救急患者の搬送拒否病院問題

救急患者を、病院側が、いろいろな理由をつけて、受け入れを拒否し、患者に、緊急に必要な治療をほどこせなくて、重大な問題になっている、というケースが頻発している、という話を聞く。
この現象の背景に、何があるのか。
そもそも、病院というのは、患者が来てくれるから、経営が成り立つ場所なのだから、なぜ、受け入れ拒否などという現象が起きるのか。
一つ疑われているのは、そういう救急患者は、多くの場合(わざわざ、緊急の診察、治療を要求してくる位ですから)、大きな障害のリスクもある(命の危険もあるかもしれない)。
そういう、大きなリスクをもった患者の場合、診察や治療で、あまりいい結論にならないと、患者側に不満が噴出する危険がある。近年では、それは、民事法廷の場で、争われる。そうすると、病院としても、こういうめんどうにかかわって、多くの時間と労力をさかれることを、避けたい、というモチベーションになる、というわけだ。
ひとつ言えるのは、そういうことは、普通は、金銭的に解決される、ということだ。診察料を高めにもらうことで、そういうリスクをヘッジしてもらう、という方向しかないのだろう。
ただ、ここに、いろいろな、感情のわだかまりが、からみあう。
まず、なんで、今、こんなに医者が不足しているのか、という問題がある。医者が不足するから、こういうことになっている、という言い方は、間違ってはいない(逆に、そういう訴訟のリスクの低い、歯医者みたいなのが、やたら人気だったりする)。
他方では、一般の人の側の、医者に対する、期待の高さがある。
学校の先生でも、弁護士でもそうだが、こういった、困った人を「助ける」ことを(国家資格によって)行う人には、国民の側には、どうしても、隠れた期待をもたざるをえない。
韓流ドラマの、「ホジュン」では、自分の全生涯をなげうって、病気や怪我に苦しむ人を助けることを、生きがいにする人間が描かれる。
もともと、病気の治療に、経済原理がなじむ話なのか、というのは、やはり、ずっとあるわけだ。
これは、昔からある議論の、教師は「聖職者」なのかどうか、の議論と、同型なのだろう。
TBSドラマの、金八先生にしても、どう見ても、彼の職分を越えて、生徒の面倒をみている。なんで、あそこまでやるのか。教師の仕事は、勉強の知識の伝達さえ、マニュアルにそって行えればいいのじゃないのか。これしか要求されてないんじゃなかったのか。
しかし、生徒たちは、そんな、勉強の知識だけを、どれだけ、身につけようと、それだけでは、なんの結論にも至りえないような、人生の方向の選択を、どんどん、迫られる存在なわけだ。
もし、学校の先生が、子供のプライバシーに、一切、かかわろうとせず、子供たちの間で、いじめがおきようが、なにがされていようが、知らぬ存ぜぬを貫き、(一切を警察案件で処理して、)教室で、勉強の知識の提供だけをするようになったなら。
もし、医者が、たんなる、経済原理だけで、行動を始め、目の前の、死にかけている人を、たんに、もうからない、という理由で、かたっぱしから、見殺しにしていくような、現象が、日本の各地で、起こり始めたなら。
だから、こういう現象が、起き始めている、というのが、掲題の現象、なんでしょうね。
しかし、もし、そういった現象が、露骨に現れるようになったときに、いつまで、国民は、この、教師や、医者や、弁護士の、さまざまな、国家による保護、優遇措置を盲従し、黙認し続けられるだろうか。
そもそも、この、教師や、医者や、弁護士に対する、資格制度に、真っ向から、反対していくムーヴメントとならないだろうか。
戦後民主主義的な、国民の、平等感覚が、急激に失われ、どれだけ、小金をもっているか、が、その人が、どれだけ、人間らしいか、どれだけ、獣に近いかの、どれだけ自分が友達としてつきあうにふさわしいかの、目安になっていく。
昔ながらの、階級社会に近づき、やがてまた、下剋上の日々が、始まるのかもしれない。