今回は、まずオープニングで前回からの続きで、マイゴとムジカのメンバー全員がそろっている場面から始まった。ここで、なにが起きたか? にゃむちが来てモーティスの「演技」が嘘くさいことに馬鹿馬鹿しさを訴えて、モーティスが泣き出して、なんと長崎そよがモーティスを連れて、睦の家まで連れて帰る。まさに、そよママ復活だ。そして、海鈴を立希がその場から連れ出す。
このことが象徴しているのは、この二人の今までが
- やりすぎ
ということだろう。つまり、この二人はストーリーの主題じゃない。しいて言えば、このマイゴとムジカの全員がそろう場面を作るまでの、舞台設定として作られた「設定」だと言えるだろう。
では残ったムジカのメンバーが、今、どういう状態なのか?
にゃむちは、ずっと睦の演技にとりつかれている。そして、彼女は睦の引力に縛られ、前に進めない。演技志望でそっち方面の学校に行っているくらいなのに、睦の演技のすごさに自分の体が動かなくなり、この「呪い」に立ち往生している。そしてそれに対する彼女なりの結論が、ムジカの再結成しかない、となる。
初華については今週は大きく動いた。明らかに、彼女は豊川家と関係がある。ネット上では、祥子との従姉妹が推測されている。つまり、初華の一方における狂気に至るまでの祥子への執着、偏愛を描きながら、他方におけるお互いが「姉妹」であるという、いわゆる恋愛の発展の「不可能」性を示唆しようとしているのだろうと推測するわけだが、来週の予告を見る限り、ムジカのラスボスである初華が、とうとうクローズアップされるという展開になりそうだ。
それにしても、このあまりにもの両極端はなんなんだろうw
It's MyGOにおける、第10話のマイゴの再結成はまさに、問題の「解決」と呼んでいいような爽快感があった。そして、たとえ強引であっても、高校生らしい納得感があった。まあ、迷子でも進んでいるな、ということだ。対して、ムジカの再結成と、新曲2曲の演奏は、この曲のクオリティが高ければ高いほど、
- なに一つ「解決していない」
のに、なぜか再結成して、リングでライブの演奏をしているという、この
- グロテスク
さはなんなんだろう、とは考えさせられてしまう。なんのカタルシスも、なんの高揚感もない。
ただ、一曲目の曲間において、モーティスが睦を落ちた先から取り戻すイメージが描かれた後に、睦が復活し、モーティスの「あてふり」から、睦の演奏に変わる。
マイゴが青春の「迷子」という成長の物語だったとするなら、ムジカは「病気」だ。狂っている。狂気の世界だ。ここには、マイゴが燈へのリスペクトで繋がっていたような、そういった倫理的な関係があったのに対して、ムジカにはそれが決定的に欠けている。ムジカのメンバーは祥子を尊敬していない。というか、祥子を見ていない。そうでなくて、全員が
- AveMujicaに狂っている
それぞれが違っていても、AveMujicaなしでは生きていけない、そういった偏執的な狂気がある。
うーん。あとはこのコンセプトを残りの数話で、どこまで描ききるのか、なんだろうな...。
追記:
ここで、AveMujicaのメンバーの名前の意味だどうなっていたのかについて、あらためて、まとめておこう。
- 初華 ... ドロリス(Dolores)/Pain/痛み
- 睦 ... モーティス(Mortis)/Death/死
- 祥子 ... オブリビオニス(Oblivionis)/Obilivion/忘却
- 海鈴 ... ティモリス(Timoris)/Fear/恐怖
- にゃむ ... アモーリス(Amoris)/Love/愛
第10話まで来て、ほとんどこのラテン語の名前の「意味」の通りの振舞いをしていることが分かるだろう。初華の「痛み」は、おそらく、出生の秘密から来る、祥子への感情の不可能性なのだろう(おそらく、来週に、ここが、がっつり描かれる)。睦の「死」は、そのままだ。10話のライブ演奏まで、睦は死んでいて、モーティスが人格をのっとっていたわけで、これ、そのものだろう。祥子の「忘却」はずっと、この作品のテーマとして反復されている。彼女の父親の没落からの、自責。この感情が今も、まったくかたづいていない。海鈴の「恐怖」は、今、彼女が「信用馬鹿」になっちゃっている姿がそれだろう。にゃむの「愛」は、第10話で説明されたが、彼女の睦へのコンプレックスを彼女自身が「愛」に近い感情だと認めている。