ヴィクター・デイヴィス・ハンセン『図説古代ギリシアの戦い』

昔から、

  • なぜ国家は滅亡するのか?

という質問が問われる。このことは、すべての国家が今まで滅亡してきたからで、この例外はありえない、という認識が関係している。
よく言われるのが、

だ。これについては、ヘーゲルの歴史哲学でも検討されているわけで、いわば、常識的な認識だ、と言ってもいい。もしもその本質がテクノロジーなら、私たちはこの宿命から逃げられないことを意味する。なぜなら、テクノロジーの進歩は人間が生きている限り、逃れられないからだ。私たちは、テクノロジーの発展を目指すことを止められない。
しかし、である。
歴史を真摯に眺めると、もう少し違った側面が見えてくるわけである。

  • 1 正式な宣戦布告と現行休戦協定や条約の明確な廃棄

紀元前五世紀中頃までは、歩兵の奇襲や宣戦布告のない戦争はほとんど存在しなかった。一定の法的な枠組が敵体国間の戦争、平和、敵意の強弱を定義し、制限していた。両軍はともに、正義と合法性は自分たちにあり、これは称賛にあたいする先生であると信じて----しばしば指揮官が布告した----進撃した。

部隊が出撃し、激突するまえに、戦闘は公布された。また攻撃の正式な承認をしめすために隊列の面前で家畜の生贄がささげられ、出撃する司令官が長い演説をおこなった。

  • 3 戦闘期間(春と夏)と戦闘時間(昼間)の制限

戦場は協定によって、平坦な地形がえらばれた。山間のお隘路や丘陵地帯は戦場にはならなかった。夜間攻撃は、まったくなかったとはいえないが、めったにおこなわなかった。

  • 4 戦闘の停止

敗北した敵の迫撃は時間と場所が制限されていた。日没は殺傷終了の合図であり、山岳地帯は敗北した敵の避難所だった。負傷した重装歩兵にとどめをさすことはなかった。捕虜も処刑されなかった。捕虜は奴隷にされるまえに解放されるか、あるいは身代金を交渉するチャンスがあたえられた。

  • 5 戦死者についての協定

戦死者は辱められることなく、条約、あるいは正式な協定にもとづいて返還された。これは降伏が合法的な行為として承認される道筋をつくることになった。敗者は正式に戦死者の返還を要求した。それは敗北をみとめることでもあった。勝者は戦場に戦勝記念碑を建てた。これに異論をとなることはなかったし、汚されることもなかった。

  • 6 戦闘員、戦闘地域の制限

通常、伝令と市民には危害をくわえなかった。また、聖地、神殿、ギリシア全土に共通の宗教関連地域は歩兵の攻撃や占領から除外された。

戦いは槍と楯で決せられた。つまり、筋力が動力源であり、精神力がすべてを左右した。歩兵としての適正はもともとは農業生産力にもとづいて判断された。これは資産を評価する国勢調査がおこなわれた理由を説明するものである。裕福な貴族の援軍と貧しい人びとの軽装部隊の出番は、たまに発生する前哨戦と戦闘後の散兵戦にかぎられていた。古典時代のアテナイでさえ、騎兵は兵役年齢に逹した成人市民の五パーセントぐらいしかいなかった。さらに、戦場には土地をもたない弓兵、投石器の射手はまったく存在しなかったから、周辺にしりぞけられた。遠距離攻撃や攻城兵器が発達する----課税と都市の専門職の出現----のは紀元前四世紀以後である。

これは、ギリシアの「戦争」の初期の形態をまとめたものとなっているわけだが、驚くべき様相を示している。
そもそも、初期ギリシアの社会形態は、素朴な農奴制だった。幾つかの地主に隷属する形で百姓がいて、そういった塊が幾つかあって、それぞれが覇権を競っている、という形になる。
こういった社会秩序において、「戦争」とは、私たちが現在思っているような戦争とは、まったく違っている。ここで問われるのは、

  • そのどれかの地主が、自らが所有する畑であり土地を、「もう少し」広げたい

という「ささやか」な願いなのである! こうした場合、それぞれの隣接する地主たちは「戦争」を行ったわけだが、大事なポイントは、

  • 別に、今の自分たちの「権力」を危うくするような「危ない」ことをしたいわけではない

ということだ。お互いの地主は、そもそも、その地域の権力者だ。そして、お互いは、今の権力に満足している。ということは、そもそも、それぞれの「地主」は仲良くしていれば、お互いの「権力」はそのままなのだ!
よって、「戦争」とは、今の私たちが考えているものとは、まったく異なっている。戦争は一種の、「紛争解決の手段」であって、結果として、その

  • トラブル

をどうやって解決するかの一つの方法でしかない。
考えてみてほしい。地主のお互いが「殲滅戦」を行うことには、なんの利益もない。その地主がほしいのは少しの土地であって、この「要求」をフェアな形で差配されるなら、あとはどうでもよかったのだ。
一番ダメなのは、その地主同士の「権力」の基盤が失われることだ。それぞれの地主は、お互いの「権力」をもっていて、その権力にお互いは「満足」している。そりゃあ、自分は小作人のように、奴隷のように命令される立場に落とされていないのだから、最大の目的が、この有利な立場にい続けられることだ、というのが分かるだろう。
もともと、古代ギリシアの「戦争」は、この形態をベースにして始まった。つまり、この「暴力装置」をベースにして、始まった。
この古代の社会秩序はその後、大きく変化していく。その一つがアテナイの台頭だ。
もともと、この地域は、ペルシア文明の周辺国として存在した。その中で、この地域はペロポネソス戦争を中心として、アテナイを中心として、ギリシアの諸都市国家が統合される形になる。
しかし、その

において起きてきた「暴力」の形態は、もはや、上記の引用で示した、地主同士の「いざこざ」を超えるテクノロジーの無放縦な「使用」だった。

両陣営はたちまち戦争の<おそるべき算術>をマスターした。敵対行為がやむのは、敵の中核部隊を殺戮し、相当数の民間人をホームレスと飢えにおいこみ、敵の国家財政がまったく枯渇したときだけである、ということを理解したのである。重装歩兵のルネサンスが歩兵軍団による軍事対決と激突戦法という西欧のドラマティックな発明をつげるものだとするなら、ペロポネソス戦争はそれをさらに突きすすめて、全面的な、無条件の、正当な戦争という、はるかにおそろしい西欧の戦争理念への道をきりひらいたのである。そして、この戦争では、自由な社会が擁する政治的、科学的、物的資源は、敵の全文化を抹殺するために、優先的に、合法的に、集中されたのだった。ペロポネソス戦争以前では、民間人の大虐殺はきわめてまれだった。しかし、こうした戦争がひとたびはじまれば、民間人の殺戮はありふれたものになった。そして、アテナイ帝国主義的民主制ほど殺戮をほしいままにした国家は存在しなかった。

この様相を示す、トゥクュディデスの『歴史』における、ペロポネソス戦争初期の

が、どのように「違反国」を扱ったのかの部分を引用したい。

初めのうちは、各々が主権を持って同等の立場で議会を運営する同盟諸都市の長としての役をアテナイはつとめていた。しかし、ペルシア戦役と今次大戦との期間にアテナイは外敵に対し、自己の同盟違背国に対し、また随時、アテナイに交渉をもったペロポネソス諸国等に対する事件の処理と戦闘を通して以下のような大都市国家になった。私が本論から逸脱したこの部分を記述する理由は、丁度この年代の部分が看過されていて、先人たちは皆ペルシア戦役以前のヘラス事態かペルシア戦役自体のみを記録しているからである。勿論ヘラニコスは彼のアッティカ史でこの年代に触れているが、その記述は詳細にわたらず年代が不正確である。それと同時にこの他の理由としては、アテナイ帝国がどのようにして設立されたかを示すことができるからである。
まずアテナイ人は最初にペルシアが保持していたストリュモン湖畔のエイオンをミウティアデスの子キモンの指揮の下に攻略して、住民を奴隷に売った。そののち、エーゲ海のドロペス人の住む島、スキュロスの住民も奴隷に売ってアテナイ人自身がそこに移住した。カリュストス人に対しては他のエウボイア諸都市が中立を保っている間にアテナイは戦を起し後に協定の成立がみられた。この後、アテナイは離反したナクソスに対しても戦いを起し、包囲作戦で降伏させた。これは後々、事あるごとに最初の取決めに反して他の同盟諸都市を隷属した最初の例となった。
同盟を離脱したという理由として最大のものは、貢金と徴金の不払いであったが、ある場合には派兵拒否もあった。なぜならばアテナイは厳格にこの徴税を実施、強制したので、その圧力に慣れず、また、それを好まぬ都市はアテナイを嫌ったからである。しかもとくにアテナイ人にはもはや往時のようにその支配に好意がよせられておらず、彼らは他の諸都市とも平等の立場で出兵しなかったので、同盟離脱都市を自己の支配下に戻すのはいよいよ容易なことであった。つまり多くの諸都市人たちは、国を離れるのを嫌って出兵するのを好まず、協定負担分を船で納める代りに現金で支払い、アテナイはその支払金を資金として船舶数を増大させたゆえ、諸都市が反乱を起す時には、諸都市は不十分な準備と経験で戦いに直面するようになった。
歴史 上 (ちくま学芸文庫)

アテナイは最初、自分たちと志を同じくする諸都市国家との間に「同盟」を結び、お互いの関係は、

  • 相互バランス

によって成り立っていた。
ところが、である。
ある時期を境にして、アテナイは自らを「帝国」として振る舞うようになる。アテナイはまさに今のアメリカのように、

  • 言うことを聞かない国は、徹底的に滅ぼす

という態度をとるようになった。アテナイは自分たちが言うことに従わない同盟国を、

  • 軍隊で攻めて、国家そのものが失くなるまで、徹底して滅ぼした

わけである。
そもそものアテナイの、その力の源泉はなんだったのかについては多くのことが語られている。もちろん、海軍力が大きかったと言うこともできるが、一番は、銀山の発見だ、と言われる。
結局、アテナイは自らの「国力」に溺れて、自らの同盟国に対して、非情な破壊を行った。自分の言うことを聞かないというだけで、ここまでやるのかという

  • 残虐

な「競争」を始める。
では、ここで競われていたのはなにか? 言うまでもない、「知力」の競争なのだ! アテナイは哲学の国と呼ばれるように、人々の知力を礼賛した。人が、知恵を生み出して、今の危機を乗り越えることを礼賛した。しかし、この知恵には、パラドックスがある。つまり、

  • いかに、残虐に人を殺すか?

の「競争」が始まったのだ。言ってみれば、これが「哲学」の行きつく先だった、というわけだ。
国家は、最初の引用にあるように、最初は数えるばかりの地主たちの「権力のバランス」を調整することを目的として始まる。ところが、国家は拡大するにつれて、より

を求めるようになり、あらゆることが「競争」的に取捨選択されるようになる。そうやって、「いい」方法として選ばれたもので、まとめられていくとき、まったく思いもおよばないような

  • キメラ

となる。もやは、そこでは「なぜそんな残虐な扱いをするのか」といった疑問は忘れられ、

  • 局所合理性

の覆われた、醜いキメラとなり、そもそもの、その社会が抱えていた「秩序」が失われていくことになる。
古代ギリシア社会の、終局的な形態が、アレクサンドロスだ。

アレクサンドロスは不服従の嫌疑だけで、即座に死刑を命じた。マケドニア貴族の全世代が彼らがつかえたアルコール中毒の王によって破滅させられたというのは、誇張ではないのである。アレクサンドロスは晩年には妄想と痴呆がひどくなったが、同時に殺人も増加した。処刑されたのは、友人や側近たちだった。この処刑でもっともおどろかされるのは、断罪されたのは若き王に個人的な忠誠と献身的な努力をながいあいだささげてきた人たちだった、ということである。これらの名を知られたマケドニアの高官にくわえて、おびただしい数の名を知れない官僚が、不服従、無能、陰謀などの嫌疑で、証拠もないまま、あっさりと殺された。

アレクサンドロスは、ギリシア社会が生み出した、鬼子である。彼は、アリストテレスを家庭教師として、古代ギリシアの知性を代表する存在として現れたはずだった。
しかし、彼の戦争は「狂気」そのものだった。次々と、敵を殺していき、古代ギリシア社会は、完全にアレクサンドロスに滅ぼされる。そしてそのまま、アレクサンドロスはアジアにまで侵略を進めて、その途上で息絶えることになる。
アレクサンドロスはとにかく、殺した。それは、敵だけじゃなく、味方だろうと容赦をしなかった。彼の家族も殺したし、戦果をあげた、優秀な司令官も殺した。とにかく、

  • あいつ、俺を嫌いなんじゃないか?

と思うやいなや、次々と処刑をした。上記の引用にあるように、彼は晩年は、アル中で痴呆もあったんじゃないか、と言われている。アレクサンドロスによって、古代ギリシア文明は滅びたわけだ。
こういった事例を見ると、例えば、ナチスドイツのヒトラー古代ギリシアを彼の

  • 理想国家

だと言ったわけだが、それはどういう意味なのか、が問われたわけだろう。ヒトラーは、このアレクサンドロスの全てを滅ぼす殺人に魅了されて、それを反復しようとしたのか。いや、それだけじゃない。近代欧米文明は常に、古代ギリシア

  • 理想国家

としてきた。そして、今でも「民主主義」の発祥として、古代ギリシアが理想化されたりする。
ところが、なぜか人々は、古代ギリシア

の非人道的な虐殺について言及しない。しかも、今のアメリカ帝国主義と、アテナイ帝国主義との相似性について注目しない。これは、わざとなのか? なんらかの盲目性が関係しているのだろうか? 私には、現在のウクライナ戦争にも通じるものが、この

  • 欧米中心主義

にあらわれているように思えてならないわけだ...。