保険・年金問題について

ちょっと前の、videonews.com で、後期高齢者医療制度、についての、検討を行っている。
基本前提として、二つの視点がある。

  • 年寄りは、仕事ができなくなり、税金を払えなくなるし、病気にもかかりやすくなるのだから、当然、社会保障のお世話になる割合が、若者より、大きくなる。

しかし、

  • 少子化の流れが続くこと、つまり、ピラミッド型の人口構成が、逆ピラミッド型に変わる流れにおいて、若者が、年寄の、面倒を見るこの構造の維持は、難しくなる(同じことは、年金にも言える)。

人口の変化は、なにも、昨日、今日、に始まったことではないだろう。前から、ずっと分かっていたわけだ。だったら、長期的に、こういうリスクに備えてくればいいではないか。なんで、ギリギリまで、なんの手立てを打たずに、ここまで至って、背に腹は変えられないって、そういう議論になるのだ。
この辺りについては、

  • 予算が、基本的に、単年度主義、になっている

ことも、影響はしているのだろう。
ただ、神保さんの議論は、後期高齢者医療制度、なにが悪い、というニュアンスの主張をしていた。
ようするに、前のでは、たちゆかなくなったから、変えたという意味で、ここからの後退は、絶対起してはいけない、というレベルの議論だ。
これは、地球温暖化の危機をあおる、環境活動家の振舞いと同型と言えなくもない。今日、ここに至った限りは、なにかをやらなきゃならないことは「確か」なのだから、それ以外ごちゃごちゃ言ってんじゃねえよ。なんにも知らねえ庶民は黙って環境家の言うことを聞いてろ。
しかし、これは、国の財政を中心に見るから、そうなるだけで、各個人の、負担する側にしてみれば、逆である事実は変わらない。だれ一人、この改正で、いい思いをしていない。
もちろん、病院をまるで、世間話をするためのサロンのように使っている年寄の、国家財政への、感覚のなさを、多少でも抑止するんだ、というなら聞えはいいだろうし、そういう側面は必要なのかもしれない。そういう側面では、むしろ、こういった改革に徹底して反対してきたのは、医者たちだった。患者が少なくなれば、病院経営は、厳しい経済競争にさらされるだろう。これも、いままでの、病院さえたてれば、がっぽがっぽ、お金がたまる、制度がどうかしていた、というわけだ。
もともと、年金、や、医療制度は(以前のこの番組でも話題にされていたが)、国が、戦前に、戦費調達を目的に、導入した制度ですよね。この制度のよさは、立ち上げ時は、けっこう、国にお金のプールが作れて、自由になる、ということですよね(当然、その逆が、必ず、まちかまえているわけなんで、いつか、ツケを払わされることになる、というわけだ)。最初から、うさんくさい、制度であることには、変わりない、ということなのだろう。
最後の方で、宮台さんが、むしろ、問題は、その逆進性、なんだと言っていたが、これが、正論なのだろう。実は、医療費の、国民、3割負担、というのは、先進国の中でも、かなり、負担率が高いのだそうだ。健康保険にしても、そうだが、国民、ほぼ、一律固定でしょう(多少は、逆進の考慮はされているのかもいれないが)、つまり、どんな金持ちも、貧乏人も、同じ値段を、ひったくられる。
宮台さんは、ロールズの、正義論の議論との並行性に注目していた。ロールズは、「正義」の観点から、相続税、100%を主張した、という。
国民が、不満に思ったのは、この逆進性に対してでしょう。世代間の対立とか、ピント外れのことを、番組でも言ってたが、そういう議論の誘導には、どこか、意図を疑うものがある。
なんで、まったくお金に困っていない、家庭と、なけなしの、年金が、「もらえる」との国の約束を信じて、そのお金で、なんとか、生活設計を立てようとしている人が、同じように、勝手に、国の都合で「天引き」なんだ。
お前たちが、払うって、約束した、お金、じゃないか。なんでそれを、同じ条件で、「なしよ」にされるのを、指を加えて、黙ってなきゃなんないんだ。
こういったことは、むしろ、「信義」の問題ですよね。勝手に約束をホゴにして、シラッと、「国家存亡の危機」だと。こんな国家滅びちまえ(神保さんに「左翼」扱いされちゃいますね。だからどーした、だが)。
そして、あい変わらずの、大きい政府か、小さい政府か、の二項対立である(こういう単純化をもちだす連中は、たいてい、小さい政府派、だが)。
一つだけ言うと、政府の非効率を糾弾する側は、小さい政府派、になるだろう。だから、神保さんの、議論は、最初から、小さい政府派、への誘導尋問的なところがある。
もともと、「セーフティ・ネット」、って言葉、嘘、でしょ。小さい政府派、が金科玉条のように、もちだすわけですね。でも、あんたらの主張って、これを、いかに小さく抑えるか、の「ための」議論でしょ。こんなもの、存在しないのと変わらないくらいに、小さくなるから、小さい政府、なわけでしょう。
もちろん、小さい政府の考えには、大事な視点がある。それは、この考えが、個人の自由の制限に反対する面があることだ。多くの税金で、国民を縛ることは、むしろ、国民の自由な活動を制限している、と言えなくもない。
むしろ、社会は、お金をたまたま持つことのできている人たちによる、自主的なボランティアによって、福祉というのは、行われていくものなのではないか、そういう考え方もできるわけだ。
だから、むしろ、国家がさまざまに、税金などで多くの国民の自主的な活動を縛っているから、これだけ、ボランティア、国民の国民に対する援助が活性化しないのではないか、と。
日本は、NGOが弱体ですよね。また、ボランティア活動も、小さい。こういうことをやっても、普通に税金で、しぼられるだけなんだから、実りが小さいんですね。そんなに、税金のとりっぱぐれが嫌なら、国が、代わりに、こういうことをやるんだろ、と、国民が考えるのも、無理はない面はある。
先ほど、日本の保険料、3割というのは、世界中を見ても、かなり高い、という話を書いた。あれっ、と思わないだろうか。日本は、「中福祉、中負担」だったんじゃないのか。なんで、「低福祉、高負担」になっているのだろう。
政治家の、言葉遊び、にまどわされるな。「中福祉、中負担」とは、何の魔術か。ようするに、両方とも、真面目にやらないという宣言なのだ。国家による徹底した、仁政の実現も、国民自身による、自発的な相互扶助のサポートも、どちらも、絶対に真面目にやらない、という宣言なのだ(両方とも、いわゆる「国益」に反する、という国家主義者の発想だ)。
国家とは、常に、国民を「生かさず、殺さず」のギリギリの、ところを、さまよわせることを、あらゆる手練手管を使って、強要してくる。いつでも、いい思いをしているのは、真面目に日々を信義を大切にし、生きている国民を、こういう国家に売りとばし、国家にコビを売る、国家主義者、たちだ。