新型コロナは若い人に影響がないのか?

今週の videonews.com でも、あいかわらず、宮台は新型コロナは、若者には影響がなく、年寄だけが問題なんだから、年寄の「ゾーニング」さえすれば、対策はいらない、といった旨のことを言っている。
宮台は、日本がこと、東アジア内で比べれば、死者だけを見ても、「劣等生」であることは認めるが、その「対策」は、年寄のゾーニングさえすればいい、なぜそれをしないのか、といった話に終始する。
例えば、後遺症の問題にしても、今だにその統計データがでてきていないから、「疑わしい」のだから、基本的に若者には影響はないで、「いい」と言っているわけだ。
なんのことはない。「小林よしのり」と同じだ。もっと言えば、京大の宮沢准教授の弟子になったかのように、言っていることが瓜二つだw
しかし、興味深いことに、その宮台は、同じ videonews.com の吉川肇子先生が出た番組で、宮台が

  • リスクコミュニケーションがなっていない

と「怒られて」いる場面があるのに、あいかわらず、同じ間違いを繰り返しているのはなんなのだろうか。つまり、その番組で、宮台は、あるネットで聞きかじりの新型コロナの知識を披露したわけだが、吉川先生は

  • 私には、今、宮台さんの言ったことの真偽は分かりません。リスクコミュニケーションとは、ある科学的な主張の「ネタ元」にあたる<論文>と常に対応して示しながら行うものでなければならない

と言っているわけだが、そもそも宮台は、マスコミで発言するようになってから、自らの社会学でさえ、このルールに従わない。絶対に「引用元」を示さないし、それは、一般向けの単行本でも同じ。そもそも、宮台は、若い頃の数理社会学を除けば、

  • 学会雑誌に論文を一切投稿していない

くせに、なぜかずっと大学教授でいられている。もう、そういった論文を書けるような、科学的な「発見」を、何十年もしていないのだろうw

新型コロナから回復した43人のうち、4分の1にあたる11人が、精液中に精子がない無精子症精子が少ない乏精子症だった――。
イタリアの研究チームは3月、新型コロナに感染した男性の精子の状態を調べ、論文で発表
した(Semen impairment and occurrence of SARS-CoV-2 virus in semen after recovery from COVID-19 | Human Reproduction | Oxford Academic)。チームは研究の対象者は少ないが、新型コロナが精子を減らす恐れがあると指摘。感染した場合は「生殖機能について注意深く経過観察を受けるべきだ」とした。
新型コロナ感染で精子なくなる?ウイルスの侵入か高熱か:朝日新聞デジタル

おもしろいよね。確かに今、新型コロナの後遺症と言われているものには、鬱症状に似ているものも多い。そう考えると、そもそも、この新型コロナに関わる「治療」が、本人にかなりのストレスになっている、ことによる原因と考えられなくもない。そして、いずれにしろ、そういった統計データまだそろってきていないのだろうし、たとえでてきたとしても、比較元の、普通の風邪やインフルエンザの場合の後遺症が調べられてきたわけでもないのだから、その比較もできないわけで、そこから「きっと、普通の風邪やインフルエンザと変わらないにちがいない」と言いつのる連中が最後まで断たれないのだろう。
しかし、そういったことを分かったうえで、今の対策は「予防原則」でやっているのであろうから、文句が言いたいのなら、今の政府なり、今の

  • 法律

を批判すればいいのに、なぜか、こういった連中はそれをしない。そして、なぜか、政府批判を行わず、

  • マスコミが悪い
  • 国民が悪い

と「民度」の問題だ、と言いつのる。その理屈は、政府は国民の意向に敏感だから、と。あのなあ。だったら、政府がなにをやっても、

  • 国民のせい

と言う、っていう「御用学者」と変わらねえだろ。恥かしくないのかな、インフォデミックとか言っている連中って。
お前らが批判すべきは政府であって、基本的にマスコミは政府の政策に忠実に国民に伝えようとしている。マスコミがもし間違っているなら、たんに政府が「それは違う」と言えばいいだけに過ぎない。それをやらない時点で、政府の「意図」がそこに反映されている。
ではなぜ、政府がそういった行動をするのかといえば、簡単に言えば、

  • 今の法律がそうなっているから

に尽きる。だとするなら、国民を批判するにせよ、政府を批判するにせよ、そういった連中がまずやらなければならないのは、「どう法律を変えるべきか」の、具体案を提示すること、に尽きているわけであろう。ところが、なぜかそれをやろうとしない。
そこで気付くわけである。ああ、なるほど、なぜそれを、その人はやろうとしないのか、そこに「真実」があるのだな、って。
結局、今の自民党にしても、厚労省にしても、考えていることは、

  • 市中に、一定の新型コロナ患者がいてくれた方が、国内の企業が新型コロナワクチンの「開発」を行うのに「便利」だ

ということなのだろう、と推測できるわけであろう。だから、絶対に、新宿を中心とした、感染者の「発生源」を一網打尽にしようとしないし、海外の門戸を徹底的にガードしようともしない。
ああ、そういうことなんだな、と誰でも気付くわけである。
例えば、今週の videonews.com で、西川伸一先生は今年中に、新型コロナは「コントロール」されるだろう、と予測する。その理由は、新型コロナは、通貨と同じで、

  • 流通量

を制御する、さまざまな「知識」が、いろいろ社会の側についてくるだろう、と予測するから、と。
しかし、そもそも厚労省は、省自体が、こういった全国的な問題に取り組むには、あまりにも少人数で、非力な組織だということを前提にしたといて、そもそも、厚労省に、新型コロナを一人もいないように「したい」という考えがあるのかが、上記からして、疑わしいわけであろう。さまざまに、どんなに政治家が、厚労省にPCR検査を拡大しろと

  • 命令

しても、一環して

  • ボイコット

し続けているわけで、なるほど。今、何が起きているのかを考えることは、そういう意味でも興味深いわけである...。

ゲームの「実践性」

金曜日は、ガルパン最終章の第3話を、ネットでチケットを予約して、仕事帰りの19時半ので見たし、土日は兎田ぺこらのドラクエ11sで、ベロニカに「再開」するところまで見て、少し、先週までの「もやもや」が晴れて、すっきりした気持ちでいる。
(この前のブログで、言い忘れていたけど、なぜシンエヴァが月曜に開演して、それを「リア充」と言ったのかというと、ほとんど大抵の映画館は、最終が17時台だったから、定時が多くの企業は18時だと考えて、有給でもとらないと見れないよね、という意味でそう呼んだわけで、その間にネット上では大量のネタバレ情報があふれていた状況を指して、そう呼んだわけである。なぜ17時台になったのかは、緊急事態宣言の20時を意識しているのと、シンエヴァがやたら長い、ということがあったわけだが、いずれにしろ、通常通りに、金曜や土曜に開演にすることはできたわけで、つまり、運営側は、始めからこうなることを分かって、どういう層に見てほしいかを選別したんだろう、と穿った見方をした、というわけだ。)
それにしても、ガルパンは人も死なないし、常に平和な世界だ。まさに、日常系と言っていいだろう。あれだけのジャングル戦を、あれだけの品質で、戦車戦を描いたら、そりゃあ制作に時間がかかるんだろうなあ、というくらいは想像できる。もはや、人々はストーリーなんてどうでもいい。
まあ、私はゲームといっても、スマホゲーの「とじみこ」しやからない、特殊な人なので、ドラクエ11sについては、見ていて、つくづく気になるのは、戦闘シーンでもその戦闘スキルやアイテムが、いちいち

  • 「とじみこ」のそれに似ている

ということなのだが、考えてみれば「当たり前」で、なぜなら、同じ、スクエニという会社が作っているから。
そして、このドラクエ11sにおいての、ベロニカの死についてなんだけど、これは「とじみこ」で言えば、テレビシリーズ「とじとも」において、

  • 結芽と夜見の死

という形で反復されていたわけだが、逆にスマホゲー版では、彼女たち2人は「死なない」という

  • ストーリー改変

がされている。
そして、ドラクエ11sにおいての、「もう一度ベロニカに出会う」ための

  • SF的な「意匠」

は、「とじとも」における、可奈美と姫和が、二人の母である、美奈都と篝に「もう一度出会う」という場面が、同じように

  • アフターストーリー

的に描かれる、という点に、どこか相似性を感じなくもない。
(なぜ、「とじみこ」で結芽と夜見が死ななかったのかは、単純で、彼女たち二人はそもそも、このゲームの「(プレーヤーが所有し、デッキに並べられる)メインキャラ」となっているから、そのことは同時に「プレーヤーの<財産>を毀損する」行為とも受けとられるから。)
結局、こういったテレビゲームは、

  • プレーヤーの「主体性」

を尊重しないと、プレーヤーの不満がくすぶり続ける、ストレスの多い(低評価な)結果になりかねないので、どんな「鬱展開」も、どこかしらで、その

  • 救済

が必要十分な形で用意されていない限り、なんらかの「欠陥」として理解されやすい、という面があるんだと思う。
例えば、あのベロニカが死んだ場面にしても、一見すると、あそこで主人公たち勇者は、意識を失い、気付いたら、みんなの居場所が分からない、という形で再出発している。しかし、もしもあそこで意識があったら、と考えよう。そうしたら、多くのプレーヤーは

  • ここの「オプション」で、「ベロニカが死なない」選択が、どこかに<なければならない>

と考えて、無駄な努力を繰り返し、何度も何度も、その「ルート」を探して、再プレイを行うかもしれない(これは、まさに、アニメ「シュタインズゲート」で見られた光景なのだが)。
しかし、そもそも、制作サイドは、そうプレーヤーが「考えること自体」を避けたいのである。なぜなら、

  • 「いい」ゲームとは、プレーヤーに「無駄な努力」をさせないゲームのこと

だからだ。つまり、プレーヤーが、そういった「無駄な努力」を始めた時点で、このゲームには「欠陥」があった、ということが証明されてしまう。
(ゲームとは、そもそも、プレーヤーに多くの時間の占有を求めるもので、もともと、プレーヤーのその時間と、なんらかの「トレードオフ」が成立していなければ、いずれ、このゲーム業界は、すたれて、滅びていくことになる。このプレーヤーの日常の「実践」を要求している時点で、その存在形態は最初から「限られている」と言えないこともないわけだ。)
まあ、当たり前だけど、最新版として、同じゲームが再販されても、まったく「同じ」ストーリーを繰り返していたら、いつか

  • あきられる

わけで、どこかしらに、ストーリー的にも「スパイス」を入れていかなければならないわけだけど、そうすると、なにが新しいか、っていうと

  • 鬱(うつ)展開

しか、最後は残っていない、ということになっていく。では、たとえ、この世界は、そういった救いようのない、残酷な世界だったとしても、ゲームの中だけでも(SFとしての物語の中だけでも)、なにか、希望を感じさせるものにしていきたい。そういった模索の結果として、こういった傾向の作品が選ばれていく傾向がある。そこについては、以前紹介した、思弁的実在論の、カンタン・メイヤスーによる

  • 全ての過去の「死者の復活」

といったアイデアにも繋がっていくのだろうし、もしかしたら、柄谷行人の最近の「交換形式Dの考察」に繋がるような、思弁的な意味があるのかもしれない...。

追記:
今後、そういったアイデアは、

  • ヴァーチャル・リアリティ

としての何か、という形で「実現」されていくことが予想される。そして、そういった傾向は、AIとも深く関係しながら、まず、アニメやテレビゲームなどの「サブカルチャー」のような表現形態が、先行して、時代をひっぱって行くだろう...。