日下渉『反市民の政治学』

一方において、民主化であり市民社会の「ルール」の重要性を強調しておきながら、他方において、貧富の格差が拡大することを資本主義の宿命として「しょうがない」とあきらめることは、

  • 矛盾

していないだろうか?
私はこれを市民社会の「道徳化」として考えてみたい。
例えば、こんな例を考えてみよう。ある貧しいながら田舎で生活をしていた家族があったとする。しかし、彼らには、まとまった土地がなかったので農業を続けることは難しいと考えて、一念発起して、都会に出てきて、生活の場を都会に移そうとした、としよう。
ところが、である。都会は物価が高い。家を借りるにも、彼らの払えるような金額ではない。しかし、言うまでもない。

  • 彼らも生きていかなければならない。

じゃあ、どうしたらいいのか?
言うまでもない。「不法占拠」しか、ありえない。これが「スラム」である。もちろん、そのままにしていれば、警察に見つかり、いずれは追い出されるであろう。そこで、

  • わいろ

である。地域の取締担当官に、はした金を握らせて、「お目こぼし」を頼む、というわけである。そして、その土地にさっさと、トタン屋根の小さな家を建ててしまう。

フィリピンでは、人口増加と農村経済の病弊を背景に、一九六〇年代に、農村から都市へ本格的な人口移動が起きた。しかし、マニラでは工業が発展しなかったため、労働力が過剰に供給される「工業化なき都市化」や、人口の許容量を超えた「過剰都市化」が生じた(中西・新津 二〇〇一b)。そして、農村から流れ込んだ人びとは、地下の高いマニラで土地を流れ込んだ人びとは、地価の高いマニラで土地を正式に所有したり賃貸することができず、公有地や私有地を不法に占拠してスラム街を形成していったのである。国家住宅庁のデータによれば、マニラ首都圏における不法占拠世帯は、一九九五年に四三万二四五〇、二〇〇二年に七二万六九〇八世帯である。
都市貧困層は、フォーマル・セクターへの就業が困難なため、露天商、家事労働者、輪タクジープの運転手、ガードマンといったインフォーマル・セクターを貴重な収入源としてきた。インフォーマル・セクター労働者は、一九九五年の国際労働機関と国家統計局の調査によれば、マニラ首都圏の総雇用(三一一万三〇〇〇人)の一七・三%(五三万九〇〇〇人)であった。彼らは安価な労働力として、富裕・中間層の生活と労働を支え、都市経済に重要な貢献をする一方で、その就業は低賃金かつ不安定である。また近年では、雇用の柔軟化に伴う短期契約労働の増加を背景に、企業に雇われる清掃員、警備員、運転手、店舗従業員など、不安定な下部フォーマル・セクターで生計を立てる者も増えている。
都市貧困層は、国家規制を避けて生活基盤を築き、国家の都市計画を侵食している。まず彼らは、数家族単位で比較的目の届かない公有地や私有地を占拠して、簡素な住居を建設する。早急に立ち退きを迫られる危険がないことが分かると、より多くの人びとが集まってスラム街を拡大させる。彼らは占拠した地域に名をつけ、末端の行政単位バランガイ(barangay)や、その一部を構成するシティオ(sitio)として地方政府に登録し、選挙権や水・電気といった基本サービスを獲得する。時には「シンジケート」に非公式な支払いをし、不法占拠地の一部を「購入」したり「賃貸」することで住民の安全を確保する。ま露天商も、警察や役人に「みかじめ料」を支払うことで車道や歩道を生計の基盤にする。こうして都市貧困層は、国家の法的枠組みとは異なる非公式な秩序に基づく生活空間を形成し、国家が創出を試みた都市空間を侵食してきたのである。

なぜ、この方法が「合理的」なのか。まず、そういった低賃金の労働をになってくれる賃金労働者は、むしろ、都会であるほど、その

  • 需要

がある、ということなのである。都会はただでさえ、あらゆる物価が高い。そのため、多くの中流市民は、少しでも、あらゆるものにかかる経費を抑えたい。こういった安くてもやってくれる労働が使えるなら、なるべくほしいのだ。ところが、都会には、低賃金労働者が暮らせるような住宅がない。
ここに矛盾が発生する。
都会の中流市民は、一方において、低賃金層のスラム住民による、「労働」によるサービスの「恩恵」を受けていながら、他方において、彼らは

  • 不法占拠

しているという理由で、「ルールを守らない悪人」というレッテルを、スラム住民にはって、糾弾する。自分は生まれてから、なに不自由なく小市民として、親の金に依存して、学校に行かせてもらって、最終学歴まで終了させてもらえた「から」、今の社会的なステータスがあるだけであることを棚に上げて、子供の頃、家庭の金銭事情が苦しく、自然と学校から離れてドロップアウトしていった人を「不良」と、

  • 道徳的

に嘲笑し、「ルールを守らない悪人」扱いとは、たいした「善人」だよ!
ここでの重要なポイントは、貧しい人たちというものの「定義」である。

これが、彼らである。彼らは貧しい。だから、市民社会が強制してくるルール通りに生きていたら、さらに貧しくなって死んでしまうのだ。だから、彼らは「あえて」社会のルールを破る。
これを逆に考えてみよう。では、市民とは誰か?

  • 市民社会のルールを守ることが「可能」な人たち

と言えるだろう。彼らは彼らの生活資金の「余裕」から、そもそも、市民社会のルールなど「余裕」で守れるのだ。彼らは社会のルールを破る必要なく、大抵の必要なものはそのルールの中で手に入れられる。彼らは最初の出発点において善人に「なることが可能なまでに」恵まれた生活資金を持って生まれてきた人たち、と定義できるであろう。
こうして、社会は三つの階層に分けられる。

  • 社会のルールを決める人たち(超特権富裕層)
  • 社会のルールを守れる人たち(小市民層)
  • 社会のルールを守れない人たち(大衆層)

最初の富裕層については言うまでもないであろう。郊外にプール付きの別荘でも作って、家の周りにガードマンでも置くくらいになると、政権中枢に、いくらでも圧力をかけて、自分がより儲かる仕組みに社会制度をさせることなど、造作もないだろう。
しかし、常識的に考えると、このことはどこか変な気がしてくるかもしれない。なぜなら、今の社会は民主主義、つまり、「多数決」なのだ。こういった、特権階級ばかりが得をする制度が、なぜ、いつまでも変わらないのか、と。
ここで、真ん中の階層は、「不満」をもち始める。この社会は、なにかがおかしい。「間違っている」と。
真ん中の「善良」市民とは、親がサラリーマンなど、定期的な収入が保障されていて、比較的、老後までの生活が計算できるような、「比較的裕福」な市民たち、と言えるだろう。彼らは別に、自分が、特権的にエリートだとも、思っているわけではない。しかし、彼らは社会が「不満」である。自分はルールを守っているのに、それを守らないで、この社会をダメにしている人たちがいるから、この国はよくならない、と。いつもいつも、文句を言っている。彼らは不満なのだ、なんで、自分はルールを守っているのに、それを守らないで、うまい汁を吸っている人がいるのだ、と。
なぜ民主主義社会において、特権階級が、いつまでの、政権の中枢を握れるのか。それは、特権階級は、貧困層のために、いつも

  • 飴玉

をちらつかせるからだ。つまり、特権階級は、善良市民階級に政権を奪われないために、貧困階級に自分たちが「悪」を犯してでも、お前たちを守ってやる、と宣言するからなのである。

  • 超特権富裕層 ... 悪
  • 小市民層 ... 善
  • 大衆層 ... 悪

つまり、選挙において、貧困層は、自分から最も遠いはずの、富裕層に「投票」する。それは、彼らが投票するかわりに、貧困層の「悪」を見逃がしてくれるという「バーター取引」が成立するから、である。

  • 善(小市民層) <--> 悪(超特権富裕層 & 大衆層)

ようするに、社会のルールを守って、「善」を実践している市民階級は、今の政治の腐敗が許せなくて許せなくてしょうがない。少しでも早く、こういった悪人どもを政治から追い出して、自分が考える「善」の政治をやりたくてしょうがない。
しかし、そういった悪人を政治に迎えているのは、貧困層である。そして彼らは、土地を不法占拠して生きているような、社会のルールを守らない「悪人」である。市民階級は、むしろ、この貧困層こそ「悪」であり、彼らの

  • 排除

を望むわけである。市民階級は不法占拠をしている貧困層を早く自分たちの見えないところに排除しろ、と口うるさく、政府に要求する。彼らは、こういった社会のルールを守らない、「怠けている」連中を、街から

  • 駆逐

してくれれば、街は「美しい」ブランドになると、本気で信じている。一秒でも早く、こういった連中を牢屋にぶちこんでくれ、と願っている、というわけである。
小市民がなぜ、高学歴大学に入り卒業できたのか。それを、彼ら自身は、自分たちが「ルール」を守って、勉強してきたから、と考える。つまり彼らにとっては学校の勉強で良い成績をとることも、社会の「守らなければならないルール」と受け取っているわけだ。学校からお願いをされた勉強をやって、「良い子」にしていたから、自分はそういった「プレゼント」をされたのであって、言ってしまえば、勉強をやらない低階層の家の子は、勉強をやらないという時点で、「社会のルールを守っていない」欠陥品だと考えている、ということである。つまり、

  • 自業自得の犯罪者

なんだから、社会から弾き出されて当たり前というわけである。

市民圏でこのような道徳的言説が流通するようになったのは、民主化以降のことである。戒厳令以前の中間層は、概ね恩顧主義に埋没していたため、既存の政治を強く批判することはなかった(木村二〇〇二:一八七)。しかし、民主化の立役者になったという自負心から、中間層は国家やエリート、貧困層よりも道徳的に優位であり、自分たちこそが道徳、社会、政治を改革していく運動の主導者であるという意識を強めた(Pinches 2010: 289-291)。中間層が現実の政治に深い反感を覚える背景には、強い納税者意識がある。フォーマル・セクターで働く中間層は、給与から所得税を引かれている。しかし、腐敗し政治のもとでは、自分たちが納めた税金はエリートの懐に入るか、票の獲得を目的とした貧困層へのばら撒きに使われるだけだと彼らは強い不満を抱いている。
中間層の多くは、エリートに支配された非効率かつ腐敗した国家を改革していくものとして、資本主義の道徳を支持する。民主化以降、自由主義的な経済改革が推し進めるなか、市民圏では民主化、自由化、均等機会といった言葉が頻繁に語られるようになった。ピンチェスが指摘するように、ビジネス雑誌では、イニシアティブ、ヴィジョン、勤勉さ、機知、忍耐力、創造性といった価値がもてはやされ、華人系新興起業家の成功譚が特集記事になり、彼らが国の発展を担っていくと期待されている。市民圏では、こうした市場競争を理想化する新自由主義のもとで、自らを規律化し、才覚を活かして勤勉に働き市場で富を生み出す者を「善」、縁故と腐敗によって既得権益にしがみつくエリートと、富を生み出さず、ばら撒きに依存する貧困層を「悪」と定義する道徳が広まった。
もっとも市民圏でも、資本主義の道徳が一様に称揚されているのではなく、貧者の生計や尊厳といった価値も完全に否定されているわけではない。たとえば、極端に不平等な土地所有は共産主義の温床になるとの危惧に基づいて、市民圏でも農地改革は支持される。また、人道的な理由から、不法占拠者の強制退去には代替地を提供すべきだという意見も少なくない。要するに市民圏では、貧者のあからさまな排除を肯定する新自由主義の道徳から、資本主義と再分配の両立を主張する道徳までが一定の幅で存在しており、互いに争ってきたのである。
他方、大衆圏で一般に擁護される正しい政治とは、貧富を問わない公正な眼差しと、困窮している者への優しさと気遣いに基づいた政治である。逆に、彼らが批判するのは、まっとうに生きている人びとの困窮に対して冷淡かつ無関心であり、弱者を不当に扱う政治である(Schaffer 2008: 136-138)。私の調査によれば、大衆圏において「民主主義」(demokrasya)は、主に「自由」(kalayaan)や「平等」(pantaypantay)といった価値と結び付けられており、金持ちばかりが恩恵を被る「民主主義の不平等」が問題視される。これは、貧者の生活と尊厳を擁護する大衆圏の道徳を反映した政治意識である。
スコットによれば、東南アジア農村社会における伝統的な共同体規範は、リスク回避とすべての成員の生存を保障する「モーラル・エコノミー」であった。共同体成員の「生存・生活」(buhay)や「生計」(hanapbuhay)を重視する相互扶助の道徳は、現代フィリピンの大衆圏でも顕著である。しかも、カークフリートによれ、一九八〇年代中部ルソンの貧農は、もはや単なる生存だけでは不十分であり、自分たちは富を剥奪されているという認識から、より後半な資源に対する「必要性」(kaikangan)「権利」(dapat, karapat-dapat, karaptan)「平等・公平」(pantay-pantay)を主張している。ただし、こうした「持てる者は持たざる者を助けるべきだ」という伝統的規範は、個人的な富の追求を善とする資本主義の価値によって侵食されつつあるという(Kerkvliet 1990: 249-251)。たしかに、大衆圏でも、より成功している者ほど資本主義の道徳に訴え、困窮した者ほど相互扶助の道徳に訴えるという葛藤が生じている。
「尊厳」(dangal, dignidad, pangkantao)も、貧者にとって非常に重要な価値である。貧しい人ほど、裕福な人間に比べて蔑みの眼差しを向けられやすく、まっとうに生きていることの尊厳を否定されやすいからである。ピンチェスによれば、マニラのスラムで暮らす貧困層は、支配的な秩序と価値のもとで、教育、仕事、言語、話し方、エチケット、肌の色、髪や歯、服装などの点で劣等感を抱き、「恥」(hiya)の意識を抱くことを余儀なくされる。こうした尊厳の危機は、スラムに引き籠ることである程度は回避できる。しかし彼らは、職場、病院、役場、教会、ショッピング・モールなどでは「金持ち」と同等に扱われず、無視、嘲りや蔑みを察知せざるをえない。職場では、上司や雇用者からの侮蔑的な眼差しを、生活のために受忍せざるをえないことも多い。だが同時に、恥と侮蔑の感覚は強い怒りを呼び起こすことで、支配的秩序と価値に対する抵抗の基盤にもなる。さらに清水が指摘するように、強者によって弱者の尊厳が傷つけられ、不利な妥協を強いられる状況においてこそ、「弱き者を助ける力」として正義が希求されるのである(清水 一九九五)。

私はこれが、「ルール」というものの本質なのではないか、と考える。あるルールを作るとする。すると、必然的に、そのルールを守れる人と守れない人に分かれる(ここで、守「らない」、ではなく、守「れる」かどうか、つまり、ルール「以前」の初期条件を問題にしていることに注意がいる)。これを「道徳」の問題にしてはならないのである。つまり、前者においてルールを守れなかった人に対して、「道徳」を論じることには、意味があるとしても、後者に対してその議論は、そもそも、「正当性」がない可能性がある、ということである。
なぜ、フィリピンにおいて、ここまで、対立が鮮明になって、現在まで来たのか。そこには、間違いなく「植民地」の問題がある。
最初は、スペインの植民地化から始まり、この時代は、公用語として、スペイン語が教えられる。学校の授業で、スペイン語が教えられることは、ある意味において、全国民に「共通」の教育が与えられるという、

  • 公平性

が存在した、とも考えられるであろう。その後、米西戦争で、フィリピンはアメリカの植民地となり今度は英語が公用語となるが、日本の支配に一時期入った後、もう一度戻り、アメリカから独立していくことになるが、その後も、公用語としての、英語は今も続いていて、全国民に「共通」に英語が教えられているが、そもそも、大衆は英語を話していない。現地語の、主に、タガログ語を話しているわけで、日本の英語教育がいい例であるように、優秀な英語教師もいないし、そこまでのモチベーションもない、公立の学校では、エリートたちが行く私立とは違い、英語教育の質が劣る。まともに受けても、英語の実力がつかないに輪をかけて、貧困層は、早い段階で、学校に行かなくなる。
ところが、フィリピンの公用語は英語なのだから、さまざまな公的な試験は、ペーパーテストからなにから、英語となるので、そもそも、英語を話せないという時点で、社会のエリートコースからのドロップアウトを意味する。
日本のように、あらゆる学問が「翻訳」され、大学でも日本語で授業をしているような場所ではない。タガログ語やその他の現地語が使われているメディアは、せいぜい、タブロイド誌や、ラジオ、一部のテレビくらいで、多くのメディアは、英語で行われている。
このように考えてきたとき、今のフィリピンの姿は、どこか、未来の日本のように思われる。
いずれ、日本の人口が減っていくのと平行して、日本社会は、アメリカに取り込まれていくであろう。フィリピンと同じように、英語で大学の授業が行われ、会社内では会話は英語になり、

  • めんどくさい

ということで、日本語の書籍は少なくなり、みんな英語圏からの出版物を、英語のまま読むようになる。
しかし、逆に、私はフィリピンの貧困層には、昔の日本がもっていた、今の日本人が忘れかけている、古き良き慣習が残っているのではないか、と思わなくもない。

私は、フィリピンをこよなく愛している。いつもフィリピンに帰ることを待ち望んでいて、まるで日本で暮らす出稼ぎ労働者のようだ。誕生日もフィリピン独立記念日であり、運命を感じている。研究の道を進むことになったのも、学者になりたかったからではなく、フィリピンとの関わりを失わず、もっと深めていきたかったからである。フィリピンで得た複雑な感情や経験を、何とか言葉にしていきたかったのである。
フィリピンを好きな理由を問われれば、最終的には「人が好きだから」と答えるだろう。彼らは、とにかく優しいのだ。フィリピンに行くまで、人にこんなに優しくされたことはなかったようにさえ思われる。フィリピンに行くたびに、彼らの優しさをどうにかして日本社会に持ち込むことはできないものだろうかと真面目に考えている。たしかに、私のような外国人の一時滞在者にとってフィリピンは天国かもしれないが、現地の人びとにとっては悩み多き祖国であり、海外への脱出を夢みざるをえない場所である。フィリピン国民の実に一〇人に一人が国内に希望を見出せず、海外に出稼ぎしたり移住している。それでもフィリピンには、この困難な時代を生き延び、善き生を実現していく多くのヒントがあるように思われる。

掲題の本の表紙も裏表紙もそうだし、中表紙など、いろいろなところに、特に、子どもがカメラの方を向いて写っている写真が掲載されている。おそらく、多くは、上記で議論してきた

であろうが、見ると、みんな、いい表情で写っている。幸せそうだ。それは、おそらく、彼らには、貧しくても助け合っている

  • 共生

の感覚があるからではないだろうか。同じフィリピンに生まれ、同じタガログ語ならタガログ語という「現地語」を話し、近所で一緒に暮らす人々といることに「楽しさ」をもっている。
彼ら、この子どもたちは、たんに楽しそうなのではなく、どこか「誇り」のようなものも感じる。「自信」と言ってもいいだろう。それは、彼らが、その土地で生き、つちかってきたものであり、それはひいては、フィリピンという、日本と同じく東アジアにあり、温暖な比較的住みやすい地域で生まれ生きていることの、「自信」のようなものなのかもしれない。
おそらく、日本は、この21世紀において、グローバリズムの動きの中、より、フィリピンの現状に近くなっていくように思われる。人口が減り、世界の中での日本の相対的価値も下がり、より国家が貧しくなっていくと共に、ほぼ公用語が英語になり、充実した英語教育を受けたエリート市民層と、そういった教育を受けられない貧困層という、同じ

  • 階層

が日本においても、はっきりしていくのかもしれない。そう考えることは気持ちを暗くさせるが、この本にあるフィリピンの貧困層の子どもたちの表情であり、その生まれた土地に生きることを誇りに思う彼らの姿が、私たちの未来についての、せめてもの救いなのかもしれない...。