桜庭一樹『ファミリーポートレイト』

けっこう前ですが、電車に揺られていたら、若いけっこういい所の大学生の男女二人が、話しこんでいた。恋人同士ではなさそうなのだが、最近の若い子は、進んでいるのだろう。男の子の方が、さかんに、女の子の髪の毛をさわったり、体をさわったしている。昔の人間は、周りから、セクハラと思われることを恥かしく思う感性があるから、人前で、いちゃいちゃしないが、今の子供は違うようだ。もっというと、いいとこの大学生なんで、就職しても、いいとこに行けるのだろう。だから、大学生にしてすでに、「上がり」人生確約しているようなもんだ。別に、このまま、学生結婚したって、生涯収入、そこそこの人生確約だろう。男のセクハラなんて、相手次第で、状況が違うにきまってる。気に入ってもらえるなら、なにするものぞの、肉食女子ってわけですかね。
いろいろなことを話している。他の大学に行った友達のこと。就職活動のことも話していただろうか。女の方は、男の方に「子供だね」なんか話していたが、どうも、女の方が、いろいろいじられているうちに、エンジンがかかってきたようだ。ずっと、それから、40分くらい、ほとんど、一方的に話していた。近くに、俳優の事務所があるとか、昔の恋人はこんな人だった、とか。
女性は、ほんとうに、おしゃべりが好きなんだなーと、ちょっと感心してしまった。
あのおしゃべりへの絶え間ない、衝動を内に持っている限り、子育て、に失敗することはないだろう。
さて、掲題の本ですが、今ごろになって、とりあげて、なにやってんだ、という感じであろうが。
著者の思考実験は、どこまでも、続く。
主人公、コマコ、は、5歳のとき、コーエー、から、元ハシ役の女優の母親、マコ、と、逃避行の旅を始める(二階から、血が流れ落ちる残像により、なんらかの事件があったことを示唆されて)。お互い、身元を隠しての身分で、戸籍を隠して、日本中を転々とする。
しかし、この日本において、本当に、戸籍なしで、生活できるのだろうか。
コマコは、一度も、学校に通うことはない。小さい頃から、マコのDVの影響もあったのだろう。一言もしゃべらない子だったが、幼稚園くらいの頃に、よみかきを教えられ、それ以来、本を読み続ける人生を送る。
少し前まで、日本においても、文字の読めない、計算のできない、学校に行ったことのない、人というのは、おじいちゃん、おばあちゃん、世代には、けっこういたのじゃないだろうか。それを異常と言うことは、そう言うことの方が、なにかを無くした世界なんじゃないだろうか。
しかし、その逃避行は、さまざまなことが起き、さまざまな印象を与えるものだが、若く美しかった母親を、年を感じさせるものにするものであったことは確かだ。

「おい、豚」
社長、らしき男の人のが、ママに声をかけた。ママのか細い肩がびくりと揺れた。
「おい、豚。おまえの猫が帰ってきたぞっ」
あたしはうつむいたままズック靴を脱ぐ。
部屋の中には、汗が饐えたようないやな臭いが籠っている。社長がきた後はいつもそうで、これがこの人の臭いなのだろうけれど、あたしは大きらいで、ほんとはいますぐ窓を開けたい。だけど、勝手なことをしたら怒られる。ママが声を立てず泣いている。あたしは図書館から取ってきた本を放りだして、布団に駆け寄った。
ママ。
ママ。あたしよ。あなたの神よ。
「おまえのばか猫が、帰ってきたって、言ってるだろっ。聞こえてるのか。おいっ」
吸いかけの煙草を指のあいだにはさんで、こっちに近づいてくる。額が、脂を塗った鍋みたいにぎらぎらと蛍光灯の光を跳ねかえしている。泣いているママの、肩に、思いっ切り煙草の火を押しつけた。ママがぎゃあっと悲鳴を上げる。社長が片頬で、軽く笑う。
「聞こえてるは、おばはん。おい、三十にもなってろくに仕事もできねぇし、なにかってぇと泣いてばかりで、おまえはつまんねぇ女だよ。まったく......」
ママを痛めつける声は、どっか甘くて、あたしにはその理由がぜんぜんわからない。「一人目は、ろくにしゃべれねぇし。二人目は死産で、なんだっけ、頭がふたつもあったんだっけ」ママの髪を引っぱる。うれしそうに笑いながら。むりやり振りむかされたママの顔は青白くて、痩せたから頬がこけていて、かつてはあんなにうつくしい女の子だったのに、いまではだいぶ傷んでいる。涙で化粧がこけていて、鼻を啜ると首のしわが揺れた。
蔑む、相手に、この男はずっと飢えていて、だからあたしとママは格好の獲物だった。

社長がママを殴ろうとするから、あたしは二人のあいだに無言で割りこむけれど、ばか猫っ、と呼ばれてほっぺたを張り倒される。誇り、がガラスみたいにバリリンと割れて床に散らばる。あたしはあわてて床に這いつくばって、必死で拾いあげようとするけれど、襟首をつかまれて壁に放り投げられ、拾った欠片もきらきら輝きながら虚空に消えていってしまう。
蔑まれて、生きると、誇りが割れる。
割れて、
光って、
飛び散って、いつかどこにもなくなる。
あたしは自分のことを、目の細い、みっともない、残飯食いのばか猫だと感じるようになる。そうなるまで毎日、社長が根気よく言い続けたから。壁にぶつかった頭を、撫ぜながら、目を開ける。あっ、いやだ。ママの顔も牝の豚さんになっている。豚の鼻と、耳と、尻尾がついて、うれしそうに、すがるような目つきで社長を見上げている。豚になったママに、あたしはヒクッとしゃくりあげる。ママは社長のことが怖くて、この人に支配されていて、なにを言われても、くるくるした豚の尻尾を悲しげに振ってみせるばかりだ。
二人の交尾が始まったので、あたしは目と耳をふさぐ。ママの真紅は、昔はあんなにきらびやかで素敵だったのに、いまでは黒ずんで、静脈血のようにどろっと汚れている。部屋いっぱいに、黒が、ひろがる。
ママ、あたしはここにいる。ここにいて我慢してる。あなたの神。疲れきって、埃だらけで、あなた以上に真っ黒に汚れた、惨めな、ちいさな肉塊。それがあたし。慰めになっていても。いまは必要とされていなくても。いつもあなたのそばにいて、けっして裏切ることはない。いつも見守っている、目。あなたのためだけに存在している、命。

桜庭さんの、本当の意味で、作家としての始めの一歩と考えるべき作品は、『私の男』であろう。この作品は、非常に鮮明なイメージを読者に、強烈に焼き付けた。
腐野花の、あの海での、地元の世話役の、おじいちゃんを殺す場面。腐野淳悟が、腐野花と行為をする前の、足元にうずくまり、ひとすら祈りを捧げる場面。
あの、まるで古代ギリシア悲劇のような、強烈なイメージの、始まり、ですよね。ここから、彼女の、本格的な、作品が始まる。
家族を、「パパママ僕」の世界と言っていたのが、ポスト・モダンなら、パパ僕、ママ僕、の世界は、その次の世界なのだろうか。そこにおいては、親は子供の「すべて」になっている。親が子供にとっての「神」であるなら、子供は親にとっての「神」として、ふるまうことを、生得的に、理解していく。
しかし、淳悟が死んだ後、花はどうなったのだろう。それを考えさせてくれるのが、掲題の作品じゃないか。彼女は、読むたびに、答えを用意してくれる。
驚愕は、むしろ、マコ、がコマコが14歳のとき、彼女の目の前で、自殺した後、つまり、その後の、作品の、3分の2、なのだ。
コマコ、は死なない。その後も生き続ける。彼女は、その場ですぐに、実の父親の家にひきとられる。

高校の三年間も、卒業したいまも、桜ヶ丘家の、用意された部屋にあたしはほとんど行かない。返る家はもともとない。ずっとママのとなりの空間こそがあたしの居場所だった。ママが寂しくないように。ママが見下ろす場所にあたしは必ずいた。ママが苦しいときはそれを引き取って、楽にしてあげた。傷だらけで育った。そうしていま、もう十九歳。あたしは人間にもどれなかった。あたしは小鬼。ずっとちっちゃなピクシー。肉体だけがこんなにおおきく育って、いっちょ前になったけれど。なんにも変わらない。ママというひとりの人の孤独を癒すためだけに生まれてきて、生きてきた。ママにこの世においていかれたいまではただのがらくただ。
それなのに。まだ、見苦しく生きている。
十九年も生きさらばえてしまった。

いろいろな自堕落な日々がありながら、彼女は作家となり、子供もみごもる。しかし、なぜ、その後も彼女が生きたのか、生きられたのか。よくは分からない。
彼女は、年齢を重ねるうちに、いろいろなことが、相対化できた、ということなのだろうか。さとりすました、彼女をとりまく、さまざまな周りの登場人物の言葉が、多くの事実性を積み重ねた、ということなのだろうか。
コマコ、にとって、マコ、とは結局、なんだったのか。この作品は、彼女が、34歳のときに、昔の古くさい映像に、昔の母親(つまり、自分)の姿を見るところで終わる。

ファミリーポートレイト

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