもが、貧乏人の家の子どもを馬鹿にしたり、という行為を行うことと同値だと考えることもできるわけでして、そう考えるなら、上記の伊藤計劃の『ハーモニー』の文脈における、意識問題とも、それほど遠くない、という印象をもつのだが...。