桜庭一樹『私の男』

ということで、ひとまず、この問題作を、読んでみた。
作品は、『砂糖菓子の弾丸は撃ちぬけない』の、海野藻屑、を主人公(、腐野花)、にしたような、そんな感じであろうか。もし、海野藻屑、が、その後も生き続けて、大人になったとしたら。
腐野花が結婚して、腐野淳悟が、その後、自殺するんですが、例えば、そこに至る過程で、腐野花が腐野淳悟と、微妙な距離でいるわけですね。それが、どういうものなのかが、どうも、分かりにくい。長い年月を重ねていて、いろいろ紆余曲折があって、それで、その時点で、どんな感じなのか、なんですが、どうもよく分からない。
しかし、この作品はそういう視点で見るものではないのかもしれない。
あえて描いていないと考えるべきで、時間を遡って章立てにされているわけだから、作者の視点も含めて、むしろ、過去へとどんどんフォーカスが移っていくこと、そちらに視点を移していくことに、重要さがあるのだろう。
花は、前の家族の中で、一人だけ、父親と似ていない。つまり、腐野淳悟と、その母親との間の子供であるわけだが、この、腐野淳悟、という人間、ですね。
彼こそ、複雑な家庭環境で、育ってきた、複雑な存在であり、すべての混乱の始まり、だと言える。
ただ、結局のところ、この、腐野淳悟、という人間が、どういった行動原理、思考の流れ、をもって最後に至るのか、というのは、暗示されるレベルの記述だ。
腐野花、の見ている「なにか」として、隙間から、ほの見えてくる、それくらいの描かれ方。
ただ、はっきりとしたイメージで描かれるものもある。花が大塩さんを殺す場面だ。

「親子なんでしょう。淳悟と、わたし」
「あ、あんたは......」
「ただの親戚じゃない。あの人のほうが、ほんとうの父親。気づいてたの」
「知っとって、あんな、汚らわしいことを。ずっと。あんたは!」
「わたしたちのことは、ほうっておいて」
汚らわしいことをしているのは、親子だからかもしれない、と思ったけれど、その言葉は唇からうまく出てこなかった。夜毎、触れて娘の肌を汚す前に、ひざまずいて祈るように頭を垂れる、淳悟の暗い姿を思いだした。祈りのような。わたしたちの。あいのぎしきを。
娘は、父の汚れた神だ......。

実際、この後の会話の中で、腐野淳悟は、「血」の中、つまり、腐野花の血の中で、自分の父親、母親の、魂は生き続けている、そういう信仰にも似た確信をもっていることを、花に話す場面が描かれる。
さて、さらに話はさかのぼり、腐野花が、地震の被災をする場面である。ここは、とても、丁寧に描かれている。
花は、大津波にあうのだが、前の家族の中で、彼女だけが生き残る。

おじいさんのしわだらけの指のあいだから見た、最後の情景を思いだした。自転車を放りだして、お兄ちゃんがみんなに駆けよった。お母さんは腰を抜かしたように動かなかった。茶色いパーマヘアがぶわっと舞いあがった。波がやってきて、折り重なるように揺れて、ほんの一瞬後には波と一緒にいなくなってしまった。
ほんとうの家族だけで、海の向こうに行ってしまった。

前に、最近の、宮崎駿のアニメの「崖の上のポニョ」について書いたが、私が、強烈な違和感をもったのは、海が恐怖の対象として描かれていないことだった。私は、これだけの理由でも、このアニメは、根本的な部分で欠落していると思った。
海の、水の恐しさをこそ、たんに、そういうものとして描かない(でもよく考えたら、コナンでもそんな感じだったわけだし、あんまり言ってもね)。
この話は、一見、腐野淳悟という男の、性癖などの、欠陥の話のように見えるが、どうしようもなく救われていないのは、むしろ、花の方だろう。花の精神は、一度として、この因縁から自由になっていない。
地震について、最近も書いたが、地震は、根源的にその存在を揺さぶり、問い直すことを求める。花は、地震に直面したすぐ後に、腐野淳悟につれられて、この場所を離れるが、このことは、彼女の精神にとってどうなのだろう。地震からの回復は、絶望的なまでに、長時間をかけて行われる必要がある。多くの身の周りの人の死に直面する地震に対し、たんに、そこから目をそらすことは、表面的な隠蔽でしかない。

私の男

私の男