巻のサッカー

テレ朝の、日曜深夜の、スポーツ番組で、サッカー日本代表、巻真一郎の特集をしていた。
彼は、ジーコの時、W杯代表に選ばれ、驚きをもって迎えられた。そもそも、なぜ、ジーコは、巻を選んだのだろう。
巻は、どうみても、足技テクニックのある選手ではない。その巻を、クラブチームで使い続けたのが、あの、オシム、である。
ここにも、オシム、のサッカー哲学がある。
巻は、子供の頃は、アイスホッケーの選手だったそうである。父親は、子供に、スポーツの体幹を身につけさせるのには、一番いいスポーツと考えたから、やらせたのだそうである。
巻のプレイの特徴は、その、大柄な体を使った、コンタクトプレー、であろう。彼は、日本の選手にはめずらしく、そういった、相手とのコンタクトプレーを躊躇しない。
日本では、えてして、大柄な人がなかなか大成しない。そこには、なにか、根本的な考え方の間違いがある。
あれだけ、90分間、休むことなく、ひたむきに走り続ける彼の姿、実は、それこそ、私たちにとって、見る価値のある「プロ」のプレーなのだ。
日本サッカーの歴史は、弱者の歴史、悲劇の歴史である。
長い間、日本は、実に勝てなかった。弱かった。それは、サッカー人口が少なかったこともあるし、いい指導者がいなかったこともあり、テクニックがほんとになかった。しかし、彼らは、弱いながらも、何度も戦いを挑み挑戦した。
しかし、Jリーグが始まり、プロという言葉が、はなばなしくなると、若い選手は、どんどんテクニシャンになっていく。その技術は、世界でも認められるようになり、一部の人が、世界の有名なクラブチームで活躍するようにもなる。
しかし、どうだろう。
私が気になるのは、この、上の世代と、今の、若者のサッカー観のようなものに、大きな開きを感じるのです。確かに、若い子は、うまくなった。しかし、その分、なにかを「無くしている」のではないか。
そもそも、サッカーとは、そういうスポーツだったのだろうか。
人間が足でボールを操作することは、日常の動きにはほとんどない、ある種、人間の未知の感覚を呼び覚まさせられるような、ものがある。人間にとって、足でのどうのこうのは、そもそも、へたなのが、当たり前なのだ。しかし、そのへたな足で、操作することが、その神経系に、強烈な変革を強いる。
サッカーは、人間に勝手にボールを蹴りたく思わせるような、快楽を与え、人間を新たな認識へと導く。
今の若い子の、サッカー・エリートに、私は、なかなかそういう感覚を覚えられない。例えば、彼らが、まったく日常において、ほとんど、ボールを蹴ったことのない人と一緒にグランドで、(野球でいう)キャッチボールをやっている姿を思い浮べてみるがいい。まず、想像がつかないだろう。
しかし、それが、ファースト・インパクト、なのだ。
それが重要なのだ。その感覚。ボールを蹴るのがヘタな人も、その蹴る感覚に、強烈な快感をもってくる。それが、「楽しい」のではないか。
草野球という言葉があるが、サッカーは、どこか、サッカーエリートたちの遊びのように見える。
野球では、ライパチという言葉がある。(しろうとではあんまり飛んでこない)ライトを守り、8番で打つということで、まあ、あんまりうまくないけど、人数合わせで、入れる選手だ。しかし、そういう選手と一緒に戦うことこそ、そのチームの勝利の喜びだったりする。それが、チームなのだ。
あまり、しろうとの、サッカーでも、ほんとにヘタな人が試合でやっている姿というのは、そう、みかけない。あいかわらず、キラーパスがどうとか、華麗なコンビネーションがどうとか。
しかし、そういう人が、一人か二人、いることの方が普通じゃないのか。それが、真のサッカー文化が日本に根付くということなんじゃないだろうか。そういうチームで試合ができることの方こそ、喜びと思えることが、正しいのではないだろうか。
はっきり言いましょう。うまいサッカーなど、「おもしろくない」。そんなものは、技術のみせびらかしであり、退屈なだけだ。最後まで、献身的に尽す姿、あきらめずに、ボールを追う姿、みんなのために、自分の身を返り見ず、屈強な相手の間に、飛びこんでいく、その「勇気」が人に感動を呼び起すのではないか。
オシムが、巻を使い続けたことに、オシムの、サッカー観を考えさせられる。オシムは、その巻とともに、Jリーグで、好成績をおさめるようになっていた。オシムが日本の「日本化」を提唱したとき、多くの人にとって、それがなにを言わんとしているのか、わからなかった。実際に、今までと同じ日本代表にしか、表面上、見えなかった。しかし、その彼のそばには常に巻がいた。
巻選手もだんだんと、年齢を重ね、体が動かなくなり、若い選手に追い抜かれ、引退を考える時期になるだろう。今、ジェフ千葉の試合で彼の姿を見れること、そのことが、私たちに、ある「歓喜」の感情を生み出す。