後藤道夫「「必要」判定排除の危険」

最近出版された『ベーシックインカムは究極の社会保障か』という本は、萱野さんと東さんが、それぞれ、反対、賛成に分かれて、たがいを批判しているように読めるので、興味深く思われる人もいるのだろう。
以降では、この問題についての、自分の視点を検討してみたい。
「自由」という言葉は、「平等」と同様に、近代を特徴づける、「基本権」の最も重要なキーワードの一つであると言えるだろう。
しかし、往々にして、その「自由」とは、一体、なんのことなのかが分からない。
もちろん、人々がこの「自由」という言葉を聞いて、なんらかのイメージを浮べない、ということを言っているわけではない。そうではなくて、なんらかの場面に直面したときに、

  • それは「自由」なのか?

を、うまく「判断」「評価」できないのだ。
周知のように、カントの実践理性批判とは、完全な、

  • 自由一元論

であった。カントは、自由かどうかしか興味をもっていない。つまり、自由でさえあれば、カントの唱える人倫の世界は実現する。
私の関心も、ある意味、ここに尽きている。どのように、人々を自由な存在として扱えるか。私にとって、それ以外のことは、どうでもいい。
こういった視点で考えたとき、萱野さんの主張は、私にとって分かりやすいし、許容範囲に受け取れる。彼が、国家の重要性を主張するとき、彼の論点は、その国家の「機能」が、市場で代替されえない、というところに論点がある。
つまり、彼の主張にとって、なぜ国家を廃棄できないかは、現代社会が「資本主義社会」だから、ととらえることができる。つまり、資本主義社会の廃絶なしに、国家の揚棄は難しい、ということである。
ということで言うなら、問題は、その機能が国家に「囲い込まれている」、今の条件を考えていくことになるわけで、基本的に萱野さんは、左翼の延長で考えていると言える。
対して、東さんの主張は、言わば、保守と左の「いいとこどり」をしようとした、

  • (おぞましいまでの)キメラ

だと私は考えている。

僕はベーシックインカム(以下、BI)を支持しているわけですが、それはBIが労働と生存、いいかえれば承認と生存を切り離せるからです。労働と承認は非常に密接な関係があります。よく、承認されないと人間は死んでしまう、それが本当の「生きづらさ」なんだって議論がありますよね。でも、そこまで国家でケアしようとするのは、嫌な言い方をすれば大変コストが高いわけですし、原理的にも無理です。
国家が一人ひとりの生き方に承認を与えるとします。でも、それは日本という国に忠誠を誓えという運動に限りなく近くなります。いわゆる「公」に忠誠を誓い、承認を与えられる臣民たちの集まりですね。だから僕は、国家は生存のみを保障し、承認は保障すべきではないと考えます。リチャード・ローティが「リベラルアイロニスト」と論じていますが、ポストモダンのリベラル社会においてはアイロニーしか倫理として使えません。その場合の「アイロニー」とは、私的な原理と公的な原理を分けるということです。つまり、公的な保障と私的な「よき生」を分ける社会にしていかざるをえないわけです。
それはなぜかというと、僕たちの社会が非常に多元価値的になって、多様な生き方を認めるようになってしまったからです。すべての人間の承認を、社会が一元的に提供することはできなくなりました。だから、個人にはそれぞれ、その属するコミュニティで承認してもらって、それぞれの信じるよき生き方を送ってもらう、という方法しかありません。
東浩紀「情報公開型のベーシック・インカムで誰もがチェックできる生存保障を」)

リチャード・ローティを自らの主張と言っているように、東さんの主張する、現代のシステム社会は、

  • 公的
  • 私的

の、二元論を所与の前提としたために、

  • 「公的」な国家の役割

を明示しなければならなくなっているところが、特徴だ。

では、生存と承認を切り離したうえで、多様な生をBIでどうやって保障するのか。多様な生に応じて単に一律に現金給付して、あとはそれでよろしく、みたいなかたちではダメでしょう。それぞれの人間に応じて、それぞれの人間の生存を保障するためには、大量の個人の生活情報が公開され、しかもそれをみんながチェックできる必要があります。BIも税金からでているわけだから、その税金を何に使っているのか、説明責任が発生します。
東浩紀「情報公開型のベーシック・インカムで誰もがチェックできる生存保障を」)

  • 国家の役割 ... 国民の「身体」「情報」を「管理」する。つまり、死なせない。
  • 個人の役割 ...「精神」だけは、国家に介入させない。しかし、その他は、自分の自由にならない。

個人は、国家によって、「生きさせられる」。なぜなら、国家にとって、警察や軍事行動を遂行しなければならないから、必然的に、人間の「身体」を必要とするからである。つまり、国家は必ず、国民に、国家の警察・軍事行為に「従う」ことを要求し、国民はそれに答えなければならない「義務」があるとされます(つまり、それに従わないと、生存を担保されない)。
よって、個人に、この国家の警察・軍事行為の要請を拒否する「資格」がないことが、証明されます。
では、なにもかもが、個人は国家に許されないのか。
唯一の例外があります。それが、「精神」です。
個人は、なにを考えてもいい。なにを発言してもいい。どんな信念をもってもいい。つまり、「考える」ことについては、

  • 全て

を許されます。それだけではなく、「なにを言ってもいい」わけです。言うことは、考えることですから、どんなことをツイッターでつぶやいても、認められなければなりません。
では、個人情報はどうなるでしょう。国家は個人が死なないように管理するのですから、当然、個人情報は「パブリック」にされなければならない、となります。ツイッターでつぶやくことは許されますが、それは、オープンでなければなりません。その人は、どんなことを考えてもいいのですが、ひとたび発言したら、それは「パブリック」な場所に、置かれなければならないわけです。
この、リチャード・ローティ流の、二元論を、ここでは、

  • 「身体・情報」奴隷社会

と呼びましょう。
こういった東さんの独特の二元論は、上記の引用が分かりやすいように、つまりは、トレードオフの関係になっています。国家が個人を死なせないで「やる」かわりに、個人は国家に個人情報からなにから、あらゆる「物」を「上納」します。それは、

  • わざわざお前を死なせないでおいてやってるんだから、それくらいは、やれ

という関係になっています。
上記のアイデアは、もっと広げられるでしょう。ある貧乏な個人が死にそうだとしたとき、

  • もっと売れるものがあるだろ(コラッ

と怒られます。つまり、まず、自分の身体が「売れます」。臓器を売れば、お金が入ってくるのだから、お金を稼げない、なんらかの理由のある人は、まっさきに、国家によって、臓器を売らされます。だって、

  • 臓器を売っても、まだ、生きられるのだから

国家は、それを、ためらわないわけです(国家が興味があるのは、個人の生存だけです)。
私はこのシステムを「奴隷」と言いました。それは、どういう意味ででしょうか。
興味深いのは、このシステムが、確信犯的に、安冨さんの言う

  • 東大話法

になっていることです。人々は、どんなことを考えても、言ってもいいのですが、国家に「身体」を贈与しなければならない。つまり、国家の命令には、従わなければならない。どんなに、頭の中では、悪い、やりたくない、ことだと思っていても、それに反して、行動しなければならない。国家の命令には、従順に行動しなくてはならない。
原発官僚たちは、どんなに原発が危険だと思っていても、国家の命令に従って、原発を動かしてきました。しかしそれは、ローティ=東流の、二元論からは、当然の行動であり、むしろ「そうしなければならない」となるわけです。
もちろん、東さんも、その問題には気付いています。そこで、国家の「意志」が変更される「手続き」を考えたのが、一般意志2.0 でした。ここでは、人々が、「原発をやめてほしい」と、つぶやくことによって、それを聞いた、政治家や官僚に、そのことについて考える「プレッシャー」となる、ということをベースにしています。
しかし、政治家も官僚も、それが自らの「利益」に、リンクしているわけですから、簡単には、政策転換になりませんね。
しかし、だからといって、人々の「デモ」を肯定できません。なぜなら、デモは明確な自らの身体を、国家の意志に反して、動かす行為だからです。
東さんの二元論では、国民は、国家の意志を、ツイッターでの「つぶやき」で変える手段しか残されていません。それ以外は、「暴力」であって、暴力は唯一、国家だけが許されている、と考えるからです。)
(安冨さんには、ぜひとも、東さんの、東大話法を解析してほしいんですけど、安冨さんは自らが価値のあると判断した本しか、読まない人ですからね...。)

  • 個人は警察官・軍人として国家に身体(労働)を提供する:個人 --> 国家
  • 国家は個人を死なないように生存保障をする:国家 --> 個人
  • 個人はあらゆる個人情報を国家に提供する:個人 --> 国家
  • 国家は個人の心の中に干渉しないよう自制する:国家 --> 個人

どうして、こういった考えになってしまったのでしょうか。
私は、その問題を、上記の引用にあるように、「承認」の考え方にあるのではないか、と考えています。一般に、承認とは「契約」に対応しているもの、と考えられます。では、なぜ「労働」と紐付けられるのか。それは、長期的な契約になると、その「評価」が、労働活動の中で行われる、と考えられるからではないでしょうか。
なぜ、国家は個人の承認をしてはならない、と言うのか。
それは、「必要」に関係しています。承認とは、「必要」にともなって発生します。しかし、国家は、その必要を属人的に処理してはならない、と考えるわけです。
なぜなら、そのためには、公務員という、膨大な人件費を必須とするからです。
東さんの社会システム論は、リバタリアニズムのベースの上に、最低限の福祉を要請したものになっています。しかし、最小国家と、福祉は、本来矛盾するはずです。この二つが両立するはずがありません。そこで、

  • 「効率」国家

というアイデアが、必然的に要請されます。つまり、社会は「効率」的でなければならない、と。
国家を安上がりに運営するには、国家が「効率」的にならなければなりません。つまり、あらゆる国家運営が、言わば、

  • コンピュータでもできるような「自動判定」

を許さなければならない、という所に、行きつくわけです(つまり、「システム」への「絶対的」信頼です)。
そこで、「必然的」に、ベーシック・インカムになります。この「福祉」は、一切の、属人的な「必要」の判定を「させない」ところが特徴となっています。そういう判断を、役人にやらせないわけです。
この前、「いじめ」について書きました。学校の先生が、「この生徒の行動は、いじめだ」「いじめじゃない」と判断を行うと、その先生に

  • 責任

が発生します。いじめていると言われた子供の親は、「うちの子がそんなことをするわけがない」と、先生に抗議に来るかもしれません。そうすれば、多くの時間が費され、役人の残業時間か増え、お金がいくらあっても足りません。
よって、先生は、「そういう判断をしてはならない」となります。先生は生徒を、判断しません。そういった判断は、生徒同士で、勝手に、警察に駆け込めばいい、となります。教師は、どんなに目の前で、暴力が繰り広げられても、見て見ぬふりです。
さて、少し論点を変えてみましょう。
資本主義社会の特徴は、お金で「必要」なものを得ながら、生きる「戦略」をたてていく、ところにある。このことから言えることは、

  • お金がない人は生きる「戦略」をたてるリソースを著しく欠いている可能性がある

ということである。もう一つの特徴は、

  • その「戦略」を間違うと、お金がなくなり、上記の問題に落ち込む

である。
論点を整理していこう。
資本主義社会において、生きることに、お金が必要なことは自明であろう。では、生きる「戦略」をたてるのに、お金が必要なのか。資本主義社会とは、

  • あらゆる「必要」をお金で「買う」社会

のことなのであるから、

  • 当然

である。親子の絆だろうが愛だろうが友情だろうが仁義だろうが、あらゆる「必要」はお金と「交換可能」と考える思想なのだから、当然である。なにかの「必要」が発生したら、お金で「買う」のである。これが、

  • 原則

である。原則をまげては、原則にならない。だから、当然、生きる「戦略」は、買うのだ(そんなものを買うとかおかしい、と言う人は、「社会主義者」だ)。
ところが困ったことに、貧乏な人は、「お金を持っていない人」のことであった。お金がないのだから、なにも買えない、から困っていると言っているのだった。
では、ここで、この問題をどのように考えるべきなのか、考えてみよう。
お金のない人は生きる「戦略」がたてられない可能性がある。では、そういう人をどうすればいいのか。

  • 死ぬにまかせる。
  • その社会が「それでは困る」と考えて、その社会の全員でお金を出しあって、「そういう人」が「戦略」をたてるサービスを「無料」で提供することで、その「機能」を実現する。
  • そもそもその社会の全員が、お金を出しあって、絶対に無一文になる人を作らない、ようにする。つまり、無一文になりそうな人がいたら、無限にお金を提供し、なんとしても、無一文の人が、その社会に存在しないようにする。

この三つを仮に命名するとすれば、それぞれ

となるだろうか。では、問題の後半の二つになるのだが、最後のには、一つの欠点がある。
お金の特徴は、その「汎用」性にある。つまり、それは「なんにでも使える」のだ。そもそも、貧乏な人はただでさえお金がない。というか、マイナスの可能性もある。だから、どんなに湯水のようにお金を注がれても、その「戦略」作成のために、そのお金を使うとは限らない。人が生きるということは、

  • 直近なにが急用か

を生きているにすぎないのであって、手元にお金があったら、「いくらでも選択肢がある」中から選ぶことを意味する。
(この問題を回避するために、一般に言われるのが、

  • クーポン主義

であろう。しかし、クーポンだからといって、他人にそれを売れないわけではない。もし、それが他人に売れないクーポンだとするなら、そのクーポンは、その特定の人に、固定されているのだから、著しく、公共サービス主義に近くなる。)
そこで、真ん中の案となる。
この案は、つまりは、今の国家がやっていることである。今の国家の公共機関、例えば、市役所は、門前で、市民が立ち入りを断るということを行っていない。どんな人であれ、とりあえず、窓口で最初の一言くらいは聞いてくれる。
そこで、さまざまな「主張」に応じて、人々を担当の窓口へ誘導する。もちろん、そこでの主張が、まったく意味不明であれば、追い出されるのだろうが、いずれにしろ、話はそこで交わされる。
その人は、そこで、さまざまな言葉のキーワードを聞き、なんらかの今後、生きていくうえでの、きっかけとなるような「情報」の切れ端を、つかみとる。
その人が、仕事がなくて困っているなら、職業斡旋を行っている場所を紹介してくれるかもしれない。今日の食事にさえ困っているなら、そういった施しを行っている宗教施設を紹介してくれるかもしれない。今日寝る場所を確保できないなら、公営の施設を紹介してくれるかもしれない。そもそも、今月をしのぐお金もなくなってきているなら、生活保護という話にもなるかもしれない。そこで、その人から今の所得を確認できる情報を提供させる。
(個人が国家にあらゆるものを、無償で譲渡することを、トレードオフの名目で正当化する、東さんの主張には、賛成できない。個人は「絶対」にそんなことをしてはならない。生活保護において、なぜ、市民が自らの生活実態を国家に提供するのかは、あくまでも、その判断に
必要
だからにすぎない。つまり、必要十分な範囲。もし、そういった判断が必要でないなら、絶対に「無料(ただ)」で国家に個人情報を譲渡してはならない。これこそ、パーミッション・マーケテングであり、私の主張する「必要社会」の要諦だ。
自由とは、「他者」が

  • 不透過

であることによって、成立する。他人が分からないと思っているから、私は他人を「自由」な存在と扱っていることになるのだ。)

「無条件」とは、それぞれの「必要」を判定して社会保障給付を行う方法をとらない、ということである。実は、こうした主張は、福祉国家の限界というとらえ方に密接に結びついたもので、BI論者のみではなく、新自由主義者から宮本太郎など福祉国家右派とでもよべるであろう論者にも、ニュアンスの差はあれ共通したものである。

では、これがもし、BIだったら、と考えてみましょう。まず、その人が、その月の分のBIに対応するお金を手にしたところから、考えます。そこで、その人は、そのお金を何に使うか。
生の「戦略」に使うだろうか。
先ほども言ったように、こういった困っている人にとって、目の前のお金は、まず、直近で今生きるのに、必要なものに優先的に回されていくことが考えられる。
まずは、食料、そして、住宅費。
そうすると、あとは「いくら」残るだろうか?
その幾らか残ったお金で、BIが導入される前に存在した、生活保護窓口相談「的なもの」のサービスを、お金を出して、「買おう」とするだろうか。
大事なことは、そういった個人を、どのようにして、自らの力で、生の「戦略」のきっかけをつかませることができるか、であった。
このように考えたとき、こういった公的サービスが、どのようなことを目指されて、存在してきたのかの、「存在論的位相」が浮かび上がってくる。

大事なことは、所得保障制度のすべてにおいて、重層的なチェックもふくめ、何らかの「必要」の判定がなされているということである。年齢による判定、資力調査による判定、障がいの有無、賃金収入の途絶、片親による子育の不利、等々。
生活保護制度だけではなく、それぞれの所得保障制度の「必要」判定のあり方、資力調査、保険資格、労働テストの有無とその課し方、所得保障額の水準やその決め方などをめぐって、多くの問題が山積していることは言うまでもない。見たように、日本の社会保険による所得保障はきわめて脆弱で「穴だらけ」なのである。

私は、こういった「値切り」の交渉は非常に重要だと考えている。なぜなら、そういう過程を経ることによって、市民は、生の「戦略」をつかみとれる、と考えるからだ。
つまりは、

  • 社会性

である。
生活保護の窓口は、この資本主義社会の、国民にとっての最後の、防波堤です。これは、もっとも底辺のギリギリを防ぐために、用意されているのであって、そういった、最底辺の部分、たとえば、病院のようなところには、多くの場合、この日本では、「資本主義」の原理は適用されていません。

現行の医療制度では、クライアントの訴えと症状を現場担当者(医者)が判断して必要な医療給付サービスの質と量を決めている。この場合、多くを支払った者が多くの医療サービスを受ける、という商品売買の論理は通用せず、医師が必要と判断した医療サービスが現物支給されるのである。必要判定が、あらかじめの上限設定なしに、現場担当者によって行われる点が重要である。
なお、医師法では、正当な理由がない場合の診療拒否は認められていない。これも医療サービスが商品としてあつかわれていないことの現れである。

私は、むしろ、こういった制度は非常に重要だと考えます。それは、萱野さんが言うように、国家が、国民を剥き出しの「資本主義」から守る、最後の防波堤の役割を担っていることは、「資本主義」の廃棄なしに、国家の廃棄もありえないんじゃないか、というセットにされた感覚があるからだと思うからです。
むしろ、こういったギリギリの底辺においては、手厚い「国家による介入」がなければ、資本主義バーバリアニズムによって、日本人は滅びるのではないでしょうか。
たとえば、急激な不況が襲ってきたとき、国家は、さまざまに、補助金によって、業界を救ってきました。その考えは、こういった現象が、「急性」の「症状」だという考えにあります。本来、健康な業界が、たまたま、世界的な不況によって、完全に滅びてもいいのか、というわけです。
もちろん、そういった場合のために、民間は大きな保険に入るべき、という考えもあるでしょう。しかし、いずれにしろ、そういった業界を「一次的にであれ」保護するかどうかは、
価値
をどう考えるか、つまり「属人的」な判断が大きいわけです。
私はむしろ、官僚はもっと自信をもって、国民に生活保護を支給すべきだと思う。もっと、官僚はその責任を引き受けるべきだ。他人になんと言われようが、自分が自信をもって、

  • その

人には「必要」なんだ、と言うべきだ。
もちろん、国民にだまされて、その生活保護は間違っていた、ということになるかもしれない。しかし、だったら、それに気付いて、改めればいい。つまり、そういう
権限
があるわけだ。間違える権限だってある。
学校の先生は、もっと、生徒に親身になって、相談すればいい。そうすることによって、責任を問われたっていいじゃないか。そういう
権限
があるのだから。
私はむしろ、人々は、もっと「属人的」にならなければならない、と思う。もっと、個々具体的な、その人それぞれに、対応して、考えるべきだ。他人の「必要」に、自信をもって「評価」「判断」すべきだ。
不可能だろうがなんだろうが、そうすることで、人は始めて、多くのことに「気付き」をもてるのではないか。
ルーマンのシステム論は、最後は信頼という、脆弱な基盤に人間社会は依存しなければいけないという結論になる。ということは、システムへの過剰な依存、過剰な受動性は、本来の目的通りにシステムが廻らなくなったとき、大きく道を誤る可能性があると言っているわけである。
コミットメントを恐れるな。
たんに生存にしがみつくことは、敗北主義ではないのか。人間には、「尊厳」がある。それは、たんに生きのびること以上に、大切なことがある、ということではないのか。たんに生き延びられればいいのか。人間には、たんに生き延びること以上に、守るべき「誇り」があるんじゃないのか...。

ベーシックインカムは究極の社会保障か: 「競争」と「平等」のセーフティネット

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