朴倍暎『儒教と近代国家』

前にもちらっとふれたのだが、この本の感想である。
まず、明治憲法第四条に対しての分析が載っています。

恭て案ずるに、統治の大権は天皇之を祖宗に承け、之を子孫に伝ふ。立法・行政百揆の事、凡そ以て国家に臨御し、臣民を綏撫する所の者、一に皆之を至尊に総べて其の網領を攬らざることなり。故に大政の統一ならざるべからざるは、宛も人心の弐三なるべからざるが如し。但し、憲法を親裁して以て君臣倶に守るの大典とし、其の条規に尊由してあやまらず遺れざるの盛意を明かにしたまふは、即ち、自ら転職を重んじて世運と倶に永遠の規模を大成する者なり。蓋統治を総攬するは主権の体なり。憲法の条規に依り之を行ふは主権の用なり。体ありて用無ければ之を専制に失ふ。用有りて体無ければ之散漫に失ふ。(伊藤博文憲法義解』岩波文庫

つまり、天皇を中心とする理解は、「主権の体」と「主権の用」という「体用論」で行われなければならないと主張したのである。

体用論といえば、朱子学の未発、已発がどうこう、というやつですね。
それはいいんだけど、明治憲法をつくったのが、伊藤博文だとして、伊藤博文憲法義解』について、戦後の人たちはどれだけ、その理解に注目してきたのか、なんですね。伊藤博文本人が憲法は、体用論だって言ってるわけでしょ。非常にその総括が弱いんじゃないでしょうか。

体用論のもつ意義は、不変なるものと可変なるものとの区別、言い換えると、普遍と特殊の区別にある。つまり、図式的にいえば、体-性-理という理論的繋がりができ、それが普遍の位置を示す一方、用-情-気というもう一つの繋がりは、特殊に位置づけられるわけである。

明治政府の構成メンバーといっても、水戸学の圧倒的な影響のもと、ありえたわけでね。そりゃ、研究の年期が違うってわけで。

古の聖人、朝きんの礼を制するは、天下の人臣たる者を教ふる所以なり。そして天子は至尊にして、自から屈するところなければ、すなはち郊祀の礼、以て上天に敬事し、宗廟の礼、以て皇戸(こうし)に君事す。それ天子といへども、なほ命を受くるところあるを明らかにするなり。聖人、君臣の道において、その謹むことかくのごとし。しかるを況んや天朝は、開闢以来、皇統一姓にして、これを無窮に伝へ、神器を擁し宝図を握り、礼楽旧章、率由して改めず、天皇の尊は、宇内に二なければ、すなはち崇奉してこれに事ふること、固より夫の上天杳冥にして、皇戸、戯に近きがごときの此にあらずして、天下の君臣たる者をして則を取らしむる、これより近きはなし。(藤田幽谷「正名論」『日本思想体系 水戸学』岩波書店

藤田がいわんとするところは、中国ですら、天子になるためには、天命というものを待たなければならなかった。つまり、一度天命を受けたとしても、国がかわるたびに天命をあらためて受けなけれならない。従って、ちゃんと天命を受け止めることができたもののみが天子になりえたのである。しかし、日本においては事情が違う。つまり、「開闢以来、皇統一姓」にして「無窮に伝へ」られてきたので、日本の天皇においては、天命を待つという煩雑な手続きは要しない。いいかえると、一度受けた天命を二度三度受けなおす必要がないということである。なぜなら、天皇が天命そのものだからである。
天皇は自ら天命であり、言い換えると、自ら「体」となる。それは、まさに永遠そのもので、不変なるもの、また普遍なるものとして理解されなければならないものだったのである。
つまり、明治憲法における天皇の地位は「天命そのもの」という考えによって、生まれつきに与えられたものということになる。それは国学思想と儒教思想との見事な結合だった。

とにかく、明治憲法においては、天皇を中心に営まれる道徳律には少しの疑いもない。臣民たるものはただ天皇の意を仰ぎ、従いさえすれば、それで道徳の完成の域に至ることができるという仕組みを持つのである。

それはつまり、中国のように抽象的なフィクションとしての天命もしくは理ではなく、現に天命もしくは理が存在するということである。しかもその現にある天命は、そのまま続けられるという。いいかえると、韓国や中国とは異なり、日本は三代という形而上学的な理想の世界を掲げる必要がないということである。

確かに、中国韓国の思想は、いい悪いあるけど、なんにせよ、夏殷周を理想世界とする、ユートピア思想から入るんですよね。一方、日本の場合は、荻生徂徠なんかはそうでもないけど、伊藤仁斎にしても、孔子中心主義みたいなもので、あまり古代への遡行の傾向はないんですよね。
まあ、そんなことはいいんですけど、上記の点は、今までの日本天皇論の議論の中国、韓国の儒教側からの整理みたいなものですね。
前に、古事記日本書紀天皇の定義が違うという話を書きましたけど、後期水戸学派は、明らかに、本居宣長の影響の中にありますね。だから、かなり古事記よりの天皇の定義になってる。
上の議論からもそうですが、もう天皇っていうのはすごいことになっちゃってるわけですよ。天皇そのものが天命そのものだったり、すべての道徳を体現してるってことになってたり、もう、日本臣民は、天皇を仰ぎ見れば、それで、道徳完成ってわけですから、日本臣民はもう考えることなんてなにもない。
これも前に書きましたけど、いずれにしろ、日本人がこの呪縛から解放されるのは、昭和天皇人間宣言まで待たなければならなかったというわけですね。天皇が自分と国民との関係において、自ら神話を否定しているんですからね。水戸学派の完全否定でしょ(実際は,五箇条の御誓文に戻るってことですが、それって、「広ク会議ヲ興シ万機公論ニ決スヘシ」ですからね。民主主義そのものですし)。
だから、日本書紀天皇の定義って、天皇家のお墓を守っていくのは誰か、という視点での話ですよね。もう、かなり普通の儒教世界での、家制度の普通にどこのイエでもやっていることですよね。だから、どこの家にも家系図があって(日本の場合は、たいてい、天皇家から派生していることになってはいるが)、それで、一番の先祖は、なんらかの神と関係があったりして、本当は紆余曲折があったはずなのに、見事に、血がつながってることになっていたり、ありがちですわな。
でも、じゃあ、天皇家でどういう教育がされていたかと考えれば、当然なんですよね。完全なイギリスモデルの立憲君主制でしょう。実際、留学もしてますし、彼らはそれをかなり忠実に実行していたんですね。

をみても、わかるでしょう。
ですから、またまた平泉澄の話でもうしわけないですが、彼が、昭和天皇楠木正成の話でご進講をするんだけど、明らかに昭和天皇本人はそれをあまりおもしろく思わなかったんですね(言ってみれば、後醍醐天皇は別格っていう話ですからね)、そういう流れもあって、平泉本人は、あきらかに、高松宮とかを今の天皇に変えてでも天皇にしたかったような雰囲気がありますね。でも、早い話、昭和天皇は、モダンなんですね。そういう教育をされているんですよ。でも、高松宮あたりは、軍隊に属してますから、それなりに趣が違う。
しかし、靖国神社はこれから、どうなるんですかね。今のままなら、天皇家はもう、これから、代々、靖国神社を参拝することはないでしょ。だって、この前の側近の日記は昭和天皇の遺言そのものでしょう。皇居から、あんなに近くにあるのにね。もともと、旧厚生省が、旧軍人の牙城みたいな形になっていて。
今の保守派で、側室制度の復活を言ってる奴がいますよね。安倍元総理もかなりマジ・モードでしたね。しかし、それを口にした時点で、その人の品性が分かるでしょう。天皇家自身が率先して、今は、近代的な家族の姿を大事にしているときに。そうなると、雅子さんを心の病気とか言って、皇室から追い出すことくらいしか、もう方法がないとなる。皇室がイジメのメッカみたいになるというわけですわ。
さて、後半の韓国の戦後憲法論の部分は、朴正煕(パク・チョンヒ)の維新憲法の第53条が紹介されている。

  1. 大統領は天災・地変または重大な財政・経済上の危機に処される、あるいは国家の安全保障または公共の安寧秩序が重大な威脅を受け、または受ける憂慮があって迅速な措置を施行すべき必要があると判断されるときは、内政・外交・国防・経済・財政・司法など国政全般にわたり、必要な緊急措置を施行できる。
  2. 大統領は第一項の場合に、必要であると認められた時には、この憲法に規定されている国民の自由と権利を暫定的に停止できる緊急措置を施行できる。また政府や裁判所の権限についても緊急措置の施行ができる。
  3. 第一項と第二項の緊急措置を施行したときには、大統領はすぐ国会に通告しなければならない。
  4. 第一項と第二項の緊急措置は司法的審査の対象にはならない。
  5. 緊急措置の原因が消滅したときには、大統領直ちに、これを解除しなければならない。
  6. 国会は在籍議員過半数の賛成を以て緊急措置の解除を大統領に建議することができる。また大統領は特別な理由がない限り、この建議に応じなければならない。

なんか宮台さんの国家論を憲法にするとこんな感じなんじゃないか(彼の場合は、別に緊急じゃなくても、大義名分のない私利私欲でも、国家がなにをやろうと、「見つからなければ即OK」らしいけど)。
また、朴正煕そのものの発言は、かなり民族主義的なんですね。この点は、

〈民主〉と〈愛国〉―戦後日本のナショナリズムと公共性

〈民主〉と〈愛国〉―戦後日本のナショナリズムと公共性

を思わせるものがありますね。
韓国は、逆に、何度も、憲法が変わっているんですよね。韓国の政治が安定してきたのは、つい最近なんですよね。言ってみれば、中国のこれだけの経済発展もさらに最近ですし、今、アジアで起きていることは、ほんと、最近の現象なんですね。
韓国というのは、言ってみれば、中国で、生れたものが、間接的に入ってくるということでは、日本と似ているんだと思うんですね。その影響の受けかたとしては韓国の方が激しいでしょう。というより、江戸時代を見ても、中国とは朝鮮のことですからね、朝鮮通信使の日本側の熱狂的な迎え方ですね。
だから、中国国内では、そもそも自分たちの社会の中で生まれたものだから、論理的には、さまざまな矛盾があっても、その中で人々の生活は生きるんですけど(前にこういう本を紹介しましたが。

)、日本や韓国ではその理論だけが入ってくるんで、片言隻語で理論がどんどん純粋化するんですね、いい面、わるい面、いろいろあるんでしょうが。
ちょっと前に、韓国ドラマの「ホジュン」っていうドラマを見たとき思ったことですけど、ホ・ジュンと彼の師匠のユ・ウィテとの関係なんて、まさに「論語」での孔子と顔淵の関係そのものでしょう。今でも日本のさまざまなところで、こういった光景があるんじゃないですか。少年野球の監督と子供たちもそうでしょうし、高校野球、日本女子バレーの監督と選手もそんな面がある感じがしますしね。
私は、朝鮮が日本軍の占領、植民地になっていく過程に、まったく逆の意味で、ある種の世界史の運動における、崇高なものを感じるんですね。
前にも引用したんですけど、また、引用してみましょうか。

戦争などというものは、勝っても、負けても、つまらない。徒に人命と物質の消耗にすぎないだけだ。腕力的に負けることなどは、恥でも何でもない。それでもお気に召すなら、何度でも負けてあげるだけさ。無関心、無抵抗は、仕方なしの最後的方法だと思うのがマチガイのもとで、これを自主的に、知的に掴み出すという高級な事業は、どこの国でもまだやったことがない。/蒙古の大侵略の如きものが新しくやってきたにしても、何も神風などを当にする必要はないのである。知らん顔をして来たるにまかせておくに限る。婦女子が犯されてアイノコが何十万人生まれても、無関心。育つ子供はみんな育ててやる。日本に生れたからには、みんな歴とした日本人さ、無抵抗主義の知的に確立される限り、ジャガタラ文の悲劇など有る筈もないし、負けるが勝の論理もなく、小ちゃなアイロニイも、ひねくれた優越感も必要がない。要するに、無関心、無抵抗、暴力に対する唯一の知的な方法はこれ以外にはない。(坂口安吾「野坂中尉と中西伍長」)

暴力による侵略に対して、民衆がどのように対処するか。もちろん、日本の植民地化は、当然、多くの植民地化にともなう問題はあるんだけど、それ以上に、姓名の変更の強制や、日本語の強制など、同化政策ですね。これについては、どういった総括が日本側でされているんだろうか。
坂口安吾は、明らかに、朝鮮や中国が日本の侵略を受ける歴史を想定して言ってるんだと思うんですね。ガンジーなどが進めた無抵抗主義を理論的につきつめると、いったいそれはどんなものなのかなんですね(もちろん、暴力の問題はある。カントの非社交的社交性のはなしですね。でも、たんに他人の自由を犯してなにかをやったといって、それが結局なんだっていう、人類の歴史の「進歩」の問題の議論の上での話だと思うんですけど)。

儒教と近代国家 (講談社選書メチエ)

儒教と近代国家 (講談社選書メチエ)