笠井潔『熾天使の夏』

笠井潔といえば、推理小説評論などをやっていて、ミステリ関係の人という感じであるのだろう。
昔、柄谷さんとの対談をやっていて、その本を読んだときに、興味をもって、『バイバイ・エンジェル』と、『テロルの現象学』は読んだ記憶があるが、なにぶん、昔すぎて覚えていない。
最近では、カッパ・ノベルズだったかで、『国家民営化論』というのを、書いていて、読んだ記憶がある。ただ、中身は、比較的、無難な、ものだったのではないか。ハイエクや、ミルトン・フリードマンの、自由主義を、ノージックが(読んでないけど)、形式化していく。そういう延長で、こういうことは、柄谷さんも、一時期、言っていた。そういう流れに、呼応したものだったのかな、とは、その頃は思った記憶がある。
あと、本の最後で、竹田青嗣が、解説している。竹田さんと笠井さんとの、長いつきあいの話が書かれてある。たしかに、思いだしてみれば、同じようなことを、言っているような感覚はあるが、どちらかと言うと、竹田さんの方が笠井さんの、初期の作品の影響下で、仕事をしている、という印象が近いのだろう(性格の違いを竹田さんは強調してますね)。笠井さんの提示された問題意識の中で、考えてきたところがある、ということでしょうか。
さて、この作品ですが、矢吹駆シリーズの、第ゼロ作と、作者が、あとがきで言うように、『バイバイ・エンジェル』と同じ頃に書かれたものの未発表原稿の、ほぼそのまま、を、あらためて公開したもの、ということだそうだ。
彼の、若い頃の、新左翼体験を、小説にしたところがあるのだろう。まあ、彼にとっては、この新左翼体験は、あらゆる、出発点みたいなものなのだろう。
主人公、矢吹駆は、かつての左翼運動の仲間との関係を絶ち、ビル清掃のような、仕事をしながら、ひたすら、読書と瞑想の生活を続ける。そんな彼の元に、かつての仲間があらわれる。
憑二は、次の世界戦争は、南北戦争となる、という。一部の北側の金持ち国家だけが、富んで、南側の多くの国は、飢えてどんどん、子供たちが死んでいる。この状態で、なにが個人の幸せだ、というわけだ。
しかし、この問題に対して、著者は、矢吹駆に、答えさせる、という感じではない。むしろ、矢吹駆に、この問題への共感、同じ問題意識を共有させる。

風視、子供たちが死んでいくのはなにも昨日今日に始まったことではない。歴史が明暗の境界へと沈み込む途方もない大昔から、いつだって子供たちは虫ケラのように死んできた。飢餓で、疫病で、虐待で、戦争で数限りなく死んできた。その屍体はうんざりするほどの量で地球を埋めている。人間の受苦は果てることがない。
だから革命なんだ。革命は絶対を渇望する。過去、現在、未来の餓死する子供たち全員が一人残らず救出されるか、見捨てられるかだ、中間はない。百人でも、百万人でも同じことだ。限られた数の子供の飢餓から救い出して満足する人間は、慈善家ではあるだろうが革命家ではない。

もしも革命が存在しないのだとしたら、すべての死者たちは無益に苦しみ無益に死んだことになる。それほど恐しいことが他にあるだろうか。

もしも革命が不可能ならば、一切は無だ。拷問した者とされた者、殺害した者とされた者、陵辱した者とされた者、歴史上のあらゆる悪とその犠牲者たちは虚無の底に没する。審判は行われず、贖いも存在しない。どのような悪事も、やり得ということになる。すべては許されてしまう。なにをしてもかまわないというわけだ。

もしも革命が不可能なら、ほんとうに不可能だとしたら、無意味な苦悩と悲惨に充満した世界など、全的な破滅にむけて駆りたてられて然るべきだ。もしも革命が不可能なら、卑劣な殺人者と抑圧者を皆殺しにしなければならない。この世界を破滅の淵に引きずり込み、地獄の業火に叩き込んでやる。マイナスを零に、虚無に返すことだけが、まだ残されている唯一の積極的行為となるだろう。そうする以外に、この灼けつくような憤懣を解消することなどできそうにない。もしもすべてが許されているなら、無意味な世界を総破壊の運命に直面させること、それが革命の可能性を剥奪された革命家の最後の義務だ。

こうやってみてくると、革命の観念にとりつれた存在にとって、「革命とは可能なのか」という問いこそ、すべてを問いかけるものとなっている。
なんか、ゲーデル不完全性定理みたいですね。カントールの楽園、集合が数学にとって、欠かせないものとなったとき、いろいろと問題のある結果が生来するようになった。そもそも、その数学のやっていることは、論理的に矛盾の発生しない、安心して、真理を探究できるものなのかが、問題となった。
ただ、この問題は、ゲーデルによって、奇妙な回答が与えられる。つまり、自体系の中で、自体系の無矛盾性を証明することは(普通に解釈すると)相当難しい、というような結果だ。
ここから、例えば、現在、最も一般的な、集合論の体系、ZFC、にしても、その体系が矛盾がないなど、まったく証明されて「いない」のだ。
よく、選択公理の独立性が話題になる。ZFに、選択公理をつけ加えた場合も、選択公理の否定、をつけ加えた場合も、両方成立する、というわけだ。しかし、これは、「もしも集合論の体系ZFが無矛盾なら」ということですからね。
さて、数学の楽園の話は、どうなったんですかね。最近のコンピュータの発展とともに、そもそも、なにをやっていることになるのか、というようなことなんじゃないでしょうか。
では、そもそも、革命とはなんだ。革命によって、なにが変わるというのだろう。
小説の方では、同士の一人として、ある少年がでてくる。

あと二分。
不意に葦男の言葉が甦る。「あいつら全部を殺したい」
山奥で起爆装置の実験を終えての帰りだった。東京に戻る列車は、行楽帰りの家族連れで混雑していた。車内には薄い疲労感と充実感が漂っている。満足そうな母親、疲れて眠る子供、貼りつけられたように鷹揚な微笑で強張らせている父親。円満な家族と仄かな幸福感がそこには流れていた。
なにを羨んでいるのだ、葦男、幸福な家庭など存在しないことをおまえはまだ知らないのか。どんな生活も地獄だ。どんな家庭も見えない惨劇と不幸を秘めている。おまえが敵意をこめて羨望するほどの幸福が、連中の掌のなかにあるわけではない。
「自信を持っているやつ、自分のことを正しいと信じているやつ。幸福だと思っているやつ。やつらの眼の前に、ほんとうの世界を叩きつけてやりたい。そうだ、俺の爆弾を投げつけてやる」

矢吹駆にとって、この葦男という少年は、他者として、みえていなかったのかもしれない。

熾天使の夏 (創元推理文庫)

熾天使の夏 (創元推理文庫)