西谷修「数と凡庸への否と諾」

この論文は、1989年の、雑誌現代思想ファシズム特集で、前に読んでいた。
この特集は、ローティの論文があったりして、なかなか、おもしろかった。
掲題の論文も、ハイデガーの、ナチ問題を扱うものだ。
本の方は、90年代からあったようだが(講談社学術文庫にもあるようだ)、増補新版ということで、2002年に、出ているようだ。この本では、真ん中くらいにある、一つの章になっている。
ハイデガーが、どれだけ、ナチと関わっていたのかが、なぜそれほど、スキャンダラスにとられたのか、ですね。
一番簡単な説明は、近代の学問体系の、一角をしめるとされている、哲学の、近代の代表的な人物が、ナチに親和的だったことは、この学問のいかがわしさ、を思わせる、ということ。
戦後、ナチ否定が、欧米の倫理のベースとなったことは、あらゆることに優先して、ナチ的な臭いを発するモノを、人の目に触れるところから、「隔離」することが、なによりも優先された。だれもナチを語らない、ナチについて、思いをはせなくなることが、ナチ的な発想で行動する人をいなくさせる。日本の「ケガレ」の発想みたいなものだ。
そういう視点からみたとき、ハイデガーの話していることは、あまりに刺激的すぎる。あまりにナチナチしてる。

  • 平準化

ハイデガーの関心の地平は、キルケゴールニーチェが問題にした、「平準化」の問題の延長で考えていた部分がある。
ニーチェは、新聞を憎悪しましたが、やっとその頃から、科学技術、通信技術、の発達によって、「マス語り」のようなものが、浸透してくる。

すべての決定が人間に委ねられている一方で、その人間が無差別化するこの時代の本質は、「神の死」という言葉で表現されてもいる。そしてこの絶対者の大空位に露出する「マス」を、誰がということもなく組織する工学も魔術も、この大空位そのものから必然的に生まれてくる。デモクラシーは個々人の決定を必要としており、判断の材料となる情報(知識)の供給を必要としている。というよりマス(大衆)の社会とデモクラシーの成立はメディアの形成と不可分なのだ。項は関係があるときにあり、関係なくして項は成り立たない。新聞が登場し、ラジオが、ついでテレビが、さらにはもっと多元化した情報網が登場する。メディアとはもともと「メディウム」つまり中間であり平均であり媒体であり、万人に近づきうる万人に開かれた場、つまり「公共性」そのものである。そしてマスメディアは、それ自体は発信者ではない匿名の媒体として、これも匿名の不特定の受信者に共通の情報を与え、その情報がマスの判断の材料となるとともに、マスの間の相互了解の場所あるいは環境となる(そういう情報環境が成立し、だれもがそれに同調しうるように、この社会では公教育が一般化し、だれもが同じことを理解できるように同じことを習っている)。そうしてだれもが同じ情報を与えられ、その共通の情報を介してお互いの了解を成立させる。こうして形成される共通の了解(共通感覚、常識?)は、基本的にだれのものでもない公共的「お喋り」(ナレーション、物語?)としてのメディアに依存しており、相互了解を基盤にするかぎり結局はだれもがこの「お喋り」を喋らされることになる。つまりだれもが自由に勝手に、それぞれの差異において語っているつもりでいながら、その語りを通して反復されているのは公共的「お喋り」であり、コミュニケーションは誰のものでもない退屈な「お喋り」の反復の反復のなかに遊離して、それがまたメディアつまりは公共性の支配をいっそう強化していることになる。

このテクノロジーによって技術的に実現されているこの、「マス語り」の氾濫が、非常に新しい現象であることなんでしょうね。

  • 故郷(土地)と民族

そういったわけで、ハイデガーはさかんに、「自分が生まれた土地」、といいますか、その育った環境、そのローカルな場所で育まれた記憶、にこだわる。
しかし、少なくとも言えることは、そのローカルな感覚は、そんなに簡単に「マス」にはならない。
しかし、ハイデガーの発想としては、ドイツ語を媒介として、民族というカテゴリーに、つながる、となる。

日常的現存在が、不安の中で世界を喪失しながら体験するのは、ハイデガーの場合、知の局限で苦痛と歓喜のないまぜになった激しい感性的体験でもなければ(バタイユ)、徹底した非人称化としての、死すらもはや出口ではない無限の存在への「融即」でもなく(レヴィナス)、それをとおして「本来性」が獲得される自分自身の死であり、その「本来性」の内実をなすものは、単独者としての空虚と充実でもなければ、徹底的に無規定的な裸形の他者との出会い(あるいは「分割=分かち合い」)としての共存在そして共生起でもなく(J=L・ナンシー)、事実性のうちでもっとも胡乱な事実性である「民族の運命」なのである。それまであらゆる先験性を排してきわめて綿密にふわけされてきた現存在の「現(そこ)]、存在の開けである「いま・ここ」は「民族の運命」の中に据え置かれて初めてその具体的現実的充実を獲得する。だが、人間の実存が「他と共に存在する」つまり「共存在」という出来事であり、いいかえれば「共生起(Mitgeschehen)」であり、その意味で実存が本質的に「共同態」として存在するというのは事実だとしても、この共同性が「民族」の共同性だということは、あらゆる日常的了解の曖昧さをひとつひとつ厳密にふわけしてきた『存在と時間』のそれまでの一貫した記述からはけっして導き出されないものである。それにまた、共生起が「民族」という枠組みをもつということはだれにとっても自明の所与じではない。現に、ほぼ並行的といっていい思考をたどり、「かたわになった個人」(意味と有用性に隷属する人間)を「不安」の中で試練にかけ、彼自身の当時の表現によれば「全体的人間」の在りようを追求したジョルジュ・バタイユは、「脱存の瞬間」に開かれる「世界の外」の体験を、むしろ家族、民族、国家といった既成の共同体のいっさいを否定する「人間の共同体」、歴史を知らず固有の名ももたない共同体、むしろ共同体たりえない無名の共同態として生きた。要するに実存の本質的な共同性が「民族」のそれである論理的必然性はどこにもなく、それはハイデガーにとっての形而上学外的な前提だったと言わねばならない。

ようするに、掲題の論文の著者としては、民族概念そのものに、いかがわしさをみているということだ。この哲学者の発想のそもそもの出発が、これなのに。

ハイデガーが、一方で、ナチ党員であったことについては、言い訳のようなことを言っていまして、ようするに、ナチ内の対立から、自分は主流じゃなかったと(まあ、単純な、アーリア人種の、顔の形がどうの、といったようなものの、延長のダーウィニズム的なものは、当然否定したでしょうから、そうなんでしょうが)。いずれにしろ、そういう形では、それなりにナチ(の最終的なあり方に、言い訳的であれ、)に否定的な見解を示していることは、歴史の中に位置付けしやすい。
ただ、一点、ホロコーストについては、あえて、最後まで、言及を避けたところがあるんですね。
その意図としては、この論文の著者の見解としては、ハイデガーホロコーストを、さまざまな20世紀的な特徴的な現象の中の、一つでしかない、と考えたのではないか、ということのようだ。
ホロコーストというのは、いわば、「人間をいかに効率よく殺すか」を究極的につきつめていったところがあるんですね。人間屠殺工場、なんです。テクノロジーの粋を結集して。だから、非常に現代的。
20世紀の官僚的な優秀さの象徴のようなところがある。
だから、むしろこちらなのでしょう。多くの人が、ハイデガーを気持ち悪く思うのは。彼が、なんでもいいから、ホロコーストへの考えを、死ぬ前に、言ってくれてればよかったんですがね。
掲題の論文の著者の解釈は、あえてホロコーストだけをとりだして論ずることに意味がないと考えたから、という説明ですね。そういう説明をするのはいいんだけど、まあ、普通に考えれば、ようするに、ハイデガーホロコーストを評価してたんでしょ。実際に、多くの反ユダヤ主義的な発言は、若い頃からずっとあるわけだし。
もちろん、戦後、ホロコーストを評価するなんて、一言でも言ったら、ふくろだたきにあうわけですから、そんなことは言わない。だから、ホロコーストについては、なにも言わないことで、自分の学問的な主義の一貫性を保ったわけだ。

不死のワンダーランド

不死のワンダーランド