原爆Tシャツは「反日」か?

ここのところ話題の、BTS(防弾少年団)の原爆Tシャツ問題に端を発した、ミュージックステーション出演キャンセル問題は、アニメ関係に詳しい人にとっては、アニメ「二度目の人生を異世界で」問題と非常に似た経緯を辿っていると思われるのではないだろうか。
まあ、いつものリテラ品質ではあるが、この左翼系の記事では、この問題は桜井誠などの「ネトウヨ」による「右翼街宣」の延長で考えられている:

件のTシャツには、〈PATRIOTISM OURHISTORY LIBERATION KOREA〉という文字がメインでデザインされており、長崎のきのこ雲の写真1枚と、解放を喜んでバンザイする人々の写真1枚が、それぞれ小さくプリントされている。
BTSの『Mステ』締め出しの裏!「原爆Tシャツ」はただの口実で実体はネトウヨの韓国ヘイト

戦時中、日本に植民地支配によって被害を受けた韓国人の視点に立って、原爆を「戦争を終わらせた」存在としてとらえたということなのだろう。
もちろん、だとしても、無慈悲な兵器で多くの人々が殺された悲劇を顧みず原爆を肯定するかのようなデザインは到底賛同できるものではない。
ただ、先に述べた通り、ジミンがTシャツを着ていたのは昔の話であり、さらに、問題を指摘されてからは着ているところは確認されていない。
ではなぜ、いまになってこの話が蒸し返されて炎上しているのか。
それは、ネトウヨによってBTSが「反韓」「嫌韓」を煽るための道具にされてしまっているからだ。
たとえば、元在特会会長桜井誠氏は、11月5日に更新したブログで『ミュージックステーション』のスポンサー企業に"電凸"する旨を告知。また、〈桜井は個人的にこれらの企業に11月9日(金)のテレビ朝日の番組について、「貴社は番組に出演する韓国人グループが原爆Tシャツを着て、日本への原爆投下を祝っていることを知っているのか?」「日韓基本条約破棄判決が出たばかりの現在、国民世論が日韓断交で湧き上がっている中で、こうした韓国人を出演させることを是とするのか?」「貴社は反日企業なのか?」など問い糺したいと思っています。恐らく、こうした問い合わせは、桜井だけではなく日本中の心ある皆さんが行っていることと思います。日本人であれば、誰でも自分の国が好き、そこには左右の思想は関係ないはずです〉と書いて、同様の抗議行動を煽っていた。
BTSの『Mステ』締め出しの裏!「原爆Tシャツ」はただの口実で実体はネトウヨの韓国ヘイト

おそらく、こういった「ネトウヨ」の宣伝工作的な行動はあるのだろう。また、実際に出演中止までに至る過程を考えると、こういった主張に一定の合理性があることは考えられるのだろう。
しかし、上記の引用でリテラも認めているように、このTシャツ自体の

  • 評価

をはっきりさせないことには、どうしようもないのではないか?
まず、この原爆Tシャツが、

  • どういった意図で

作られたものなのか、と、制作側が主張しているのかを確認するところから始めよう。
それについて、以下のサイトに、見やすいTシャツの画像と、そのホームページに書かれていた、作成の「意図」が示されている:

・BOMB長袖シャツの説明文
「国を奪われ、日本の植民地支配を受けた日本植民地時代という長い闇の時間を経て国を取り戻し、明るい光を取り戻した日がまさに光復節。1945年7月26日、米・英・中は「ポツダム宣言」で対日の処理方針を明示するとともに、無条件降伏を要求した。日本がこれを無視すると、米国は8月6日に広島、8月9日に長崎に原子爆弾を投下した。長崎への原爆投下から6日後の8月15日、日本は連合軍に無条件降伏を宣言し、9月2日降伏文書に署名し、正式に太平洋戦争と第二次世界大戦が終わった。そんな韓国の光復をTシャツに表現してみました。ルーズな感じで製作されたロングスリーブレスTシャツです」
【炎上】韓国アイドルBTSが着用した原爆シャツのブランド企業が「猛烈な反日意識」と判明 / 掲載されてる一文がヤバイ | バズプラスニュース Buzz+

(ちなみに、この記事では、問題の「Tシャツ」の詳細がかなり分かる画像が表示されている。これを見て、上記のリテラの引用にあるように、この画像が「小さい」と思うか、と聞かれたら、どう思うだろう? まあ、そんなには小さくない、というのは確かなんじゃないですかね。小さいから「たいしたことはない」と言うのは無理があるように私には思われるがw)
こうして見ると、この「説明文」は確かに、

  • 歴史の「順序」

の話がメインになっていることは確かなわけで、事実、この騒動を受けて、Tシャツの制作サイドは以下のような声明を発表している:

BTSの出演中止を受けて、デザイン事務所の代表が「原爆が投下され日本が無条件降伏したために韓国は解放されたという、歴史の順序を表現するものだった。反日感情と日本に対する報復などの意図はなかった」と謝罪する事態に(WoW!Koria・11月9日)。
BTSのMステ出演中止決まったのは「前日」。「反日制裁」「バカにされた」ファンたちは...

つまり、ここに日本の側が受ける感覚との違和感があるわけである。
日本側の大衆の反応を整理するなら、問題は、このTシャツで、きのこ雲と「バンザイ」を、「並べて」表示していることにあるわけであろう。現代の日本人の感覚からすれば、漫画「はだしのゲン」などの印象から、きのこ雲の

に、多くの「民間人」が焼けただれて、苦しんでいる姿が

  • 目に浮ぶように思い出される

わけである! ようするに、このTシャツは、

  • 多くの焼けただれて、苦しんでいる「民間人」を、周りで囲んで、韓国の人たちが嬉々として「バンザイ」をして、ざまーみろと嗤っている姿

に思われるわけである。ようするに、日本人の「現代の大衆の想像力」では、ここまで行くわけである!
ようするに、きのこ雲は

という「コンセンサス」が日本の文脈ではできているが、韓国では

  • すべての「悪」は、韓国独立に「優位」する

となっているから、まったく話が通じないのだ。
うーん。
これに対して、木村先生は以下のような注意を、ツイッターで行っている:

BTSの話。韓国の教科書では「最後に原爆が落とされて日本は戦争に負けました」という表記と共に、キノコ雲の写真が掲載されているのは、かなり前からなので、良くも悪くも彼らにすれば、「えっ、それあかんかったの?」という感じだろうと思う。
@kankimura 2018/11/10 06:35

因みに「原爆が落とされて日本は負けました」的な記述はワシントンでもロンドンでも見られるもので、そこでは「キノコ雲の下に誰がいたのか」はあまり考えられていない。
@kankimura 2018/11/10 06:39

ようするに韓国の「教科書」における、「歴史記述」が、まず「キノコ雲」から始まって、日本の無条件降伏が、その原因に対する「結果」として説明され、韓国独立が結果しているため、彼らにしてみれば、たんに

  • 教科書に書いてある通りに語った

というだけで

  • 怒られた

というふうに受けとられて、なにに怒っているのかが分からない、という感じなわけである。

韓国の歴史記述の1つの問題は「民族解放」が自らの独立運動ではなく、日本の太平洋戦争における敗北により実現された、という事実をどう「記述するか」。結果として、太平洋戦争に関わる記述は省略されがち。だからこそ「原爆が落とされて日本が負けた」という記述が採用される事になる。
@kankimura 2018/11/1 103:19

ようするに、韓国の「歴史」の教科書では、なぜ日本が無条件降伏を受け入れたのかの

  • 細かな経緯

が省略されがちだ、ということなのだ。日本の終戦までの経緯は複雑である。日本にとって最も重要視されていた、天皇制の維持(国体護持)を考えれば、そもそも、ここまでの戦争の継続が必要だったのかは昔から疑われていた。つまり、原爆の投下が行われる前に、降伏することは、ありえたシナリオだった(そもそも日本だって、「原爆」の開発を陰で進めていた事実があるわけで、エリートがかなりそれに、ひっぱられたのではないか、といった疑惑もある)。
対して、韓国側は、あまりこの経緯を「明示的」に書きたくないわけである。なぜなら、そうすると、韓国の「独立」の経緯に細かく言及しなければならなくなるから、あまり細かく、ここを、深掘りしたくないわけである。

BTSの話。キノコ雲の写真について、「日本人が死んだ事を喜んでいる」、と決めつけている人がいるけど、歴史上の戦争の話をする時に、いちいち勝った負けた、と一喜一憂しているのだろうか。
@kankimura 2018/11/11 14:55

木村先生のこの主張は、上記のTシャツ制作サイドのコメントが、ほとんど、「教科書」の口パクの印象であることに対応している。

1995年(原爆投下から50年目)のNHKの調査によれば、「原爆投下は正しい選択だった」と考える人の割合は、
日本 8.2%
アメリカ 62.3%
韓国 60.5%
ドイツ 4.3%
でした。
原爆に対する日米韓の意識:韓国「防弾少年団」原爆Tシャツ問題から

そもそも、こういった「事実」がある限り、まともな

  • 会話

が成立しうるのかが怪しいわけである。言うまでもなく、当時の広島にも長崎にも、多くの韓国人がいたわけだが、なぜか彼らは、そういった韓国人に「同情」や「共感」をあらわさない。そして、そうやって日本にいた韓国人を

と言って、同じ韓国人でありながら、党派的に糾弾し、差別してきた。そりゃあ、会話も成立しないわけだ、とは思うわけである。
例えば:

自由韓国党の尹永碩(ユン・ヨンソク)首席報道官は「日本の自己中心的な歴史認識と偏狭な文化相対主義に対して深い遺憾を表す。日本政府は放送の掌握を通した韓流殺しは世界的な嘲弄の対象になるだけだということを肝に銘じよ」とし「メンバーの1人が着たTシャツだけで出演を見送ったことは日本の文化的低級さを端的に示している」と論評した。正しい未来党キム・ジョンファ報道官は「日本の破廉恥には底がない。居直りも行き過ぎる」とし、民主平和党のパク・ジュヒョン首席報道官も「日本が戦犯国であることを世界にさらに広報するだけだ。日本は偏狭な過去隠しから抜け出せ」と明らかにした。
「韓日歴史教育のトリガー」になった防弾少年団の日本番組出演見送り(2)

とあるように、韓国においてはむしろ、今回のことは

になるんだからいいんだ、と言っているわけで、まったく話が通じない人たち、といった印象を受けるわけであろう。
上記までに記述してきたことをまとめるならば、Tシャツ制作サイドについては、こと、このTシャツに対しては、ある程度は

  • 反日の意図まではなかったの<かもしれない>

といった保留条件をつけることは可能なのかもしれない(まあ、当然ですが、他にもいろいろな製品を作っているわけですから、安易は判断は違うのでしょうが)。いずれにしろ、今後の彼らの対応次第、ということになるであろう。
対して、BTS(防弾少年団)については、どうだろう?
すでに、さらに追加して以下のようなネタがとりあげられているが。

防弾少年団、今度は原爆ブルゾン着用がバレる

【炎上】原爆シャツとナチスで炎上の韓国BTSがまた炎上 / 東日本大震災を揶揄か「3月11日に人が溺れる動画掲載」

確かに、こうやって次々とネタが湧いて出てくるところは、東京オリンピックのロゴ問題での、佐野研次郎や、ラノベ二度目の人生を異世界で」と似ていなくもない。私が気になっているのは、文政権にしてもそうなのだが、彼らが主張する

  • LOVE MYSELF

が、彼らをして、

  • 謝れない

人格形成をしてしまっているんじゃないのか、という疑いなのである。そもそも、物事など、是是非非でいいわけで、評価は世間が行うわけで、単純に「ファクト」を語り、そのことに卑屈になる必要もない。しかし、彼らの

  • 自己イメージ

が、他人に「マウント」をとられることを、どうしても許せないような性格に追い込んでいるのではないか。なにせ、国連で「演説(=説教)」までした人たち(=聖人)ですからね...。

遺伝子と「決定論」

物理学で「ラプラスの悪魔」という言葉がある。ある一瞬の「初期条件」さえ分かれば、この世界のそれ以降に起きる

  • すべて

を予言できる。ようするに世界は「決定」されている、というわけである。たとえば、この「初期条件」を宇宙創成の最初に置けば、この宇宙の開始から終了までが「予言」できる、というわけである。
しかし、この「仮説」は、そもそも成立しないことが知られている。それが「量子力学」である。量子力学的「実体」である、電子や光子や素粒子は、位置と運動量の両方を「測定」できないことが分かっている。つまり、どちらかを測定するという行為(そこには、光子が媒介するのだが)が、もう一つを攪乱してしまうために、その二つは同時には決定しない、というわけである。
ふーん、と思うかもしれない。
しかし、こうは言っても、最近はやりの「存在論者」は、こう考えるんじゃないか。でも「神の視点」からは、神はその両方を「知って」いるんだから、やっぱり、この世界は「決定」しているってことになるんじゃないか、って。
しかし、ね。考えてみてほしい。もしもその「視点」なるものがあるとして、それは「どういうもの」なのかが、よく分からないんだよね。ようするにこの説明って、「思弁的」であり、

なんだよね。おそらくは、カント主義者はこう思うだろう。認識「できない」ものについて、なにかを想定することには限界があるんじゃないのか、と。
さて。この世界は「決定」しているのだろうか? しかし、ここで「決定」している、と言うことに、一体なんの意味があるのだろうか? なぜなら、「それ」を認識できないことだけは、少なくとも分かっているのだから(それは、カントが物自体を認識できない、と言っていることと基本的には同値なのだろう)。
なぜ私が、この問題に、ここで、こんなにこだわっているのか? 例えば、「キリスト教」を考えてみよう。プロテスタントの例えば、カルヴァンの予定説にしても、多分に「運命論」的なわけで、もっと言えば、個人の努力を否定している、とさえ言いたくなるものがあるわけでしょう。もう世界は「決定」している。
つまり、近代科学(=ラプラスの悪魔)は、プロテスタンティズムの教義の範囲内にある、ということになる。そして、このことを各人間個人を表象する形で使われるのが

  • 生得的

という言葉だ。これは、カントであれば「アプリオリ」といった用語に対応するものだが、これが、こと生物学の文脈に近づけて語られるとき。これはほぼ

  • 遺伝子

と同義の言葉になる。これを、より物質的に表現するものとして、広義には「ゲノム」という言葉が使われ、狭義には「DNA」をそれ、と語られることも往々としてある。
私たちは

  • 産まれる前

から、自分が「何」であるかが決まっている、と言われたとき、どう思うだろうか? しかしここで「決まっている」とは、どういうことだろう? 「決まっている」のは私だけじゃない。すべての人間が「決まっている」。ようするに、人間の

  • 序列

が決まっているのだ。それだけじゃない。いつ、どんな病気になるか。これも「決まっている」。それはどこか、近年の「遺伝子診断」を思わせる:

テレビ、新聞、雑誌では遺伝子情報について頻繁にとりあげられる。遺伝子検査では、遺伝病に限らず、ある病気のかかりやすさ、犯罪や事故捜査での被害者や加害者の同定、生れた子どもと両親との関係を調べる親子鑑定などに用いられており、いくつかの遺伝子検査はすでに商品として売られている。それらはいわゆる遺伝病の検査というよりも、アルコール依存症になりやすいか、肥満になりやすいか、喫煙によってがんなどの病気にかかりやすいかなどの遺伝的素因を調べる検査である。実際に、口腔粘膜をこすりとった綿棒を郵送するだけでさまざまな遺伝子検査を請け負う会社が、日本にも登場している。
いところもてはやされた遺伝子治療は、いまのところ技術的な理由によって限定的にしか使われていないが、将来的に応用範囲が広がる可能性はある。
(拓殖あづみ「序文」)

テクノソサエティの現在 (1) 遺伝子技術の社会学

テクノソサエティの現在 (1) 遺伝子技術の社会学

さて。

  • あなたは30%の確率で、30代までに乳ガンになります

こう言われたとき、もしも乳がんになるのならば、乳がんになる前に乳房を切除してしまえば、乳がんに「なりようがない」わけで、しかし、それをするかと聞かれれば、悩むわけであろう。なぜなら、乳がんにならなければ、そんな手術は必要ないから。
この場合、ここで言う「確率」とはなんだろう? これは、おそらく、なんらかの

  • 統計

のことを言っている。そもそも遺伝学とはなんだろう? メンデルの法則に代表されるように、なんらかの「表現型」が、完全に遺伝の「法則」に対応するとき、その「対応物」としての、遺伝子の存在が

  • 想定

されるわけであるが、そもそもメンデルの時代においては、これが「なんなのか」は分かっていなかった。これは、それ以降、分子生物学の発展に伴って、一般的には

  • DNA

のことであると解釈されるようになっていった。しかし、ここで少し立ち止まって考えてみてほしいのである。
本当にDNA「が」私たちを「決定」しているのか? 言うまでもないが、精子卵子が受精卵となるとき、その受精卵は

  • 母親の体内

で行われるプロセスに関係しているわけで、多くの「もの」を受精卵は、卵子または母親の体内から継承する。それは言うまでもなく、DNAだけではない。なぜそういったものが、この受精卵が産まれて、人体が「形成」されていく段階で「決定的」な役割をしないと言えるのか?
つまり、それを決定的に分割する「方法」がないのだ。
DNAとは、人間を構成している「タンパク質」を生成する過程で使われる「情報」である。DNAのある部分が、そのようなタンパク質の生成過程を発動することを命令する。しかし、だとするならその過程で、そのDNAの「命令」を促した「何か」があるはずではないか。ではそれはなにか? 言うまでもなく、そのDNAが浮遊している細胞内の「環境」の何かである。
DNAの動作が、その細胞内の「環境」に依存するということは、環境の「変化」が人間の

  • 形成過程

に大きく影響することを意味する。ある瞬間に、どこのDNAが発動するかは、その時の細胞内環境の分布に依存する。その分布の違いによっては、それぞれの生成過程でのDNAの発動の「種類」は違っているかもしれない。
このことは、コース料理を注文する比喩で考えられるかもしれない。DNAとは、それぞれの「単品」の料理を作る「レシピ」と考えられるが、それらはコース料理「全体」を作るレシピではない。ではそれは何か、といえば

  • 自然

と名付けることしかできない。受精卵が産まれ それが自己増殖していく過程そのものは、なにか「メタ」の視点で「設計」されたものではない。これは、「自生的秩序」なのだ!
しかし、そのことは何を含意しているのだろう?
さて。「あなた」は実在するだろうか?
なにを馬鹿なことを言ってるんだ、と思うかもしれない。当たり前じゃないか。事実、こうして、ここにいるんだから、と。しかし、ある意味で、「生物分類学」や「生物系統学」は、こういった問題を真剣に考えてきた。
「あなた」が実在する、と言うとき、問題はその

  • 個物性

のことを言っているのではない。個物としての「あなた」がいることは自明なのだ。そうではなく、ここで問題にしているのは、人間を「生物種」として考えることの妥当性にある。
「あなた」は人間である。しかし、そもそも「人間」を

  • 定義

できるのか? 当たり前じゃないか。なにを言っているんだ、と思うかもしれない。事実、「実在論者」は、そもそも

  • 概念

  • 実在

する、と言っているのだ。つまり、実在論者においては、内包的な定義が「可能」であることと、「実在」はほとんど同値のことだと解釈される。実在論者にとって、それは「今」どうなのか、ではない。はるか未来において、「定義」されるのなら、その定義が今あるかないかは大きな問題ではない。それは

  • 自然科学

が今は「真実」に辿り着けていないとしても(ラプラスの悪魔にはなれなくても)、はるか未来の「千年王国」において、それを達成できるなら(その予兆、つまり、奇跡の萌芽を神の恩寵として受け取れるなら)、この二つを区別しないわけである(まあ、典型的な、デイヴィッドソンの「合理性」問題ということになるかw)。
グールドがこだわったように、恐竜の大絶滅が起きたような、隕石の地球への衝突が起きたとき、急激に地球の「環境」は変わる。すると、生物はどうなるだろう? 人間の受精卵からの「生成過程」において、上記で示唆したような、

  • コース料理

のレシピの

  • ルート

が変わってしまうわけである。普段なら、あるDNAのタンパク質の生成の後は、別のDNAによるタンパク質の生成が行われるはずだったのに、環境の変化によって、そのタンパク質を生成する種類の材料の何かが足りなくなっている。すると、その部分のDNAは

  • 発動

しないわけだが、この「コース料理」レシピは、それであきらめたりはしない。なにか、別のDNAの個所が、別の物質の存在によって、起動され、それを

  • 代替

してしまう。しかし、ここで大事なことは、これによって代替されているのかどうかの前に、

  • ルートが変わってしまっている

ということなのだ! 違うルートを辿るということは、それによって形成される、タンパク質の「構成物」が違うものになっているのですから、当然、

  • 表現型が違っている

わけです!
さて。これは「同じ」人間なのだろうか?
生物系統学において、「同じ」生物の定義とは、「セックスして子どもが産まれること(または、これを繰り返せること)」となっている。しかし、この定義には欠点がある。それは一つは言うまでもなく、セックスしないと分かんないということで、実際には使えない規準であるということと、そもそも「世代」を超えて比較ができない(過去の人とも、未来の人ともセックスができない)ことであり、ようするに本質的に、時間軸を超えた「比較」の是非を最初から認めていない、ということなのだ。
また、単細胞生物を考えてみると、そもそも性別がないし、どこまでも「分裂」をしていってDNAは同一のままだし、いや、というか、まったく違った、他の単細胞生物と、当たり前のように

  • DNAが「混ざる」

なんてことも日常的に起きているわけで、そもそもこういった「生物」は、上記の定義からは一体、どっからが「同じ」で「違う」のか、さっぱり分からない、というのはあるわけであるが。
例えば、隕石の衝突から、恐竜の絶滅の後の、さまざまな哺乳類の種類の「大爆発」のようなことがなぜ起きたのかと思われるかもしれないが、一般的には、中立説という考えで説明されるようである。ようするに、上記のコース料理のレシピの「ルート」の変化が、環境の大変動によって起きたことで、DNAの今までは発動していなかった個所が、使われるようになったため、となるのだが、大事なポイントは、そのコース変更がDNAレベルでの、その種内での「一般化」が普及していたから、

  • 一斉

に、その「変化」が起き、まるで「種」の変化のように保存される、というわけで、こういった「爆発」的な種の変化が、中立説の特徴、ということになる。
しかし、よく考えてみてほしい。もしも、こういった「変化」がそれなりに日常的に起きているとしたら、と。
この場合の「内包的=概念的」な「定義」とは何を言っているのか?
上記で引用した、遺伝子検査を考えてみましょう。これは「統計」です。しかし、こういった「変化」が起きる前と起きた後では、その統計結果は違うんじゃないんでしょうか?
こういった問題に悩み続けたのが、生物分類学だったと言えます。生物を分類することは通常の場合、ほとんど「直観」によって自明のように思われます。しかしこれは「分類」です。ここで問われているのは、その分類が「本質的」なのか、なのです。当然ですが、分類学

  • 境界値問題

に悩まされました。つまり、どっちなんだか分かんない、「微妙」な奴らが自然界には、なんやかんかといるわけです。これらを、どうしたらいいんでしょう? 一般的な人はこう考えるでしょう。そんな「例外」は、無視すればいいんじゃね、と。しかし、そうでしょうか? なぜ、こんな「奇妙」な奴がいるのか? それは、むしろ、こっちの方が

  • 本質

だ、ということを言っているのではないのでしょうか?
ここまで議論してきたことは、「生物種」の「実在=存在」の問題でした。そして、実在論者にとって、このことは、「生物種」を「内包的=概念的」に

  • 記述できる

ことと同値の問題でした。しかし、この問題に、こと、生物学者たちが異論を唱えているわけです。
しかし、実在論者の言いたいことも分からなくはないわけです。事実、ここに私たちはいて、人間という「生物」がいることを疑っていないし、事実、その「区別」に苦労していないわけですから。
そこで、この問題は、そもそも違った「アプローチ」による解決がなされるべきなのではないか、と考え始めたのが、生物系統学者です。
ようするに、ここで「生物種」の概念を云々するのではなく、その

  • 歴史性

に注目すべきなのではないか、と。ある人がいます。その人は、だれか男の人と、女の人が、いつかどこかでセックスをしたから産まれました。では、その二人はどうかといえば、まったく同じです。つまり、ここに「系統図」が生まれます。つまり、これこそがこの「分類」の

  • 本質

だと考えるわけです。ある二人の人間がいるとする。もしも人間が、ある一体の生物から分岐してきたと考えるなら、その二人は、どこかの時点で「同じ人」から分かれて、それ以降、交わることがなかった、という地点があるはずです。では、それはどこか? その「分布」の近さ遠さを、「DNA」の分布から推測する、というわけです。
しかし、である。
この考えは、かなりラディカルな主張になっている。つまり、「生物種」といった考えを

  • 放棄

しているとすら受けとれるのだから。
言うまでもなく、聖書に「神」が登場して、その神が「語りかける」のが「人間」です。いや、神は「人間」に向かって「人間」と呼びかけるし、そう呼びかけることに神は何も疑っていない。ようするに、キリスト教の「信仰」において、「人間」はその

  • 概念

において「存在しなければならない」わけです! つまり、上記の生物系統学的なアプローチは反信仰的な考えということになるでしょう。
私は、ある問題の周辺を、ずっとぐるぐると回っているのかもしれません。なぜ私がこの問題にこだわり始めたのか? それは、

  • 世界は「決定」しているのか?

に関係していました。
例えば、ニーチェを考えてみましょう。運命愛、永遠回帰。これは、インドの慣習的な思想ですが、世界が「繰り返す」ということの意味は、これから起きることを予言できる、ということです。そしてそれは、以前と「同じ」だから言えるわけです。超人もそうです。ニーチェの言う超人は、「貴族」ということですが、この概念には近代以降におけるような、「階級」的なエリート主義のような鼻につく高慢さは(ニーチェに言わせれば)ない、とされています。その意味は、産まれたときにはすでに

  • 遺伝子

として、その「人」そのものは「決定」している、という考えに関係しています。決定しているということは、そこに「順序」があるということです。だれかがだれかより「優れて」いる。ニーチェ主義者は、古代ギリシアにおける「貴族」たちは、そのことを

  • そのまま

の意味で、「喜んだ」と言うわけです。自分には「才能」がある。だれかよりも「優れて」いる。そして、そのことは自分は

  • 社会に貢献できる

ということでもあるわけで、他の村の人々よりも、より「価値」のある存在だ、ということになるわけで、「それ」が嬉しいわけです。
ニーチェはこう言います。たんに事実として、人間が他の生物に比べて「優れて」いることに対して、人間に産まれて「良かった」と思うことは、

  • 素直

な感情だ、と。そして、なぜ「キリスト教道徳」はそれを卑屈に咎めるのか、と。
しかし、である。
こういったことを主張するニーチェの思想の根底には、やはり上記の「決定論」がある。それは、キリスト教プロテスタンティズムカルヴァンの予定説が象徴するような

が、逆に、自然科学の「物理学的還元論」「物理学的決定論」を、証明「しなければならない」ものとして、強迫観念的に追い詰めていく。
ここで、もう一度、「遺伝」の「定義」のようなものを整理しておこう:

  1. 遺伝は「相関関係」であり、因果関係ではない。
  2. 遺伝における、DNAと表現型は、「多対多」であって、ものによっては「無対多」なのかもしれない。
  3. 遺伝は、DNAではない母体内のさまざまなものを受精卵が「引き継ぐ」ことによって、その発生に影響する。

ようするに、遺伝学において、メンデルの法則は、あまりにも分かりやすすぎたわけで、その「幻想」が多くのロマンティックなDNA一元論的な仮説を牽引してきた。
上記の引用における「遺伝診断」でもそうだ。まず、あるDNAの「プログラミング的な」並びと、表現型は究極的な意味で「相関関係」でしかない。そもそもそれを証明する方法がない。それが分かるとか言っているのは「神の視点」を導入してしまっている。ようするに、因果関係と呼べるような

を生物学では掴まえられないのだ。しかしそうすると、化学的にアプローチすれば、とか物理学的にアプローチすれば「科学の真実」に近づける、と喚き始める。もちろん、そういったアプローチで、ある特徴が分かることはある。しかしそれは、その生物の「全体」を理解するということでは、どうも違っているわけである。
こういった物理的化学的アプローチは、やればやるほど、ひとたび「生物」というものの全体の特徴を理解しようとするときには、なにかすり抜けていくような、あわを掴むような、本質から離れて行ってしまっているような、それじゃない感が漂ってくる。もちろん、物理的化学的アプローチは徹底的にやるべきだし、そこから分かってくることは当然ある。しかし、それは「生物」を理解するかどうかはともかくてして、あくまでも、「物理的化学的」対象の研究だと考えるべきなのだ。
というか、そもそもそうでなかったら、「生物学」などという分野は必要なく、すべて、「物理学」「化学」でいい、ということになるではないか。物理学、化学でない、なんらかの秩序や構造を考えるのだから「生物学」なのであって、そもそもこの

  • 還元主義

がうさんくさいのだ...。