宮台真司『14歳からの社会学』

こういう「子供に向けて」、なにかを語る、というスタイルをとる作品に、永井宏さんの一連のものがありましたね。そして、故人の池田晶子さんの一連のもの(ほとんど、読んでませんが)。
こういう本の特徴は、具体的な「その」子供がどういうことに悩んでいるか、どういう壁にぶつかっているかに関係なく、大人である自分が言いたいことを、放言している、という特徴がある。勝手に子供「一般」にとって、良かれ、と思って、ということ。
子供の頃、革命家を目指していたと自称する著者は、大人になるにつれて、そんなバカバカしいことは、やめた、が口癖だ。
しかし、その口振りの、はしばしから、かなり、危ない発言が、ポロポロ出てくる。そこが、この人の特徴じゃないだろうか。
最初の頃の、『終りなき日常を生きろ』から、ずっと、そうだ。
昔は、共同体(共通前提)があった。けど、今は、なくなり、脱社会的な危険な存在が、多発するようになった。世直しが必要。
まさに、原始共産社会論、転向左翼、だ。
昔はバラ色(共通前提、があった?)、でしょうか。今は、そんなにダメでしょうか。
私は、幻視だと思う。むしろ、変わったのは、テクノロジーなどによる、労働環境の変化であり、経済的な問題こそ本質だと思う。
転向左翼、らしく、エリート主義なんですが(そしてそこが、宮台さんが、最も、読者に共感されない部分だと思うが)、今回のこの本は、そのあたりの考えをかなり細かく、言い訳している。

「幸せは人それぞれ」。都会には都会の、田舎には田舎の、エリートにはエリートの、大衆には大衆の、幸せがある。多くの人が幸せになれるルールを考えることがエリートの幸せだ。大衆は、専門的なことはエリートに任せて、それぞれ幸せになる道を考えればいい。
これは、長い目で見てぼくたちの「選ぶ能力」を上げる方法だ。民主制を否定するんじゃなく、うまく機能させるために、みんなで決めるんじゃなくて「エリート」が3つくらいにルールの選択肢をあらかじめしぼって、大衆に聞く。さもないと失敗をくり返しているうちに死んでしまう。

「民主主義なんて危なっかしことを、やってたら、みんな死んじまう」。すごい脅し、ですね。言っていること以上に、この脅迫、ですよね。
当たり前だが、実力がある人のその実力を、認めるのは、人間として、当然でしょう。それが、「専門家」というものですね。
今の社会だって、そういう専門家の発言は尊重されている。
しかし、彼にとって、それでは、不十分なわけだ。

実例を挙げよう。ドイツでは小学校高学年の段階で、エリートになる学校に行くかどうかを決める。エリートにならないと決めたら、そのあと早い段階でどんな仕事に就くかを決め、専門的な訓練を始める。小学校高学年の段階で決めて、あとで選び直す子もいる。
多くの子どもはそこで決めた道を歩む。親や子どもは、絶えず選択に迷ったり競争したりする必要を、まぬがれる。いつまでもエリートを目指して競争するのは、つらい。だったら、さっさとあきらめて、あきらめたあとは自己を卑下せず、エリートを尊敬するのがいい------。

これが、彼の「革命」。こんなことを陰で意図して「ゆとり教育」が行われていたのなら、クーデターそのものでしょ。
しかし、たちが悪いのが、「みんなに良かれ」と、本気で、思って言ってることですね。
東アジアは、科挙の伝統がある。これは、朱子学の考えそのものを体現した制度であるが、宮台さんのように、各個人が格物究理をすることを「無駄」とは、決して考えない。志に目覚めた人が、いつでも始めればいいだけでしょう。
しかし、宮台さんが言いたいのは、そういうことではないわけだ。国家によるエリート教育は、国家にとって都合のいい、国家にとって役に立つ、そういう存在を手軽に低コストで集められる。効率主義的に当然なんだ、という、実に、「国家の側の気持ちになって考えた」優等生的な、結論、ということなんじゃないだろうか。
最近は、宮台さんは、ネオコンを評価する発言を連発している。ネオコンは有名なように、トロツキーの革命思想で考えていた連中の「転向組」。発想としては、近いものがあるんでしょうね。
社会にとって、いいこととは、社会が無駄がなく、効率的にまわっていることなんだ、と。
このことは、後半の、近未来SF小説を紹介する部分につながる。
彼の主題の論点は、未来社会においては、現在の、善悪、倫理観、が今のまま、あると考えるべきでない、その時代に適応した、そういうものになっている、という所のようだ。
要するに、自分が主張している、エリート主義などの政策も、いつかの未来の世界では、常識になってるだろう、こんな所ですかね。
そんな、エリート主義にこりかたまった著者が、人間をどういうふうにとらえるべきかを書いている部分ですが、キーワードは、「幸せ」と「承認」。
「幸せ」というのは、だれもがこれを目指している、という意味で、結論として、もちだされる。しかし、その具体的内容は個々に、それぞれある、というわけだから、無定義用語みたいなものだ。しかし、なんだか知らないが、「なにか」そういうものが、あるんだ、ということが前提、ということが主張のキーなのだろう。
そこに、エリートたちの、大衆操作のポイントがあると言いたいわけだ。
ただ、もう少し積極的なことを言わないと何も言っていないのと変らないからと、もちだされるのが、「承認」。「人は他人に承認されることを支えに生きている」、というわけだが、かなり積極的な内容だ。その積極的な部分が気になる。
エリートになれなくても、「承認」というなんだかわかんないものを補填すれば、大衆は操作できる、そういう処方箋に聞こえる。
単純に、コミュニケーション、とか、コミットメント、でどうしていけないのだろうか。
前半では、「気が合わない奴となんで仲よくしなければならないのか、こんなの大人のウソだ」、みたいな、処世術が繰り返し、語られますね。
この辺りが、子供の頃、何度も転校を繰り返した、という彼の、心性を表しているんですかね。
中学の頃、不良で学校も休みがちなクラスメートが、それでも、授業に来て、たまに、ちょっと話したりすると、あれっと思うような意外な一面を見たりしたことがあったのを、ちょっと思い出した。みんな、いい所があるものなんであって、それが当然でしょう。そして、なにをやるにも遅いなんてことはない、これも当然。
今回の本の、特徴は、中盤の、母の死を語る部分ではないだろうか。しかし、つい最近の出来事のようで、うまく整理できていない印象を受ける(儒教だと、喪に服す期間は、長くて、3年くらいあるのだろうか)。
たとえば、母親と生前いろいろ話をしていたので、生命維持装置をつけるかどうかを、医師に尋ねられたとき、母に相談なく、自分で、やめてくれ、と回答した、というエピソードが語られる(これだけ読むとかなり異様だが、後で、事後報告の反応で問題にならなかったことは書いてある)。ようするに、死について、いろいろ話しておくことの重要さを強調されたいようだ。
そこで、上記の、「幸せ」についてですが、(私には分かりませんが)ギリギリの最後まで、自分の意志でなにもかもを決められたなら、それだけで、あと望むものなんてないんじゃないんですかね。
「幸せ」とは、意志、ではないか。そう言ってしまうと、周りの人の無力感を増すことにしかならないかもしれませんが。
でも、先に、この世を去っていく人たちの、意志を、継承して、残された人たちが生きていく。やってることは、昔も今の変わらない気がしますね。

14歳からの社会学 ―これからの社会を生きる君に

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