再び『倫理21』について2

また、

倫理21 (平凡社ライブラリー)

倫理21 (平凡社ライブラリー)

ですが、最後の、

  • 第12章 生れざる他者への倫理的義務

についてです。

若いマルクスは次のように書きました。

宗教批判は、人間は人間にとって最高の存在である、という教説で終る。したがって、人間を卑しめられ、隷属させられ、見捨てられ、蔑まれる存在にしておくような一切の諸関係を(中略)くつがえせという、至上命令(無条件の命令)をもって終るのである(マルクスヘーゲル法哲学批判序説」)

これは明らかにカント的な考え方です。

柄谷さんの考える、マルクスやカントは、いろいろ言っても、結局は、こういう倫理を中心とした、考えから、出発していると考えるんですね。そういう方向で考えたとき、問題を解決するということが、どういう事態を意味するか、と考えれば、ある程度、方向は見えますね。

しかし、エンゲルスレーニンと違って、マルクスコミュニズムを消費-生産共同組合に求めたのです。『資本論』の中で、彼は、それを「固体的所有の再建」と読んでいます。それは、共同組合では、各自が自由な所有者だからです。私有財産の廃棄というと、国有化と取り違えられます。しかし、私有財産とは或る意味で国有財産なのであり、その証拠に、われわれはその所有に対して国家に納税しなければならないわけです。だから、マルクスがいう私有財産の廃棄とは、国有財産の廃棄、すなわち国家の廃棄を意味するのです。
マルクスが考えたコミュニズムとは、「自由で平等な生産者の連合社会(アソシエーション)」です。こうした消費-生産共同組合のアソシエーションがグローバルに拡大して、諸国家にとってかわる(国家が死滅する)のがコミュニズムです。だから、これは一国だけではありえない。

したがって、コミュニズムに関しては、この賃労働(労働力商品)の廃棄ということが、核心的です。そこからみると、たとえば、旧ソ連のような社会はたんに国家資本主義でしかなかった。経済的平等とか、豊かさ、失業問題の解決というようなことは、コミュニズムの課題ではありません。その程度のことは、福祉国家あるいは社会民主主義でも可能なのですから。

たんにもっと豊かになりたい、というのであれば----かつては、社会主義になればもっと豊かになるといわれたものですが----、資本主義でも、構わないのです。

私的所有が私的所有となっていない、国家所有となっている、という指摘は、逆に言うと、その廃棄とは、国家所有の廃棄、真の固体的所有なんだと、なるんですね。
そして、賃労働(労働力商品)の廃棄。この実現が、一国の中だけで実現できるわけはないんだけど、こういうものが必要なんだろうというのは、ですから、以下にあるように、資本の運動をどのように考えるか、があるということなんですね。

われわれが考え方を変えても、資本の運動は止まらない。なぜなら、資本の蓄積はわれわれの欲望から生まれるのではなく、その逆に、それがわれわれの欲望を生み出すのだから。したがってまた、どんなに環境的危機があっても、資本の運動は止むどころか、逆に、それがわれわれの考えを変えてしまう可能性が強い。つまり、先進資本主義国家は、その「国民」の幸福のために、将来の危機において、戦争を辞さないでしょうし、「国民」の間にナショナリズムを喚起するでしょう。

だから、賃労働(労働力商品)の廃棄されていく過程というのを、資本の運動への抵抗の過程とかなりオーバーラップしたヴィジョンをもっている、ということなんだと思うんですね。だから、どちらについても、かなりイメージはぼやけたままなんだけど、資本の運動については、なんの制限もなく、このまま進めれば、世界的な食料不足、環境破壊、こういったものが避けられないことは言われていますね。でも、そういう問題がどんなに深刻になったからって、別に、資本の運動が止まるわけじゃない。そして、まず起きることは、国家的な保護貿易ナショナリズム、ですね。だから、国家というものが、この資本の運動を補強する形で、存在しているということなんですよね。
ですから、さまざまな、国家的な意匠は現代において、問題のメインではなくて、上記の、資本の運動における、中間的なプレーヤーとしての、役割を演じることが資本によって要求され、その役割を演じる存在なんでしょうね。

話がそれますが、ちょっと前に、大澤真幸の宮台サン評価について書いたとき、その整理は、丸山眞男大塚久雄君主制、を一歩も外に出ない、(口振りはかなりエキセントリックであるかもしれないが)理論的には、かなり古典的な国民国家論、そのものなんですね。大澤さんとしては、なんとかその殻を突き破れるものはないかと模索している、その流れからいろいろ論文を書いているんだと思うんですね。
その逆に、宮台サンの方は、ずっと、丸山眞男大塚久雄君主制、なんだと思うんですね。まあ、理論的な発展を感じない。まったく、この殻の中からしか発言しないし、この殻の中でパフォーマンスを続けている(トリック・スターきどりってやつですか)。
ルーマンにしても(官僚出身だそうですが)、ああいう膨大なまでの、いろいろな取り組みはそれぞれ興味深いですが、しょせん、国民国家論の中のエントロピーであったり、効率化だったり、スタティックなシステム・モデルだったり、そういうレベルですよね。非常に閉じたアイデアだとは思う。
この前の、小林よしのりとの対談

screenshot

での、マキャベリ政治学論も、本人はずいぶん革命的なことを言ったつもりになってるようですけど、言ってみれば、古代の歴史から、さまざまな歴史の登場人物が、いろいろな思惑で、裏でいろいろやっていたという、歴史的事実を言っているだけでしょう。
それが現実の政治で甘チャンが、人権とか言おうが、そんなの現実の法則の前には無力なんだと(ヘーゲル以来、保守派が繰り返している論理ですね)。
ですから、国家にエリート官僚集団という実体を仮託して、そのリバイアサンの機嫌を損ねない限り、たいていのことは、「安定」する、というその程度ですよね(いったい誰の「安定」なんでしょうね)。しかし、それでは、正当性が弱いんで、天皇と言ってみたり、とか、庶民なんて、徹底的に情報を隠しておけばなんとでも騙せる、とか。それができなかったとしても、そんなの、官僚のだれかが下手こいたからで、うまくやれば、なんとでもなると。
別にいいですけど、そう言って、フランス革命で、王朝は滅びて、ロシア革命で、王朝は滅びて、っていうのが、歴史だと思うんですけどね。そういった方向には、徹底して、目を閉ざして、これからも、国家とか帝国とか、そういったリバイアサンこそ、歴史の主要な登場人物なんだ、と。
だから、ひとつだけ私たちにあるとすれば、国家をシステム的に安定させるために、これからもいろいろなトリック・スターがあらわれて、さまざまなパフォーマンスを演じ、官僚組織の情報操作を補完する行為をしてくる、ということですね。
まったく正義に反することであろうと、エリート官僚支配が安定するためなら、あらゆる不正義をやってやる、と(ただし、自分には、その嘘がばれない自信はあるし、どんな不正義もどんな悪も、ばれなきゃ、普通に暮せるじゃん、という感じでしょうか)。これを、「大善は小悪を上回る」とか言ってましたね(だれが「大善」と認めたよ)。
だから、キーワードは「ばれなきゃ、なにやったっていいじゃん、フツーに暮せるじゃん(どうせばれても、愛国有理なんだから、時効とか国策捜査で、国家になんとかしてもらうけど)」ですね。しかしまず、バレないは、ありえないですね。それは、詐欺師の言い分みたいなもので、少なくとも詐欺師の嘘がバレるのと同じレベルではバレるということです。そう考えると、これから、国家が没落していく最初のきっかけは、嘘をつき、ニセモノでだまし、正直に言わない、こういった国家の態度から、国民の信頼を失い、違った組織が、新たにいくつも立ち上がり、国民へのサービス競争を国家と行う中で、国家の方が、その歴史的役割を終えて、解消していくということでしょうか。
しかし、違った面でも、国家のたそがれは見えている面はありますね。
現代社会は、しかし、一番大きなプレーヤーは、大資本家であり、大企業に移っている側面はありますね。特に大企業は、グローバルに移動するし、そもそも彼らは、経済アナーキズムそのものでしょう。いくらでも、お金を蓄積できるし、いくらでも巨大になれる。あきらかに、世界のアクターの中心は、そういった存在に移動してきている。国という地域組織がなにを決めようと、そういった大企業パワーが首を縦に振らないかぎりなにも前に進まない。また、地域によっては、そういったグローバル企業こそが、さまざまな地域の福祉の主要な担い手であったりもする。
そもそも、国家というのは、農業のための土地の奪い合いに起源があった。そう考えると、現代の多くの人が食料の確保の格闘からかなり解放されている人類の今にとって、国家とは、なんで存在するのか、とか、なんでこれほどの規模の武器や軍隊組織が必要なのかとか、ほとんど存在理由が見つけられない状況にも来ているのも確かなんですよね。
さて、カントの考える国際連合の考えが、究極的に行きつく先はどこなのかと考えれば、上にあるようなマルクスのアイデアでしょうが、まず、その中間的なものとして、今のEUがあるでしょう。逆に言うと、アメリカって、州ごとが国みたいなものですし、EUみたいなものですよね。
そう考えると、今の東アジア、中国の強烈な国家主義は、なかなか厳しいですね。今回の地震も、むしろ、人民解放軍のメンツや、国家の団結の問題になっている。
まあいずれにしろ、イメージは、はっきりしていますね。「自由で平等な生産者の連合社会」。今も、ある程度はそうだとも言えるし、なんとも言えないものがありますが。