私はそもそも映画版のアニメ「ペンギン・ハイウェイ」を見る前に原作を読んでいた関係で、このアニメをある程度、客観的に見れたのかな、といった気持ちがあった関係で、このアニメに対する、ネット上の反応を少し意外ではあった。
それはどういうことかというと、例えば次のトゲッターの記事:
ペンギンハイウェイくそ地獄だった金払って女キャラが徹頭徹尾性的に消費され続ける地獄を見させられた悲しくてずっと泣いてたし、この作品が発表される為にいろんな人がこの内容にOK出したのも、沢山の人がこのセクハラな内容を無邪気に消費してるのも物凄くショック
@chloeyuki 2018/08/25 00:26:25
私がここで言いたいのは、このフェミの反応に大急ぎで「反論」している、コメント欄の罵詈雑言の数々の異常さ、についてであった。まあ、こういった「大衆」のアンチ・ポリコレ的な態度を、ここでは云々したいわけではなくて、それ以外にも、もっと素朴に、この作品を主に「原作の好評価=なにかのSFの賞をもらっている」ことに関係させて、
- SF的に評価の高い作品
といった形で、この作品の「芸術性」を暗に示唆して、上記のようなフェミの反応に「反論」している、「有識者」が大勢いることに、私は素朴な違和感を覚えた。
最初に私がこの映画を見た感想を書いておくと、まず、「音がうるさかった」ということが、とにかく気になった。それは、映画館の音響の問題というより、なんらかの意図があったんじゃないのか、ということを疑っている。あと、基本的には、原作に忠実に踏襲してある、という感じでありつつ、あくまでもこれは
- 子ども向け
にデフォルメされた「子ども向けアニメ」として作られたことが本質的な特徴だと思っている。
そういう意味では、このアニメは原作とは基本的な「目的」が違った作品だ、と考えている。
最初に断っておくと、私は基本的に原作『ペンギン・ハイウェイ』を評価していない、というか、ある種の「失敗作」だと考えている。
今さら言うまでもなく、原作者の森見さんの『四畳半親和体系』、『有頂天家族』などが示しているように、作者は、基本的に「青年期の自意識過剰な煩悶とした日常」を描いてきた作家であり、その視点から、必然的に「ヒロイン」を、ある種の「女神」的なイノセントな存在として描く傾向のある作家であった。
そして、私はこの傾向は、この『ペンギン・ハイウェイ』においても反復されている、と考えている。
つまり、この作品は「子ども小説」ではない。あくまでも、上記の延長につらなるような、「青年期の自意識過剰な煩悶とした日常」の作品なのであって、作者はこれしか書けない人なのだ、と考えるべきだと考えているわけである。
改めて言うまでもなく、この作品は、主人公の、小学生5年生のアオヤマ君が自分は
- 頭が良く
これからどんどん
- さらに頭が良くなっていく
と主張するところから始まる(これは、原作もアニメも変わらない)。しかし、これくらいの年齢の子どもがこんなことを言うだろうか? ようするに、作品の最初から、この主人公は
- 異常
であることを、読者に作者はぶっこんできているわけである。そのことは、上記のフェミの反応の中心である、アオヤマ君のお姉さんの「おっぱい」への関心についても言うことができるだろう。なぜ私がこの主人公を「異常」だと言うのか? それは、とても分かりやすいように、その
- 範例
が彼の近くにはいるからであって、それこそ「ウチダ君」である。ウチダ君は、いつもアオヤマ君とつるんで行動している、少し気の弱そうな少年だが、彼はアオヤマ君が、異常にお姉さんの「おっぱい」に関心をもって、それをところかまわず
- 公言
していることを、「よくないこと」「恥かしいこと」と語ることで、暗黙にアオヤマ君を非難している。ようするに、こういう反応こそが
- 普通
なのであって、アオヤマ君には、そういった「普通」さが感じられない。おそらく作者は、なんらかの意味において、アオヤマ君のこういった「鈍感さ」を
として示唆しようとしているのではないか、と思われるわけである。
さて。次に私が違和感を覚えるのが、アオヤマ君のお父さんである。なぜかというと、このお父さんが「完璧」すぎるのだ。あまりにも、「できた」お父さんすぎるのだ。しかも、やたらと「科学」に通暁している。
この、あまりにも「完璧」すぎる父親の存在は何を意味しているのだろう?
私はここから、作者は、アオヤマ君を、
- このお父さんの視点を投影した「イメージ」
として描いたのではないか、と考える。アオヤマ君の、まるで「ロボット」のような、論理マシーン的思考過程は、お父さんが大学などで学んだ「形式論理学」の、典型的な投影なのであって、だからあんなふうに「すべてが完璧であるかのように思考する」ような子どもになってしまっている。
しかし、言うまでもなく、こんなふうに考える子どもなんていない。それは彼が「科学の子」だか、なんだかなんて、まったく関係ない。子どもとは、ウチダ君のような反応をするものなのであり、そこから逸脱「させて」いるところに、なんらかの作者の
- 作為
を考えないというのは、あまりにナイーヴなわけである。
さて。そこで私は、上記のフェミによる、『ペンギン・ハイウェイ』読解に対して、以下の二つの定式化を目指してみたい。
- アオヤマ君とお姉さんの関係
私はこの「関係」は、なんらかの「隠喩」になっていると考える。つまり、これはある種の「幼児性愛」を示唆している。
そう言うと、でもアオヤマ君は男の子で、一般に幼児性愛の「暴力」問題が問われているのは女の子の場合なのではないか、と疑問に思われるかもしれない。つまり、そこが「反転」しているわけである。
- アオヤマ君 ... 男、子ども
- お姉さん ... 女、大人
これが、この作品の構造である。しかし、ここである「反転」を起こさせてみよう。
- アオヤマ君 ... <女>、子ども
- お姉さん ... <男>、大人
このように考えたとき、非常に「示唆的」な場面が何度も何度も描かれていることに、多くの人は気付くのではないか? まず、何度も何度も描かれるのが、喫茶店での、アオヤマ君とお姉さんの
- 二人だけ
でチェスを夜遅くまでしている場面である。そして、お姉さんが体調が悪いとき、アオヤマ君が一人暮しのお姉さんのアパートに「訪れる」場面である。この二つを男女を入れ替えて眺めたとき、ここに、ある種の
- 幼児性暴力
の「光景」が<暗喩>として示唆されていることに気付かないか?
- お父さんのアオヤマ君への「視線」とアオヤマ君のお姉さんへの「視線」
次に私が注目するのが、アオヤマ君のお姉さんを「(特におっぱいを重点的に)ねめつける」ように眺める視線が、なにを隠喩しているのか、ということであった。つまり、ここにお父さんの「視点」が暗喩されている、という直観を思わずにいられないわけである。言うまでもなく、この作品において、お父さんとお姉さんは、ほとんど会わないし(一回、あいさつをしたくらい)、ほとんど面識がないように描かれているわけだが、この関係は次のようになっている。
- お父さんは、完璧なまでに、アオヤマ君のことを悟りを超越しているかのように、隅から隅まで理解している(それくらいに、彼を毎日、ねめつけるまでに見尽している)
- アオヤマ君は、お姉さんの「おっぱい」を、お姉さんのことを悟り超越しているかのように、隅から隅まで理解している(それくらいに、彼女を毎日、ねめつけるまでに見尽している)
という関係になっている。一見すると、後者のアオヤマ君の態度は、イノセントな子どもの「純粋」な姿のように、ほほえましい感じで聞き流してしまうかもしれない。しかし、ここで「推移律」を適用していると、グロテスクな姿が現れる。
- お父さんは、お姉さんの「おっぱい」を、お姉さんのことを悟り超越しているかのように、隅から隅まで理解している(それくらいに、彼女を毎日、ねめつけるまでに見尽している)
もちろんこれは、「正しくない」わけだが、この関係を作者が暗に示唆していると考えるなら、このアオヤマ君の「ロボット」ぶりの不自然さを説明するわけである。
さて。もう一つだけ、付言しておかなければならないこととして、アオヤマ君が「科学の子」と何度も作品内で言及されることだろう。しかし、「科学」という言葉には、多くの含意がある。そして、私は基本的に「科学」という言葉は
- 危険思想
を内包していると思っている。以下それを説明していくと:
- 科学は、「本当は何が正しいのか」という「真実」を「教えてくれる」と「信じられている」
- ところで、神は「正しい」ことを言っている人に対して、絶対的に「味方」になると「信じられている」。
- よって、ある「間違った」ことを言っている人に対して、「正しい」ことを言っている人が、それを「理由」にして「いじめ」「悪意」「嘲笑」をすることを、神は「正しい」こととして、その「正しい」ことを言っている人の側の「味方」になると「信じられている」
- よって、もしもクラス全員での「いじめ」で自殺した子どもの、その自殺の原因がその「いじめ」であったとしても、そのクラスが、その子に対して「いじめ」を行った「理由」が、その子が「間違った」ことを言っていたことに対して、「正しい」ことを主張したことにあるのなら、この「いじめ」を神は「礼賛」する。
- 同様のことは、サイコパスや幼児性愛者についても言える。そもそも、サイコパスや幼児性愛者は科学的な「診断」によって「存在」を確定される。この世界は神が造った。だとするなら、この世界が「このようにある」ことには、なんらかの理由があることになる。さて、なぜサイコパスや幼児性愛者がいるのか? それは神が、彼らに「そうなれ」と命令したからである。ということは、サイコパスが悪事を行うことも、、幼児性愛者が、幼児に性暴力を行うことにも<神の「意図」>があるはずであって、よってこのことは「正しい」ということになる(まあ、いわゆる「人間の暴力肯定論」とか「レイプ肯定論」とかいった、「遺伝子」や「生得性」によって、こういった行為を「しょうがない」と主張する連中ですね)。
まあ、言うまでもなく、上記の議論になんらかの「極端」さを感じるわけであろうが、そのことの大きな部分に「科学」を「真実」と同値に考える慣習が関係していることを示唆しないわけにはいかないだろう。
例えば、ある左利きの人がいたとする。その人は、成人してからも、基本的に文字は左手でしか書かない。ところが、言うまでもなく、そもそも文字は左手で書くようにできていない。このことは、その左利きの人が、かなり「無理」をして左手で書いていることを意味している。言うまでもなく、大学受験の筆記試験では「不利」であろう。
しかし、こういった左利きの人を、果して、右利きの人は「同情」するだろうか?
本質的に、右利きの人は、もはや死ぬまで右利きである。そうであるのに、なんで左利きの人のことを真面目に考えるだろう? 彼らは普通に思うだろう。なんで左利きの人は右利きに「矯正」しなかったのだろう、と。そして、おそらく彼らは、なんらかの意味で「怠けた」から、そうだったのであって、彼らの自業自得だったのだ、と考えるだろう。そして、それで終わりである。
世の中の大半は右利きであるということは、
- 人間は右利きになるように神に造られている
ということであり、ということは
- 左利きは神の「失敗作」
なのであり、彼らが苦労するのは、「神のおぼしめし」なのであって、ざまあみろ、というわけである。
多くの人は、この世界がこのようにあることには、なんらかの「意味」があるのであって、左利きが少ないことには、なんらかの神の意図があると考える。
ことほど左様に、私たちは「相手」のことを心から「同情」なんてできない。心は繋がってないのだ。私たちが共感するのは、そこに本質的な「同質性」があるときだけであって、基本的に私たちは
- 自分が「かわいい」
ということを反復的に生きているにすぎない。
「"小児性愛"や"性的いたずら"という表現があります。私はこの2つの言葉は使わないんです。小児性犯罪か、小児性暴力という言葉を使っています。彼らは口をそろえて言います。『これは性教育だ』と。『優しく教えてあげてるんだから犯罪じゃないよ』『子どももいずれセックスを経験するときがくる』。"セックス"っていう表現を使うんですね。『その前に僕が教えてあげる』と思っている」
捕まらない加害者、責められる被害者 子どもの性被害を可視化していくために
Q:小児性犯罪者は、いわゆるロリもののポルノを見ているのでしょうか。またこのようなポルノが犯罪を抑制するという意見もありますが、この点はいかがでしょうか。
A:(斉藤章佳さん)小児性犯罪者も、痴漢も、盗撮も、レイプも約8~9割がそれぞれの性倒錯に該当するアダルトサイトやポルノを日常的に見てマスターベーションをしています。このような媒体が、犯罪を抑制するという議論は以前からありますがエビデンスがありません。では、逆に助長するのかということになりますが、それぞれの性倒錯で問題行動を始めたきっかけを当院でヒアリングすると、「サイトやポルノを模倣して」というタイプは実は少数派です。一方で、常習化した加害者の問題行動の引き金には確実になるというのは当院のヒアリングによる調査で明らかになっています。
捕まらない加害者、責められる被害者 子どもの性被害を可視化していくために
フェミの人たちの書くものを読んでいると、彼女たちが基本的に戦っているのが
- 幼児性暴力
の問題であることが分かってくる。そういった意味で、『ペンギン・ハイウェイ』は、そういった「トラウマ」をもっている人に、多くの危険なメッセージを送っている印象を私などは受ける。
上記のトゲッターのコメント欄の醜悪な眺めにおいて、何が欠けているのかといえば、彼らが、こういった人たちが「幼児性暴力」と戦うにはどうすればいいのか、ということに日常的に苦しんで、今もその突破口を見つけられないでいることの深刻さを「共有」していない、ということなのではないだろうか。
不登校の子どもに宛てた、「学校来てね」「待ってるよ」などのお手紙や寄せ書き。そこにある教師やクラスメイトの「善意」が、不登校の子どもにプレッシャーを与えたり、苦しめたりする場合があるかもしれない。8月上旬に「#不登校お手紙問題」として記事を配信したところ、大きな反響がありました。
不登校の子に届く「お手紙」問題、6千件の反響から見えた「現実」 2学期前に「迷う」機会を
幼児性暴力者の問題が非常に難しいのは、ようするに彼らの中の一定の割合で
と言ってもいいような、「頭のいい」人たちがまぎれこんでいることである。彼らは、その「能力」をいかんなく発揮して、幼児性暴力犯罪を
- 成功
させ続ける。というか、彼らは人生で一度も警察に掴まらない。絶対にアリバイを掴まれない。しかし、その彼らの歩いた後には、膨大な数の「性暴力」のトラウマを植えつけられた「幼児」を生み出していく。
大事なポイントは、彼らは常に
- 仲間(なかま)
とつるむ、ということである(映画『悪の教典』のハスミンがアメリカにいた頃、彼の同じような「サイコパス」と「つるん」で行動していたことは、示唆的である)。ようするに、これがフェミが
- 怖がって
いる「オタク」たちなのだ。「オタク」たちは常に「友だち」と一緒に行動し、上記のコメント欄のように、集団で、相手をボコボコにする。そして、彼らは、その「オタク」同士で、強烈な「共感」感情を高まらせる。
このことは、常にクラスの「いじめ」が、一人に対して、
- それ以外のクラスの全員
による、「一対多」の関係となっていることを意味している...。