小川和也『牧民の思想』

日本の歴史を考えたときに、まずもって、特異な特徴は、江戸時代のこの長期に渡る「平和」であろう。なぜ、このような「奇跡」を起こせたのであろうか?
江戸時代の前は、関ヶ原のような、戦国時代である。そこから、なぜ、徳川政治は、これほど続いたのであろうか? この疑問は、例えば、なぜ徳川政治は、庶民を痛めつけなかったのか、と考えるといい。応仁の乱において、各地の盗賊たちは、散財の限りを遊興に注いだ富裕豪族を、徹底して、破壊した。それは、彼ら豪族が、そもそも庶民の生活に無関心だったから、だから、一歩街に出れば飢えて死んでる庶民を見て見ぬふりをしてセレブの「不謹慎」的悪ふざけを自分の家の中で外と関係なくやっていた、と考えられる。だから、そういった盗賊も「無慈悲」に行う。
ひるがえって、江戸時代になると、なぜか、各地域の殿様は、そういった「暴虐」を行わない。彼らは、どこまでの「自制的」だ。
よく考えてみてほしい。彼らは、つい最近まで、戦(いくさ)をやっていた連中である。そんな彼らが、どうして、庶民の生活に、これほど、「遠慮」をするのか。
庶民など、しょせん、武器も持たない、なんの抵抗もできない、無力な存在ではないか。好きなだけ、殺して、好きなだけ、食糧を奪い、やりたい放題やったって、不思議はなかったのではないのか?

その国家を大きく揺るがせたのは、寛永一四年(一六三七)に起こった島原の乱(島原一揆)である。一〇月二五日に放棄した島原一揆は、領主・松倉氏の島原城を攻め、天草一揆と呼応し、原城に立て籠った。国家権力はこの一揆に仮借のない態度で臨み、最終的に一七家の大名、総勢一二万人余りを動員、殲滅戦を行った。翌年五月、原城は落城する。一揆方の死者は、約二万七〇〇〇人という夥しい数に及んだ。領主側も千数百人が死亡、死傷者数では一万人を超えた。双方ともに多大な犠牲者を出して、一揆は制圧された。
数多くの牛が死に始めたのは、島原の乱終結して間もなくのことである。乱の鎮圧に動員された九州の諸大名の所領で八月から九月にかけて異変がみられた。豊前・豊後・筑前筑後では、ほとんどすべての牛が死亡、他の地域では半減したとされている。原因は疫病である。疫病は、中国・四国地方へ、さらには近畿地方へと伝播し、西日本全体を覆うように広がってゆく。
牛は農耕の重要な生産手段であり、農村は大きなダメージを受けた。牛の大量死に呼応するように、寛永一七年(一六四〇)、今度は、北日本に異変が起こった。六月に蝦夷駒ヶ岳が噴火、大量の火山灰を降らせ、津軽では凶作となった。また、一八年には西日本が旱による不作となる。こうして、寛永の大飢饉が始まる。
島原の一揆は、国家領主の武力の結集によって粉砕し得た。しかし、寛永一九年以降、はっきりと姿を現した寛永大飢饉という危機には、武力は無力であった。すなわち、近世国家は全国的な飢饉の克服という、新たな難問に直面したのである。

私は、その理由を「キリスト教」に置きたい、と考える。なぜ、キリスト教が重要なのか。それは、彼ら宣教師たちは、どんどんと、

  • 殉教

したからである。それだけではない。多くの彼ら宣教師の教えに諭され、入信した日本の庶民たちまでもが、すすんで、

  • 嬉々として

殉教したのである。この光景は、大きな「驚き」をもって、江戸幕府の権力者たちには写ったのではないだろうか。
庶民とは、何者か? 彼らは「教育を受けていない」存在である。つまり、無知なる存在である。その彼らが、まるで、教育を受けた武士エリートであるかのように、だれもかれもが、キリスト教の教えに従い、殉教するのである。
ここで、重要なポイントは、

  • 庶民がすすんで従う

ということである。庶民が進んで、自分の命を投げ出すのだ!
この状況は、何を意味しているのか?
つまり、このキリスト教の存在が意味しているのは、

ということである。冷戦時において、資本主義圏と社会主義圏は、それぞれで、国内の労働者たちへの「福祉」の充実ぶりを競い合った。そのことによって、日本のような資本主義圏においても、社会主義国に負けられないと、大量の福祉を国民に与えた。おそらく同じようなことが、江戸時代にも起きたのではないだろうか。
なぜ、キリスト教会に庶民が集まり、彼らの軍門に従うのか。それは、キリスト教の教会の「福祉」が充実していたからである。だから、庶民はここを、気に入ったのだ。
たしかに、江戸幕府キリスト教を表向きは禁止する。当然、島原の一揆は鎮圧する。しかし、そんなことをやったからといって、本当の意味での、

  • 解決

には少しもなっていない。というのは、もしも、徳川幕府の政治が、応仁の乱の時代の「貴族」たちの、庶民になんの関心ももたない、暴虐政治であれば、同じような「キリスト教」のような

  • 大衆運動

が生まれて、庶民は彼らの「福祉」に引き寄せられて、彼らの「政治」に従うからである。
つまり、ここにおいて、政治は新たなフェーズに移った。つまり、キリスト教並みの「福祉」の行えない「行政機関」は必然的に、自然淘汰される、ということである。キリスト教並みの、

  • 次々と信者が「殉教」していくくらいに、信者の心をつかめない「行政機関」は、キリスト教と「等価」な福祉集団の必然的な出現によって、滅びることが、運命づけられたのである。

徳川政治の生命線は、庶民の年貢、つまり、農業の「収穫」である。これが、毎年、一定の「量」を確保できない限り、徳川政権に、お金が回らず、武士階級の給料を確保できず、政治を求心力を失う。
つまり、徳川政治は、なんとしても、百姓の「豊作」を実現できなければならない。
しかし、それは、なにを意味しているのか?

近世国家は寛永大飢饉の克服という過程を経て確立する。元和偃武 ~ 島原の乱の鎮圧後に領主が直面した体制の危機、すなわち、寛永大飢饉は領主に「撫民仕置」の重要性を自覚させた。石高制に基礎を置く近世国家の経営は、民衆の年貢による。疲弊した農村の立て直し、飢餓に苦しむ民衆を救うことは、領主の急務である。近世国家思想は、ここに成立する。一九七〇年代に登場した、宮澤誠一・深谷克己らによる「幕藩制イデオロギー」論は、まさにこの時期の領主対応から国家思想を明らかにした画期的な業績であった。それは、序章で触れたように、国家思想を階級対立と社会的な規模の深みらダイナミックに捉えたものであり、儒学者のテキストと思惟様式の分析を中心にした従来の思想史研究と一線を画する。
宮澤・深谷が設定した分析概念は二つ。「委任」と「御救」である。「委任」論とは、天道を背景にした統治権の正当化である。天道が生民を為政者に預けたと考えられ、さらに、統治の授権関係は、天道 --> 将軍 --> 大名......というように下降する。この授権関係の究極的な存在は天道であることから、天道委任論と呼ばれる。天道委任論は、主に、領主間における正統性の支柱である。これに対し、「御救」論は、国家がつつみこんでいる民衆=被支配層と領主層=支配層との関係性における正当化の論理である。領主層が、夫食貸などの「御救」を民衆に施すことで、国家権力は民衆が一定の自発性をもって服従しうる「公」的性格を帯びる。この委任と御救を結びつけるのは、「治国安民」=「仁政」である。領主は「仁政」を施すことで民衆に対しても、上級権威に対しても自己の統治の正統性をアピールし、認めさせることができると考えられた。したがって、幕藩制国家の正統性は、委任と御救を統合する「仁政」思想によって供給される。

徳川政治は、統治者が「庶民を救う」政治である。当然、統治者は庶民を無闇に殺してはならない。いや。むしろ、無闇に殺すような統治者は、「ハラキリ」をさせられる。そういった統治者は、

  • 統治者にふさわしくない

からである。そういった統治者は、庶民に

  • 嫌悪

される。つまり、キリスト教に「負ける」のだ。よく考えてほしい。キリスト教は、庶民が、

  • 次々と命をなげうつ

のである。自ら、すすんで。それに対して、庶民にひたすら「嫌悪」される、小役人が、どんなに怒声をはりあげて、庶民を自分の意のままに動かそうとしたって、勝てるわけがないであろう。だって、

  • 次々と命をなげうつ

わけですから。つまり、そんな小役人の言うことに従うくらいなら、

  • 死んだ方がましだ

と思わせるくらいに、キリスト教は「強敵」なわけです。
このように考えたとき、彼らが、儒教の「仁政」を学ぼうとしたのは、当然のなりゆきのように思えてならないわけである。

寛永大飢饉は幕藩制国家全体に関わる、まさしく国家的規模の危機であり、その対策は国家全体を見通すことのできる幕閣によってたてられた。その幕閣から注目を浴びた書物がある。それが『牧民忠告』である。

この「牧民忠告」は、中国の元の時代の官僚が書いた本で、以下に簡単な翻訳があるが、

screenshot

これを読むと、つまり、どういった「官僚」が、「仁政」を体現する存在として、理想的な存在と受け取られていたのかを、よく示している。
なぜ、庶民は自ら進んで、支配階級の願いに「従おうとする」のだろうか。例えば、百姓がどうやって、農業を成功させるのかには、支配層がもっている「知識」だけでも、どうしようもない。百姓たちが、支配階級に、さまざまな知識を提供し、お互いの知識を合わせて、導かれるベストの方法を模索しなければならない。そのためには、なにが必要か。
百姓が、自分から進んで、支配階級に協力し、情報をさしだす、ということである。つまり、究極的に、支配階級は百姓に「信頼」されなければならない。この「信頼」が生まれる究極的な理由は、その

  • 極限状況

つまり、「飢饉」における支配階級の「態度」によって、見積られる。

天明の飢饉により米価は高騰する。やがて天明七年(一七八七)の打ち壊しによって田沼意次政権は失墜、代わって老中首座に就任した松平定信の政権が発足する。定信の著書『宇下人言』によれば、その後もなお気候は回復せず長雨が続き、秋の収穫が危ぶまれていた。
定信は凶作に対する方策を聞かれて、「ことし有年(豊年)ならば猶はかるべし、いまに至りては金穀之柄帰さむ術も法もあるべず」と述べた。つまり、これまでさまざまな対策を建ててきたが、もはやここに至ってはもはや何の対策もないと応えた。定信は重ねて、「もしことしもまた凶年ならばいかがし侍らむ」という問いを受けた。これに対して、定信は「予答えていふに、外にせんすべなし。只その信を守りて、民とともに餓死するよりほかはなし。よく人心を得給はば天下の金みな君のものなり、一天下米穀尽果ば、天下と共にたほるべし」、人事を尽くして天命を待つ、凶作が続けば、「民とともに餓死する」のみだと覚悟を示したという。
万策尽きて、飢民とともに倒れる、という牧民官像を示しているのは、『牧民忠告』の著者・張養浩である。第三章で述べたように、密陽本の序には、元代の天暦期、旱魃により西台地方に夥しい餓死者が出た。このとき、養浩は騎馬で駆けつけ、命を救われた民衆数万人。しかし、なお餓死は満ちふれた。なすべもなくなったとき、養浩は馬から下りて飢民と共に声を出して哭き、そして死んだと慈悲深い牧民官像が描かれている。

凶作になると、多くの百姓が死ぬ。飢えて死ぬ。問題は、そういった時に、例えば、自分一人だけ、現地を逃げだして、安全な場所に避難する連中であろう。
もちろん、安全な場所に逃げることは本人の意志であり、自由なのだろう。つまり、百姓だって、なかには逃げる連中も、ぽろぽろとはいる。
しかし、ここで問題になっているのは、多くの人たちが逃げたくても逃げらない、ということなのである。つまり、逃げないことが悪いのではなくて、少なくとも、なんらかの発言権を求めたいと思っているような知識人が、一番大事なときに、庶民と行動を共にしていないのに、偉そうに、自分の意見を聞いてくれ、という態度なのだ。
3・11の当日、東京のJRの駅は、どこも、仕事途中で家に帰る通勤者が、地下鉄の地面に座り、途方にくれていた。東京はどこも、まるで、縄文時代に帰ったかのように、人々が、東京の端から端まで、徒歩で何時間をかけて歩いていた。そして、その後の、計画停電や物不足。
福島第一原発の爆発で、多くの富裕層が東京を逃げだしたことが責められるのではない。それなりの東京や、この国に対して、自らの発言権を求めたいと思っている連中が、そうであるにもかかわらず、一番大事なときに逃げるから、単に、その人間性が「信頼されない」のである...。

牧民の思想―江戸の治者意識 (平凡社選書)

牧民の思想―江戸の治者意識 (平凡社選書)