5ちゃんねるの嫌儲と「批評」

5ちゃんねるが以前は、2ちゃんねると呼ばれていたことは言うまでもない。その板の中に、嫌儲と呼ばれるものがある。私もあまり詳しくないが、もともとは、ニュースプラスの住民が分かれてきた、といったことを聞いたことがある。
ただ、この板は、名前の関係で誤解されているところがある。まず、もともとこの板は、

への批判として始まった経緯がある。本当は企業の広告なのに、その自らの「意図」を隠して、まるで一般人であるかのように振る舞って、一定のイデオロギーを「宣伝」する態度が批判されたのだ。
しかし、である。考えてみると、この態度は著しく「メタ」的な態度を示すことになる。誰かの発言の裏を読むということは、そこになんらかの「証拠」を探す態度と同値となる。つまり、嫌儲の板のスレッドは、まずもって、そのタイトルからが、どこか

  • 皮肉

の効いたものが多くなることになる。つまり、嫌儲には、なんらかの

  • 批評性

がある、ということなのだ。
例えば、嫌儲といえば、最近有名になったのが、この板での「新型コロナ」についてのスレッドだっただろう。流行時の、政府や地方自治体の態度や、御用学者の態度を批判的に分析したそれは、少しユーモアをもちながら、その語っていることはハンパない深刻さをもったものであった。
もちろん、必ずしも、そういったスレッドばかりがあるわけではない。いや。どちらかというと、くだらない、下品なものが大半だと言っていい。もっと言えば、嵐といって、いわゆる、ネトウヨが板を荒す目的で、この板の住人でないことがモロ分かりな、ネトウヨスレを立てることは日常茶飯事だ。しかし、そういった「日常」がありながら、なんとなく、嫌儲は、他の板とは違った雰囲気のある場所という印象がある。
先程、私は「批評」という言葉を使ったが、日本の文脈で、批評とは「文芸批評」のこととして使われてきた。古くは、小林秀雄を始めとして、最も典型的には、日本の純文学、私小説を「批評」する人たちのことを指すものとして使われてきたわけで、その中には、柄谷行人も含まれる。
そういったものと比べて、嫌儲の「批評性」が似ているのかどうかは、よく分からないものがあるが、一つだけ言えるのは、そこに

がある、ということでは似ているわけである。というか、そもそもの批評の出発点はこれだったはずなのだ。批評とは知識じゃない。そうじゃなく、ニセモノをホンモノと騙そうとする詐欺師との

  • 戦い

だったはずなのだ。たとえ自分が「不幸」だったとしても、嘘を嘘と知っていて語ってくる、騙そうとしてくる奴らに騙されたくない、馬鹿にされたくない、というやられても、ただでは倒されない、一刺しの精神を感じさせるものがあって、そう考えると、もともと、日本の文芸批評も、東大出身かとか、哲学科で現代思想を学んできかたどうかとか、そういった

  • 学歴

をひけらかす、どうでもいいジャーゴンのゴミのことを言うのではなくて、たとえ学歴がなくたって、一つの精神が、鋭い視点で、一矢報いる、といったものだったんじゃないか、と思わなくはないわけだ(柄谷行人だって、大学は哲学科じゃないわけで、つまりは、そういった外野からの、素人だからこその、視差が気付かせるものを「批評」と呼んでいたはずなのだ)。そういう意味では、そもそも、他人を騙すことを「目的」として行動している悪魔、鬼畜が嫌儲を嫌悪し、無視するのは必然だ、と言えるかもしれない...。

完結したエウレカ

エウレカとは、2005年のテレビアニメ「交響詩篇エウレカセブン」のことで、その後、映画化がされているわけだが、2017年から、「ハイエボリューション・シリーズの三部作として、今回の映画が、この三部作の完結編となる。
私はそもそも、このエウレカセブンについて、少し批判的だった。もちろん、これを「セカイ系」とか「ゼロ年代」の作品として語ることにも批判的だったし、結局この作品が何を言いたいのか、ということに対しても、懐疑的だった。
ただ、今回の作品は、少し趣が違って、興味深かった。

エウレカ」の崩壊に伴う仮想世界の住人の登場。いわゆる "大融合" は双方の世界に大きな混乱をもたらした。そして仮想世界から現れた人々は「グリーンアース」、現世界の人々は「ブルーアース」を名乗るようになった。
(「EUREKA / 交響詩篇エウレカセブンハイエボリューション」パンフレット)

この世界では、ちょうど、今の私たちの何十年後といった形で、かなり今の世界に近い舞台となっている。ここには、レントンはいない。ただただ、ひたすら、

が、エウレカの能力を失くしながら、生きている世界として描かれている。孤独な彼女は、アイリス・マッケンジーという、同じ「EUREKA」の能力をもった少女と出会い、彼女と、地球上で逃避行を行うことになる。
私が興味深かったのは、大人となったエウレカが、この、レントンのいない世界で、普通に生きている、という世界設定だった。孤独な彼女は、ただ、アイリスと出会う。
能力を失ったエウレカ
その生活は、ある意味で、普通な私たちと同じ人間だ、と言うこともできるだろう。そして、このレントンのいない世界で、彼女は普通に生きている。そんな彼女と、アイリスとの逃避行は、言ってみれば、普通の地球人のハイウッド映画にあるような、「人間の姿」だった。
つまり、なぜ、この完結編で、こういった姿を描かなければならなかったのか、というのを考えさせられたわけである。そして、それと同時に、結局のところ、それが「何がこのアニメの描こうとしたものなのか」に対応して示されたものだった、と言うこともできると思う...。