再び右的なものについて

以前にも、このテーマのような内容について、書いたことがあるのだが、改めて、書いてみたいと思う。
その前に、ちょっと前に、紹介した、宮台さんの本について、この視点での、総括をしておきます。
私は、そこで、いろいろ書かせてもらった不満点以上に、「この人とは考え方が違うな」と思った点、があります。
それは、以下にこそ、典型的に現れています。

こうした「精神主義」を体現していた思想集団に、日本浪漫派という文芸スクールがあります。日本浪漫派の人たちは、「必ずしも戦争に勝つことが本懐を遂げることではない、たとえ戦争に負けてもそこに詩があれば本懐を遂げたことになる」などと論じました。橋川文三の表現でいえば「滅びの意識の自然な流露」ですね。
戦争中、出征するしか選択肢の無かった当時のインテリ学徒の中には、いわば精神的勝利法として、こうした議論で自分を納得させて戦地に赴いた人も少なくなかったのです。でも、どうですか。馬鹿げていませんか。どこか滑稽ではありませんか。外的視点から言えば、単なる「幼児のエクスキューズ」でしょう。ありえない。
ところが戦争中の日本では、そうした日本浪漫派の主張を本気にして「本懐を遂げるべく死にに行く」振る舞いが、現実にあったわけです。しかし、「戦争に負けても詩があればいい」といったタイプの日本浪漫派にとっての国益と、計算可能な国民益からなる近代的な国益とは、言葉は同じ「国益」でも、似て非なるものです。むしろ正反対です。
私も国益に貢献したいと念願する者ですが、日本浪漫派的な国益は、死んでも願い下げです。みなさんも、そうでしょう。馬鹿でなければ(笑)。

亜細亜主義の顛末に学べ―宮台真司の反グローバライゼーション・ガイダンス

亜細亜主義の顛末に学べ―宮台真司の反グローバライゼーション・ガイダンス

だとしたら、この人は、なぜ三島由紀夫をもちだすのでしょう。右的なものの、何を評価しているんでしょう。
この人こそ、私の定義する意味での、典型的な、「転向左翼」じゃないでしょうか。言ってることが、完全に左翼的発想なんですね。この人の場合、ホンネは、「右なんて、思想ですらない、たんなるネタであって、派閥闘争的に、重宝してるだけ」、でしょう。
彼が、金科玉条のようにもちだす、アジア主義にしても、以前、

近代日本の国体論―“皇国史観”再考

近代日本の国体論―“皇国史観”再考

という本を紹介しましたが、これを読むと、うまく、整理されていますよね。
大川周明アジア主義が、どういうふうに、戦争末期に、評価されるようになっていったか。しかし、書いてあるように、むしろ、それは、戦争が佳境に入っていった後の話であって、それまでは、論客といえば、蓑田胸喜や、平泉澄、でしょう。
平泉澄、については、丸山眞男、や、網野善彦、こそ、彼と思想的に戦ったわけですね。
平泉澄は、ヨーロッパ留学後、に、旺盛な活動が始まるわけです。クローチェ、を評価する彼ですが、まさに、キリスト教を、なんとか、日本の、天皇教、にすることを、目指したんですね。それが、「ヨーロッパの近代化に追い付く」という意味だと、本気で、思っていたということなんだと思います。そもそも、日本の武士の概念には、昔のキリスト教のトラウマが反映しているんで(そのことは、以前書きました)、なじみやすいんですね。
そのため、日本の、天皇教は、極端なまでの、偶像崇拝的な、アラヒトガミ信仰、になりました。
また、平泉澄の主張は、極端な日本精神主義なので、そもそも、本質的に、他のアジア人・アジア文化に、排他的なんですね。しかし、それじゃあ、多くのアジアの植民地の人たちを、日本のために、戦わせる、モチベーションをもたせることには、つながらない。
そういう意味で、大川周明は、官僚に、戦争末期、重宝された、ってだけでしょう(蓑田胸喜や、平泉澄の評価については、また、いつか書きましょう)。
宮台さんは、丸山眞男のエリート主義を継承する立場を上記の本で、明確化しますが、この文脈で言うなら、宮台さんの場合は、いわゆる、エリート主義というより、大衆侮蔑主義、に近いんじゃないかな。
とにかく、大衆的なムーブメントを、「田吾作」と言って、けなす、だけ。
丸山眞男は、戦後、一貫して、近代日本思想のトレースを続け、「忠誠と反逆」のような論文を書くわけですね(宮台さんは、丸山眞男主義者をきどっていても、実際の、丸山眞男は、全然、違うと私は思ってるんですけどね)。
宮台さんは、なぜ、日本は、愚かにも、勝目のない戦争をしてしまったのか、と問うわけですが、その結論は「国家が愚民によるポピュリズムに迎合するしかなかったから」と断定します。ようするに、愚民全否定。「愚民よ、たのむから、エリートの邪魔をしないでくれ。そうでないと、お前たちだって、不利益をこうむることになるぞ」。
こうやってみてくると、愚民否定というより、日本全否定、ですよね。日本人の、太古から、えんえんと受け継がれてきた、生きる知恵のようなものへの、なんのリスペクトもない。
社会学だかなんだか知らないけど、欧米から直輸入の、あやしい、国民操作術を、ザ・学問、っていわれても、それなんの話って感じでしょ。あんたの学問こそ、一体、いつ正当性が担保されたの?じゃないですかね。

まず、「反近代的価値」云々を自由に主張できるのも、それこそ「敗戦後にGHQの検閲によって、検閲なき社会を達成したから」ではないでしょうか。今日、そのような主張が許されるのも、日本人が自分で達成したことのない「外から与えられた近代的価値」のおかげです。
日本が戦争(第二次世界大戦)に勝っていれば、「反近代的価値」などと主張する呑気な輩は直ちに投獄されて殺されていたかもしれません。

亜細亜主義の顛末に学べ―宮台真司の反グローバライゼーション・ガイダンス

亜細亜主義の顛末に学べ―宮台真司の反グローバライゼーション・ガイダンス

これは、自由主義の価値を証明する文脈で云われているんですが、今、もし、「日本が戦争(第二次世界大戦)に勝っていれば」、という反実仮想に、どのような意味があるでしょうか。
勝っていたら?
むしろ、これは、何を言ったことになるのでしょうか。日本が勝っていた、ということは、どういう状態になっていた場合の、ことを言っているのでしょうか。なんで、こういう表現がでてくるのでしょうか。あまりに、ロマンティックすぎるんじゃないですかね。私は、この人には、本気で、ポツダム宣言受諾まで、日本が、台湾や朝鮮半島を植民地にしていたことの、総括ができてないんじゃないかと思っています(他方、今に至るまで、沖縄が独立国に戻ることにはなっていませんが)。
さて、前段が長かったですが、後半に入ります。
左翼が、18世紀、啓蒙思想の延長にあるものだとするなら、右的なもの、とはなんなのだろうか、ということです。
最初に、谷崎潤一郎の、有名な一節を紹介しましょう。

昔は遊芸を仕込むにも火の出るような凄じい稽古をつけ往々弟子に体刑を加えることがあったのは人の知る通りである本年2月12日の大阪朝日新聞日曜のページに「人形浄瑠璃の血まみれ修行」と題して小倉敬二君が書いている記事を見るに、摂津大掾亡き後の名人三代目越路太夫の眉間には大きな傷痕が三日月型に残っていたそれは師匠豊沢団七から「いつになったら覚えるのか」と撥で突き倒された記念であるという又文学座人形使い吉田玉次郎の後頭部にも同じような傷痕がある玉次郎若かりし頃「阿波の鳴門」で彼の師匠の大名人吉田玉造が捕り物の場の十郎兵衛を使い玉次郎がその人形の足を使った、その時キット極まるべき十郎兵衛の足が如何にしても師匠玉造の気に入るように使えない「阿呆め」というなり立廻っていた本身の刀でいきなり後頭部をグヮンとやられたその刀痕が今も消えずにいるのである。而も玉次郎を殴った玉造も嘗て師匠金四のために十郎兵衛の人形を以て頭を叩き割られ人形が血で真赤に染まった。彼はその血だらけになって砕け飛んだ人形の足を師匠に請うて貰い受け真綿にくるみ白木の箱に収めて、時々取り出しては慈母の霊前に額ずくが如く礼拝した「此の人形の折檻がなかったら自分は一生凡々たる芸人の末で終ったかも知れない」としばしば泣いて人に語った。先代大隅太夫は修行時代には一見牛のように鈍重で「のろま」と呼ばれていたが彼の師匠は有名な豊沢団平俗に「大団平」と云われる近代の三味線の巨匠であった或る時蒸し暑い真夏の夜に此の大隅が師匠の家で木下陰狭いった合戦の「壬生村」を稽古して貰っていると「守り袋は遺品ぞと」というくだりがどうしても巧く語れない遣り直し遣り直して何遍繰り返してもよいと云ってくれない師匠団平は蚊帳を吊って中に這入って聴いている大隅は蚊に血を吸われつつ百遍、二百遍、三百遍と際限もなく繰り返しているうちに早や夏の夜の明け易くあたりが白み初めて来て師匠もいつかくたびれたのであろう寝入ってしまったようであるそれでも「よし」と云ってくれないうちはと「のろま」の特色を発揮して何処迄も一生懸命根気よく遣り直し遣り直して語っているとやがて「出来た」と蚊帳の中から団平の声、寝入ったように見えた師匠はまんじりともせずに聴いていてくれたのである

春琴抄 (新潮文庫)

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弟子は、本当に、師匠がいなければ、世間から評価されなかったのでしょうか。そんなことはなかったでしょう。師匠だって、たいしたことなんてできていないのです。
でも、それは、弟子の立場にとっては、まったく意味が違ってきます。弟子が今、「こうある」のは、師匠との長年の関係のたまもの、なのであって、それなしの、その弟子の今など、ありえないのです。
弟子が、「慈母の霊前に額ずくが如く礼拝」する行為は、野蛮な行為なんでしょう。しかし、彼はそれをせずにはいられないのです。だから、するんですね。死ぬまで、この行為が、やめられることはない。
私は、前にも書いたと思いますが、右的なものの本質は、こういう丁稚奉公的な心性だと、思っているわけです。
私たちは、ある種、過去について、想像する能力を失っているのかもしれない、と思う部分があります。
昔、テクノロジーの発達がまだない時代、生きる、ということは、どういうことだったでしょうか。
たとえば、あるとき、その「私」が、生まれ、町中の、井戸の側に捨てられていた、としましょう。その「私」は、それから、どうやって生きていけばいいのでしょうか。どうやったら、天寿をまっとうできるのでしょうか。
無理なのです。だれかの、その「私」を「生きさせたい」という心持ちがなかったなら、そのことをかなえることは、どんなにあがこうとも無理なのです。
また、そもそも、子供から、大人になったとして、どうやって、食べ物にありついていったらいいのでしょうか。どうしたら、大きくなれるのでしょうか。
大きくなれないでしょう。なる方法がないのですから。
では、どうやって、人々は生きてきたのか。他者に仕えることによって、ですね。他人の役に立つことをすることによって、自分の価値を認めてもらうことによって。ずっと、そういう人間の関係が続いてきたわけだ。
特に、近代テクノロジーの普及するまでは、身の回りの些事を、奉行人によって、面倒を見てもらうことは、ずっと行われてきたことであった。洗濯を考えても、これをやるのに、どれくらいの時間がとられるか。
NHK篤姫でも、大奥の滝山を始め、みんなが、篤姫のために、丁稚奉公をしてますね。
そうすると、この恒常的な関係は、なんなんだろう、と、だれもが考えるのではないでしょうか。奉行する側は、なぜ、この人に、自分は、こんなことをしているのだろう。これには、なにか意味があるのではないか。
当然です。心をこめて、主人に仕えることは、その主人に人徳を感じてるから、なんですね。この人のために、やりたいと思えないなら、続かないのです。
逆も同じです。奉行を受ける主人の側は、なにかの縁で、たまたま、身元を引き受けることになるわけですが、だからと言って、その丁寧な仕事ぶりに感謝の感情を、抱かずにはいられないでしょう。なぜ、こいつはここまで自分にしてくれるのか。
こういった認識を、当時の、京都の商人文化を通じて、論語を介して、整理したのが、伊藤仁斎なんだと、思うんですけどね。だから、仁斎は、そういった人間同士のつながりを、徹底して、肯定したわけだ。
ところが、こういった関係に、さっそく、異を唱えた学者が、すでに、江戸時代にいます。荻生徂徠です。

譜代は面倒ナルモノ也。家内ニテ生マレ出ヅル者ナレバ、幼少ヨリ介抱ノ要ル事也。成人シテモ、衣食ニ附ケ、諸事ニ附ケ、押サヘ扣ヘヲシテ使フ故、世話ニ為ネバ成ラヌ者也。扨我ガ家ニ属シタル者ニテ、外ヘ行クベキ所ナケレバ、見放ス事成リ難シ。......出替リ者ハ一年限リナレバ、悪シキ者ニテモ一年ハコラヘ易シ。悪事アレバ請人ニ渡シ遣ハシテ、手前ノ世話ニナサズ。衣類諸事、皆彼ガ自分ニテスレバ、世話ナシ。年々人ヲ置キ替エレバ、新タニ人ヲ珍ラシク仕フ故、気改マリテヨシ。(荻生徂徠『政談』巻一)

日野龍夫「「謀反人」荻生徂徠」)

丸山眞男は、荻生徂徠、を近代日本の、政治学の始祖的な存在、と評価するわけですね。この辺りで、宮台さんの、丸山眞男評価と、つながるんですよね(宮台さんがどれくらい、荻生徂徠、を意識しているのかは知りませんが)。基本的に、幕末の日本の儒者って、荻生徂徠主義者、ですからね。