浦野茂「類型から集団へ ---人種をめぐる社会と科学---」

まず、普通に考えてみよう。ある人がいる。その人には、ある「遺伝子=DNA」をもっている。そして、その連鎖は、まず、「一定」と考えていい。そこから、私たちは

  • 「その人」性

を「定義」できるのか? と考えてみよう。つまり、

  • 「その人」は「実在」するのか?

である。なにを言っているんだ。いるにきまっているじゃないか、げんにいるから、こんなことを話しているのだから。そう思うかもしれない。
しかし、その場合、私たちは何を言っているのか? これを考えてみる必要がある。
これを、エリオット・ソーバーは、

  • 「個体」としての「実在」

と言った。つまり、どういうことか? そもそも私は上記で、「人」という「言葉」を使った。つまり、そもそもここで「その人」と呼んでいること自体が、その人が「人間」である、ということを前提しているかのような「言い方」になっている、ということなのだ。
こういった対応関係を、数学では「外延的」「内包的」と呼ぶ。ある集合がある。その集合を構成する、それぞれの要素を「指示」することで決定するのが外延的であり、それを「文章」によって説明するのが内包的である。
なんだ、同じことじゃないか、と思うかもしれない。そういう人は、上記の問題にたちかえって、そもそも

  • 人間を内包的に「定義できる」

と思っているし、

  • 生物を内包的に「定義できる」

と思っている。もうお分かりだろう。この延長上に、

  • 人種を内包的に「定義できる」

と考えるわけだし、

  • 「その人」を内包的に「定義できる」

という考えになるわけだ。いや、それができないと思っている方が「どうかしている」んじゃないか、と、頭を疑われるのが、世の中の「常識」というわけだ。というか、こういった「区別」を分からない奴は、この人間社会で生きていけない。つまり、「誰もが分かっている」のだから、「それ」をあとは「記述」するだけだ、と。
しかし、そういった「直観的」な説明は、具体的な計量的な「決定」に、つまり、

  • 科学の「進歩」

によって、近づいていくのだろうか? 私がさっきから問うているのは、ここなのだ。
人間でもいい。生物でもいい。生物は「遺伝子=DNA」をもっている。だったら、そういうことなのではないか? つまり、人間は

  • 定義

できるのではないか? そのDNAの

  • ある個所

が、なにかある「一定のもの」であるのが「人間」で、それ以外が、人間以外の生物なのではないか? いや、もっと言うことができる。その「人間」の中でも、

  • ある個所

が、なにかある「一定のもの」であるのが「人種」なのではないか? さらに、その「人種」の中でも、

  • ある個所

が、なにかある「一定のもの」であるのが「その人」なのではないか? 私は、「ある個所」に「それ性」があると思いたい。そうであれば、その個所さえ確かめれば、それが分かるから。ところが、こういう考え方は「失敗」する。なぜなら、そういった遺伝子の「変異」は

  • ランダム

だからだw 
ここにあるのは、ある「統計的な実在」である。ある地域(例えば東アジア)の人たちには、こういった遺伝子の特徴をもっている人が「多い」ということは言えても、当たり前だが「そうでない」人も「たくさん」いる。しかし、全体として見ると、なんとなく、その地域の「特徴」があるように、どうしても思える。
私は私だ。他の誰とも違うんだ、と言ったとき、それは遺伝子的な根拠とはならない。その人の遺伝子の「ある個所」が「同じ」人は必ず存在するし、「ある個所」が「違う」人も必ず存在する。だったら、なんなんだ? なにが、こういった「内包的」な

  • 実在

を決定するのか?

集団とは、本質的特徴を共有するクラス(類型)ではなく、生殖によってたがいに結びつきつつもそれぞれ遺伝子的変異をもったユニークな個体からなっている。つまり集団は、特徴の共通性から成立するのではなく、生殖における個体どうしの結合という因果関係として成立している。言い換えれば個体は集団に対して、クラスに対する要素という関係ではなく、全体に対する部分という関係にある。したがって集団は、類型とは異なり、生物学的実在なのである(Dobzhansky 1951c:660)。

現代の生物学者は、上記の引用にあるように、上記までで検討してきたような、

を「放棄」している、と考えることができる。人間とは何か、ではなく、たんに、「人間がセックスをして産まれた子ども(が、大人になってセックスして子どもを産む)」という

  • 関係

が成立していることを「人間」と定義した「だけ」なのだ。つまり、人間はたんに

  • 歴史的=実践的

に「それ」と指示することができるだけであって、それ以上でも、それ以下でもない、というわけだw
え? と思うかもしれない。なんなんだそれは、と。そんな馬鹿な。俺が俺であることは、もっと「確か」なことなんじゃないのか。なんでそれが、そうだと言うことができないんだ、と。
しかも、上記の「定義」を考えてみてほしい。人間とはなにかは、お互いが「子どもを産んだ(それが続いている)」という「事実」にしかない。つまり、これは

  • 未来に開かれている

わけであって、今この一瞬では「決定できない」と言っているのだから、なんなんだこの定義は、と苦々しく思うかもしれない。
しかし、である。
ここで、もう少し考えてみないか。私は、ある日、子どもを産んだとしよう。その子どもは、なんらかの科学実験で、遺伝子にさまざまな「細工」をされたために、私たちが今まで、それが「人間」と考えていたものとは似ても似つかないかもしれない。しかし、そういった存在でも、

  • 次々と世代が続いた

とした場合、つまり、彼らは彼ら同士で、子どもを産んで、何世代の後も生き続けたとするなら、それは立派に「生きている」、ということなのではないか?
つまり、私が言いたかったのは、「人間とはそもそもこういう存在だ」と言うこと自体が、未来に対して不遜なのではないか?
このことを上記の引用では、

  • 人間の「定義」は、その「集団」の統計学的な定義としてしか存在しない

という形でまとめられているわけだが、そもそもその

  • 実在

統計学的な形でしか語れない、ということがどれだけ「文系」のナイーヴな語りにおいて深刻なのか、を考える必要があるだろう。

第4節で伸べたように、ドブジャンスキーは人間という種が複雑かつ錯綜とした集団のヒエラルキーからなっていると考えていた。その根拠にあるのは、人間という種のなかに「多少とも生殖的に分離」した複数の遺伝子プールが存在しているという認識である。ちなみにこのような認識は次のようにも言い換えられている。「各集団のメンバーはそのコミュニティ内においてその外でよりもより頻繁に婚姻する」(Dobzhansky 950c:387)。
しかし注意して読めば分かるようにこの引用文はトートロジーである。集団そのものおよび集団の教会は、婚姻する確率の相対的差異によって定義されるはずだから。したがってこの文は実は「婚姻する確率が高い者どうしは婚姻する確率が高い」としか述べていない。

ここで上記で述べた、人間の「直観的」な自明性について考えておこう。なぜ私たちは、そういった「差異」を認識できるのか? それには、やはり進化論的な「根拠」がある。つまり、上記で「人種」と呼んだような、なんらかの

  • (ある地域で見られる、なんらかの)共通した特徴

がなぜ生まれたのかは、その地域が、なんらかの理由による(例えば、地理的、政治的な)「隔離」によって現れてくる、と考えられる。つまり、ある地域同士が、お互いの

  • 人の交流

がないと、それぞれの地域ごとでの「進化」が進むことになる。しかし、言うまでもないが、このことだけでは

  • 種としての「独立」

を意味しない。しかし、だからといって、こういった「延長」にそれが達成されないとも言えない。いずれにしろ、その「傾向性」はあくまで

  • 統計的

にしか現れない。私がなぜ上記の最初で問題提起したような

に批判的なのかが分かっただろうか。文系的な実在論(=存在論)とは、

によって「存在」を確定していくような、一連の運動だ、と言うことができる。しかし、「それ」は何を言っているのか? つまり、これが「決定できない」のだ! つまり、むしろ問われなければならないのは、

  • そう「言う」ことが、結局は何を言っていることを意味するのか?

に対する、カント的とも言っていいような(実践的な)「懐疑」がそこからは抜けてしまう、という批判なのだ...。

概念分析の社会学 ─ 社会的経験と人間の科学

概念分析の社会学 ─ 社会的経験と人間の科学

  • 発売日: 2009/04/01
  • メディア: 単行本